半袖開襟シャツのS
しぇもんご
価値のカタチ
試験と聞くと、高校時代の同級生であるSのことを思い出す。Sは端的に言えば変な男であった。
Sのトレードマークは学校指定の半袖開襟シャツだった。十五歳から十八歳の高校生活三年間を彼は真っ白な半袖開襟シャツで過ごした。
我々が住んでいた場所は滅多に雪は降らないが、冬はそれなりに寒い。今くらいの季節(十二月〜二月)になれば、朝晩に氷点下になることも少なくない。そんな中、Sは半袖開襟シャツで、高校まで約八キロの距離を自転車で通学していた。
朝の駐輪場で凍える彼に私は何度か聞いたことがある。寒くないのか、と。すると彼は決まって「寒いに決まってんだろっ」と叫ぶのだった。そのやり取りをするたびに「ああ今年も冬が来たんだ」などと感慨にふけることは一切なく、普通に「コイツまじでアホだな」と呆れたものである。
そんなSと言葉を交わすようになったきっかけは、一年の一学期に行われた高校最初の試験であった。田舎の高校ではあったが、我が母校は一応進学校を名乗っており、そして私とSはその中でも大学進学に特化した、いわゆる特進クラスというところに在籍していた。「お前達の価値は難関大学に合格してはじめて生まれるのだ。それをゆめゆめ忘れるでないぞ!」そんな雰囲気をまるで隠そうとしない、ある意味清々しいクラスであったので、最初の試験から教師も生徒も随分と気合いが入っていたのを覚えている。
私はそこで難問に出会した。教科は現代文で、ある一文の表現方法を問う問題だ。答えは「直喩法」で、それは分かったのだがどうにも「喩」の漢字が出てこないのだ。それっぽくは書けるが、なんか違う。仕方がないので私は「喩」のところに温泉マークを書くことにした。「直♨法」というわけだ。新しい健康法みたいで、とても好いではないか。
しかし、これに現国の教師が激怒した。わざわざ校内放送で呼び出して、説教をかましてきたのである。若い女性の先生だったのだが、一言目が「なめてんの?」だったことは、二十年以上経った今でも覚えている。三十分ほど説教されて、項垂れて教室に戻るとSがニヤついて待っていた。きっとSの中の怒られセンサーが反応したのだろう。なんせSは怒られ名人である。後に判明したことではあるが、彼は何をしても怒られる。体育でラジオ体操をしているだけで怒られる。本人はいたって真面目だと憤慨していたが、誰が見てもふざけているようにしか見えないのだ。そんなSよりも先に盛大に怒られたせいで、私はSの中で格下(あるいは同格)の扱いとなった。事の顛末を説明すると、Sは目に涙を浮かべて「お前アホだろ」と笑った。懐かしさと共に今でも思う――お前にだけは言われたくない。
それから何かとSがちょっかいをかけてくるようになった。Sはとにかく落ち着きがなく、隣の席になった際は極めて鬱陶しかった。数分おきにニタニタと笑いながら鉛筆の後ろでツンツンしてきては、しょうもないことを言ってくるのだ。それがたま~にちょっと面白かったりすると、思わず笑ってしまい、二人して教師に怒られるというわけだ。小学生か。
そしてこれも理解し難いことではあったが、Sは頭が良かった。当時のクラスメートの大半が同じ感情を抱いていたように思う――なんでコイツこんなに頭いいの?
