永遠
数日の後、ラディウスはアリイの手足と首に毒咒の枷を嵌めて部屋から連れ出した。慈悲として、四つん這いではなく立って歩くことは許した。異民族の神の使いは吸血鬼王に仕える魔術師達の好奇と侮辱の視線や声にも耐え、毅然とした態度で歩いた。
大地の魔王が向かったのは地下牢であった。彼が開いた扉の先にいる者を目にした瞬間、アリイは息を呑んだ。
「ゼフ殿!」
彼はそう叫ぶと、枷の存在も忘れて駆け寄ろうとした。当然ラディウスはそれを許さない。枷の呪いが発動し、両手両足と首に凄まじい重圧を加えられた天使は牢の床に倒れた。
一方で、アリイの声を聞いたゼフは小刻みに身震いしながらも顔を上げ、辺りを見回す仕草をした。彼はまた、片方だけになった手を動かし周囲を探ろうとした。
「アリイさま……? アリイさまは、どこ……」
「ゼフ殿? 私は、貴方の守護者アリイはすぐお傍におりますよ」
顔を上げたアリイは、それまでに見せたことの無い優しい笑みを浮かべていた。それに気づいたラディウスの心には嫉妬の炎が燃え上がった。天使アリイが神官にこのような態度を取るのは恋仲であるからに違いない、と吸血鬼王は考えた。それならば、アリイがラディウスに靡かなかったのも納得がいく。
だが彼が天使をここに連れて来たのは、断じて恋人に再会させてやるためではない。ミカラ神の熱心な信奉者が壮絶な拷問により変わり果てた有様を見せ、アリイの無力さを突き付けるためだ。或いは仮にここで天使が助命を嘆願するのであれば、条件として自ら「恥ずべき振る舞い」を取るように強いることもできると考えたのだ。
「お前達が肌を重ねた仲であるならば、それもそれで愉快なことだ。愛する者が目の前で命を散らす様をよく見ておくがいい」
ラディウスは口元だけの笑みを浮かべ、衰弱した神官に歩み寄ると肩の傷に指を捻じ込んだ。ゼフは絶叫した。アリイは思わず顔を覆い、唇を噛んだ。そして深い溜息を吐いた後、意を決したように言った。
「待て、ラディウス。私にはお前が探す不死の命について話せることがある。これ以上ゼフ殿を苦しめるのはやめてくれ」
アリイが口にしたのは魅力的な提案に違いなかった。不死の力は確かに吸血鬼王の本来の望みだったのだ。しかしラディウスは今やそれすらも素直に喜べなかった。これまで散々甚振られても頑なに口を割ろうとしなかった彼が、一人の神官の為に呆気なく秘密を打ち明けるとは。
「認めよう。まずはお前から語るのだ。私にとって満足のいく情報であれば、その者はお前に引き渡そう」
ラディウスはそう言いつつ、自らの心の内に抵抗が存在することを感じていた。彼の慰めになるのは、神官ゼフは衰弱しきっており、人間の医術では今更手当てしようとも助からず、また引き渡す前に吸血鬼王の操る大地の毒を流し込みさえすれば、天使の魔法であっても命を繋ぎ止める以上の回復を阻止できるということだ。
吸血鬼王にとってはこれも不服な事であったが、彼の承認を得たアリイは嬉しそうに微笑んだ。そして枷の重力に抗いゆっくり立ち上がると語り始めた。
「天使は人間や獣のように心臓と血液では生きていない。それらとは別に命の器が身の内にあり、中の『瑞雫』が尽きれば全身が水のように溶けて死ぬのだ。逆にもし天使が『瑞雫』を保てば幾らでも生きられる」
アリイは自らの体の中心部を指差しながら語った。ラディウスは左手で天使の手を取り、先程彼が差していた場所に右手で触れた。言われてみれば不思議な温かみがある。それに気づいた時、彼の心は再び永遠の命への欲望に傾いた。
「その『瑞雫』とやらを私が飲めば、永遠に生命を維持できるということか」
「術に変えず他の命に直に注いだらどうなるか、私は見たことはない……が、かつて『瑞雫』を得た人間が不老不死の力を身に付けたと聞いている。かれは傲慢になり非道の限りを尽くしたが、大天使の力を持ってしても討ち取れず地の底に封じるより他なかったとも。事実だとしたら、お前のような者の耳に入れば恐ろしいことになる。だから私は今まで黙っていた。念のために言っておくが、『瑞雫』は天使の体の内にある限りは役目を為す度に損なわれるものだ。人や自らの傷を癒すにも、神威を以って悪を裁くにも。それらを為さない生き方は、天使にとって罪だ」
