「映画」の映画『雨に唄えば』

 先に断っておくと、私は今作を、恋愛映画や、純粋なエンタメとしては見ていない。


 私が今作を推す理由は、①映画という娯楽の大進化時代を描いている、そして②映画は進化を経て、人々を扇動しうる巨大なメディアとなった、という二つの意味からである、ということを強調したい。


 つまりは、映画を描いた映画として、この映画が好きだ、と言いたいわけである。


 ちなみに②に関しては、作中で直接描かれているわけではなく、この映画で描いた①が後々②に繋がったと言える、という時代背景を踏まえた発展的解釈を示すに過ぎないので、ご注意を。


 まず、劇中で描かれる、「サイレント映画からトーキーへの過渡期」という部分に注目してみる。


 今作を語る上で、切っても切り離せないキーワード、「トーキー」の始まり。


 トーキーというのは、文字通り、それまで映像だけだった映画に、「talk=会話の声」ひいては「音」楽や効果「音」を付加したものである。


 つまり、映像が、音・声という後ろ盾をようやく得たわけだ。


 厳密に言えば、サイレント映画時代にも、銀幕の傍に控えた音楽隊が映像に合わせてBGMを流したり、弁士の肉声による語りが行われることもあったが……


 映像に同調した人の声、という意味では、トーキーが初である。


 このトーキーが今作のストーリーにどう関わってくるかと言うと……


 映画界でのトーキーの流行に乗じて、ある映像会社は、作りかけのサイレント映画をトーキーに作り替える決断をする。が、初のトーキー製作は思うように上手くいかず、トラブル続き。声無しだと素晴らしい演技だった女優の、肝心の「声」が、お世辞にも美声とは声言い難かったので、声だけは別の人があてる始末(これは、「吹き替え」という映画における新たな概念の始まりとも言える)。 


 ここまで聞くと、なるほど、トーキーの誕生によっててんやわんやな映画業界が、描かれているのだなぁ、というドタバタコメディ的な印象を受けるかもしれない。


 が、トーキーというものの本質を突き詰めていくと、これが結構、恐ろしいのである。


 なお、ここからは『雨に唄えば』という映画そのものの分析ではなく、『雨に唄えば』が描いたトーキーというものとそれが流行し始めた時代に対する、考察となる。


 サイレント映画時代、登場人物が何を言っているか、映像から想像するのは観客だった。


 つまり、脚本自体は観客には動かせないのだが、セリフは完全に観客による脳内でのアドリブのようになっており、観客側に裁量権があったということである。


 観客の想像力に委ねられなくなった──ある種の受け取り手の自由を一つ失った──映画は、何かになぞらえた物語、登場人物や組織の置かれた状況、そして新たに加わった表現手段である音──魅力的な銀幕スターたちの名セリフの数々──によって、プロパガンダ装置としての側面をますます強めていく。


 劇中でも触れられる、世界初の長編トーキー『ジャズ・シンガー』が公開されたのは1927年であるが、当時の世界情勢を見てみると、その二年後に世界恐慌が起き、世界経済は大混乱、各国は、自国の損失を補うための諸政策の中で、帝国主義を引きずったさらなる侵略行為、ファシズム、植民地政策を生かしたブロック経済などにより、断絶の色が濃くなっていって、第二次世界大戦へと続くの悪路を進む。


 つまり世界は、対立、生存競争の激しい暗黒の時代に飲まれてゆくわけである。


 各々の生存戦略の良い、悪いは一旦置くとして、とにかく政府は、積極的に舵取りをして国民を同じ一つの方向に向かせねば、上手くいくものも上手くいかないわけである。


 そこで便利な道具となったのが、「映画」である。


 テレビもない時代に、政府の方針を示したり、人々に何らかの知恵や思想を植え付ける手段として、音声という援軍を得て含有できる情報量を圧倒的に増した映画というメディアは、洗脳と扇動プロパガンダのための画期的手段であった。


 新聞などからの文字だけの標語や、ラジオからの音声だけの叱咤激励は、露骨な感じ、押し付け感があって、受け取り手にとっては反発を抱きやすいものである。


 が、映画の物語の中にメッセージを比喩的に詰め込み、魅力的なストーリーに没入させるついでに観客へと注入してしまえば、それは違和感なく受け取り手の脳内、心の中の奥深くに入り込む。


 日本でも、戦うことの美しさ、失うことの儚さ、をポジティブに捉えて、戦争を讃美する映画が数多く作られ、その上追い討ちをかけるように、複数本立ての映画上映の合間には、「敵艦◯隻撃沈!」とか「大日本帝国海軍、◯島に転進セリ」などという嘘っぱち、言い訳的な大本営発表が挟み込まれ、国民の戦闘意欲が刺激された。


 「あのスターが言うんだから、自分も配給制の苦しい生活に負けず、鬼畜米英を叩きのめすべく日々竹槍で案山子かかしを貫かねば」と納得させられたことだろう。


 このように、映画(また他のメディア群)には、慎重に向き合わねばならない側面がある。

 

 もちろん、ジーン・ケリーをはじめとする俳優陣の素晴らしい演技(雨に唄う、あの伝説的シーンは最高です)も、大いに楽しめる作品ではあるのだが……


 やはり私は、今作をエンタメとしてみる以前に、「映画を語る上での映画」と見做さざるを得ない。

 

 今回は、映画の負の側面を語る形になってしまったが、たまにはそんなのもいいだろう。


 私は映画を、当然純粋なエンタメとしても愛しているので、ご心配は無用である(次回は純粋な映画紹介をしますよ)。


 映画を愛しながら警戒する、これはある種の二重思考ダブルシンクなのだろうか?

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私の好きな映画たち 加賀倉 創作【書く精】 @sousakukagakura

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