人は見かけによらぬもの、Sを通して私はその言葉を深く心に刻んだ。
Sは特に数学が得意だった。高一の夏頃には既に難関大学の過去問に手を出していたし、いつだったか「おもろいから読んでみ」と、和算(日本独自の数学)の難問集を私に渡してきたこともある。数ページめくってみたが私にはさっぱりわからなかった。他の教科も軒並み高い点数をとっていたが、唯一どういうわけかSは国語だけは出来なかった。「書いてないのになんで筆者の気持ちがわかるんだよ……」とぼやくSには、見た目通りのアホ可愛さがあったように思う。それでも他の教科が出来るので総合得点では常に学年上位に位置し、順位を張り出した掲示板の一番上にSの名前を見ることも珍しくなかった。
真冬を半袖で過ごし、いつもふざけている様にしか見えないのに、成績だけはすこぶる良い。そんな生徒が目立たないはずもなく、Sはよく他のクラス――普通科の男子生徒に絡まれていた。休み時間や普通科との合同授業の際に、やれ肩が当たっただの、足を踏まれただのと難癖をつけられるのだ(Sは常時フラフラと通行人にぶつかるので難癖とも言えないのだが)。そんな時、Sは大抵半笑いで「わりいっけや」と謝意のカケラも見当たらない謝罪をして、ついでに相手の肩を人差し指でツンツンとつついたりする。これで本人は真剣に場を収めようとしているつもりなのだから驚きである。当然その舐め腐った態度に相手は顔を真っ赤にするものだから、私は仕方なく無言でその場を立ち去り、心の中で「その半袖は赤の他人でございます」と繰り返し唱えるのだった。そんな私にSは「おい◯◯(私の名前)、コイツなんでこんなに怒ってるか知ってる?」と呼びかけたりするわけだ。やめろバカ、巻き込むな。
二年になる頃には学年を跨いでSの名は知れ渡っていた。私は当時陸上部に所属していたのだが、部活の先輩に「お前のクラスにすげー変な奴いるよな?」と聞かれたことがある。またおかしなトラブルに発展したら大変だと思い、私はなるべく穏便にSのことを説明した。「Sのことでやんすね? ええ、やつは正真正銘の変人でさあ。え? あっしですかい? あっしはあの半袖とは無縁でやんすよ。なんせ学ランの下にセーターまで着てやんすから」
必死の長袖アピールも虚しく、その頃には私とSはセット売りになっていた。
二年の夏に勉強合宿なるものが開催されたのだが、そこでも私とSは同室であった。山奥の研修施設に缶詰にされ、朝から晩まで勉強漬けにさせられるという催しだ。当時は地獄としか思えなかったが、一週間近く同級生と寝食を共にするというのは、なかなかに得難い経験であった。
私とSはこっそり持ち込んだクッション性のボールで、勉強の合間に息抜きをした。白熱したPK合戦の末、部屋の備品をいくつも壊して、しこたま怒られもしたが、あれも今となってはいい思い出だ。ただ、あの時のキッカーはSだったことはきちんとここに書き残しておこうと思う。私は悪くない。
そう言えばあの合宿中、Sは決して私より先に寝なかった。私が適当なところで課題を放り出してベッドでゴロゴロしていても、彼はずっと机に向かっていた。チラッと手元を見れば、大抵苦手な国語の課題をやっていた。その背中に「そんなに頑張ってどうすんだよ」と問えば、Sは振り向きもせず「知らねえよ。先寝とけよ」とぞんざいな言葉を返してきた。
あの合宿所は今でも使われているのだろうか。だいぶ記憶が薄れてきてしまったが、笑えるくらい星がよく見えたことだけは今もよく覚えている。
二年の三学期にはマラソン大会があった。我が母校はやる事が極端なので、男子は10kmも走らされるのだ。準帰宅部もとい緩い文化部が大半を占める特進科にとって、こちらの方が勉強合宿より余程地獄のイベントである。そして普通科の運動部からしたら、特進科のいけすかないガリ勉共(特に半袖野郎!)をコテンパンにして笑い物にするチャンスというわけだ。