他者の身の内にある液体を啜り尽くす事など、ラディウスにとっては実に容易いことだ。大地の魔王は腹に触れていた右手の指先で、アリイの胸から首筋をなぞった。アリイは身を強張らせ、ラディウスから目を背けた。
「……待ってくれ、先に、ゼフ殿を解放してくれ。私を好きにするのは、その後だ」
天使には既に生命の源を吸い尽くされる覚悟はできているらしかった。ラディウスは殊勝な態度だと感心したが、相手が約束を反故にする可能性は捨てきれないと思い直した。
ともかく、吸血鬼王はアリイの頼みどおりゼフを縛る鎖を魔術で砕いた。放り出された彼は床に転がった。戦天使は神官の背中に腕を回し支えた。
「アリイさま……わたし、めもみえないのです。だけど、あなたのこえだけはきける。だからわたし、しあわせです。あなたのそばでなら、あんしんしてゆけます」
ゼフは微笑んだ。
そして次の瞬間、ぶつりと音を立てて自らの舌を嚙み切った。彼の口からは血が溢れ、蒼白になった顔は赤く染まった。
「ゼフ殿、貴方がそうお決めになるならば……。どうぞ次の旅でも、良き道を歩まれますよう」
アリイも優しい表情を崩さないままそう言った。
「何が起きている?」
ラディウスにとっては予想外の光景であった。あれほど神に助けを求めていたこの人間は、何故愛する者と再会した直後に自ら命を絶ったのか。
「見てのとおり、ゼフ殿の魂は安らぎと共に次の旅に出られたのだ。我々ミカラ様のしもべは、『死』というものをそう呼んでいる」
そう語るアリイの声は動揺や怒りの無い静かなものだった。神官を死に追いやったラディウスを非難する様子はなく、それどころか彼の存在を意に介していないかのようだ。
「死は死であろう。お前達は死後魂は別のものに転生すると言い張るが、如何に次の生があろうと死を迎えることは恐怖と苦痛でしかないはずだ。何故喜ばしいもののように扱うのだ」
「ラディウスよ、旅の終わりが恐ろしいからこそ、私のような者がいるのだ。記憶の全てを継承しているわけではないが、かつて人であったから、人の苦しみを忘れず、人に寄り添う。それが我々天使だ。喪う悲しみはあるが、世界が存続する限り我らはいずれ再会できる。希望は時に忘れられつつも、魂の内で永遠に生きているのだ。さて、約束どおり私を好きにするが良い」
理解が及ばない言葉だらけだった。彼が生きてきた三百年の内に返り討ちにしてきた異民族の指導者の誰も、このようなことは語らなかった。ラディウスは虚を突かれたかのように驚いた。
どこか強いられるように、彼はアリイの服を裂き胸を露わにすると指で触れた。流れ出す毒が身の内を探り、確かに人間にはないものを湛える場所があることを吸血鬼王に知らせた。
道筋がわかれば造作もない。ラディウスはアリイを抱き寄せ首筋に牙を立て、皮膚を破った。『瑞雫』の混じった血は、至高の甘露であった。
吸血鬼王は命の雫を啜りながら、天使の身に熱を湧き上がらせる毒を流し込んだ。アリイは苦しんでいる筈だが、暴れることなくただ苦悶の吐息を漏らしながら耐えていた。
(なるほど、この者に死への恐れは無いのか。或いは……愛する者と来世で再会する希望とやらの前では、寧ろ死は喜ばしくすらあるというのか?)
それに思い当たった瞬間、ラディウスの心には新たな邪念が渦巻いた。彼はアリイの首筋から口を離した。そして全身の力が抜け支えられるままになっている天使の背中と膝をそれぞれの腕で支えて歩き出した。
「なぜ、やめた?」
アリイは半ば呆然としたまま尋ねた。ラディウスは歩きながら答える。向かう先は元の尖塔だ。
「好きにしろ、と言ったのはお前だ。ならば私は、やはりお前が欲しい。永遠の命を手にするのは、この戯れに飽きてからでも遅くはあるまい」
今、この吸血鬼王の目論見は、天使から全ての希望を奪い尽くすことに変わった。彼らに転生があるというのなら、来世もその先も永遠に残るほどの恐怖と苦痛と敗北感を植え付けるまでだ。そうしてこの美しい者への、永劫の完全な支配を成し遂げる。そうなれば、最早愛した者の面影すら浮かぶまい。
新たな愉しみを見つけたラディウスは、凄惨な笑みを浮かべた。
瘴土の魔王と光導の天使 ミド @UR-30351ns-Ws
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