坂の多い街

ただのネコ

サンフランシスコのあるバーにて

「サンフランシスコには坂がたくさんあるけど、上り坂と下り坂のどっちが多いか知ってるかい?」


 バーカウンターで隣に座った男は、ジン・トニックに口をつけた後、唐突にそんな話を振ってきた。

 自己紹介も無しにぶしつけな、とも思うし、中身もくだらないバー・ジョークだ。

 無視でも良かったのだけど答えてしまったのは、私も少し寂しかったからかもしれない。


「同じに決まってるでしょう」


 そもそも、上り坂・下り坂なんて自分の進む方向によって変わるものだ。分けて数えること自体ナンセンスだし、あえて数えても同じ数にしかならない。

 だが、男はきっぱりと首を横に振った。


「いいや、上り坂の方が一本多いんだ」

「へぇ。どんな坂?」

「俺の人生さ。最近、何もかもが上手く行ってる。事業も順調、身体も好調。それに、こうしてバーで美女と出会えた」


 男が向けてきたグラスに、こちらのグラスを合わせてやる。

 チンという音が消えるまで考え、ちょっと意地悪に返す。


「なるほど。でも今は良くても、いつか下り坂が来るんじゃない?」

「無いね」


 そう言い切って男はジン・トニックを飲み干し、グラスから手を放す。


「もし俺が上手く行かなくなったとしたら、その時は下り坂なんてもんじゃない。地獄の底まで真っ逆さまだ」


 床に落ちたグラスは、乾いた音を立てて儚く割れた。バーテンダーが少し眉をしかめ、ウェイターが素早く割れたガラスを掃除する。

 ウェイターの胸ポケットに5ドル札リンカーンを差し込んで、男はネグローニを注文した。

 そんな初心うぶでもあるまいに、という揶揄やゆをソルティドッグで飲み下す。


「いいわね。うらやましい。でも、やっぱり同じ数だと思うわ」


 バーテンダーがグラスの氷にグリーンフックを注ぐのを眺めつつ、私は上り坂だという男をうらやむ。


「前のカンパニーをクビになってからろくな事がない、下り坂の女がここにいるから」

「求職中?」

「仕事はあるの」


 その仕事がろくでもないから下り坂なのだが。

 愚痴りかけた口を、唇の塩味が止める。と、ここでソルティドッグが尽きた。


「キールをごちそうしても?」

「ありがとう。いただくわ。カシス多めで」


 バーテンダーが冷蔵庫からよく冷えたワイングラスを取り出した。紫のクレーム・ド・カシスの上から、そっと白ワインが注がれ、優しく混ぜ合わされる。


「俺の上り坂と君の下り坂。どっちが強いかな?」

「さあ? 試してみましょ」


 私は一息にグラスを干した。



 〇〇〇



 それから2週間ほどたったろうか。久しぶりにオフィスに出社させられた私は、課長から男の写真を見せられた。


「こいつが今回のターゲットだ。知ってるだろう」


 あの男だと一目でわかった。オフィスでは見たくない顔だったのに。


「バーで会っただけよ」

「分かってるとも。その後どこに行って何をしたのかもな」

探偵プライベート・アイをつけてたの? この私に?」


 ただの一の素行を監視するほど暇な会社ではないはずだけど。

 課長は顔をしかめて鼻を鳴らした。


「お前のプライベートに興味はない。こいつはモリナのをハメて財をなしたそうでな」


 なるほど、地獄の底まで真っ逆さまなわけだ。モリナは港の顔役だもの。


「俺にはただの一夜の過ちだと分かるが、傍から見ればそうもいかん。モリナのやつは処理しろと言い張ってたよ。なんとか処理するので納得させたがね」


 言葉の通りなら、課長に礼の一つも言うべきなのだろう。でも、そんな気分にもなれず、私は黙ったままオフィスを後にした。

 が終わったら、あのバーに行ってギムレットを飲もう。そんな決意をしながら、私は坂を下っていく。


 ここはサンフランシスコ。下り坂の方が多い街だ。

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坂の多い街 ただのネコ @zeroyancat

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