もうお察しかもしれないが、この後に続く接続詞は逆説だ。だが、しかし、ところがどっこいSの運動神経は悪くない。というかすこぶる良い。おまけに半袖で冬を越した十七歳の肉体は無駄に仕上がっている。物理部なのに。なので、大半の運動部員は彼より先にゴールする事が叶わなかった。スポーツ推薦で入ってきた生徒も多く、こういったイベントは(顧問が熱くなるため)どの部も真剣に取り組むのだが、それでも半袖開襟シャツの前に多くが屈したのだ。その中にはSに執拗に絡んでいた生徒もいた。たしかバスケ部だったか? ああ、なんと痛快なんだ。私はそれをいち早くゴールして見届けた。
「遅かったな、S」
「おまえ、陸上部が本気で走るのはずりーだろうが」
ちなみに私はこの時、学年では一番だったが、全体では二番だった。陸上部の後輩に負けたのだ。その事を放課後、顧問に散々詰められた。「お前、かっこつけて後輩に負けるとか、なめてんだろ?」
思い返すと口の悪い教師ばかりだった。
三年生になると、いよいよ我々は最後の試験で価値を生み出す為に必死にならざるを得なくなってきた。いつまでも「なめてる」わけにはいかなくなったのだ。
クラスの雰囲気が殺伐とする中、Sは相変わらず半袖開襟シャツで登校した。暑い日も、寒い日も。
そして迎えたセンター試験当日。我々が住む地域にしては珍しく雪が降った。会場となった地元の大学の教室に入ると、分厚いコートを椅子の背にかけた受験生達が緊張した面持ちで静かに座っていた。その限界まで張り詰めた静寂に僅かにざわめきが起こったのは、ほとんど試験が始まる直前だったと記憶している。「ふぃー」だとか間抜けな声を出しながら、半袖の男が入ってきたのだ。頭にはシャツと同じ真っ白な雪が斑らに乗っていた。Sの半袖開襟ルールはセンター試験にまで適用されたのだ。Sは私を見つけると、いつものふざけた笑顔で「よお」と声をかけてきた。私はそれを見て、何もかもバカらしくなってしまった。この教室内でこのバカより高い点を取れる人間がどれほどいるだろうか。その半袖が満点近くを叩き出すことを誰が想像できるだろうか。そう思うと可笑しくて仕方がなかった。「バカだろ、絶対風邪ひくぞ」と笑う私に、Sは「手洗いとうがいはすげーしてんだよ」と返してきた。実際、休憩時間の度に、廊下からSの豪快なうがい音が聞こえてきた。体感ではあるが、そのふざけたガラガラ音は数分間に渡って静かな会場内に響いていたように思う。もはや迷惑以外のなにものでもなかった。
そしてセンター二日目、風邪をひいたのは、前日に散々Sを笑いものにした私の方だった。午前の数学のあたりから震えが止まらなくなり、酷い吐き気と眩暈に見舞われた。しかも時間と共に急速に悪化していく。明らかに様子のおかしな私に、さすがのSも話しかけてこなかった。いや、朦朧としていて記憶が定かではないが、「うがいしねーからそうなるんだよ」とかいう屈辱的な小言と共に飲み物を渡してきた気もする。
試験後に駆け込んだ病院でインフルエンザと診断された。
出席停止明けに学校で会ったSは、いつものようにニヤついていた。「な? うがい大事だろ?」と肩をツンツンするSに私は盛大に舌打ちした。ちっ、うつらなかったのか。
センターの自己採点の結果はそれなりだった。もう少し良ければ、ぐんと背伸びして二次試験でまたSの半袖姿を笑ってやろうと思っていたが、それは諦めた。また親に心配をかける訳にはいかない。センターで体調を崩さなければ、と考えなくもなかったが、きっと結果は変わらなかったように思う。
二月某日。私とSは、500キロ以上離れた違う場所でそれぞれ二次試験に臨んだ。半袖姿のSが赤い門の前でラグビー部の先輩達に取り囲まれて笑われていた、という話を後から聞いて愉快な気持ちになった。
その前期試験で私は、大人達が望むそれなりの価値というものを示し、逆にSは何の価値も示さなかった。
三月某日。Sは同じ場所でラグビー部の先輩に「また来たのか」と笑われたらしい。その後期試験でもSは価値を示さなかった。Sが受けたその大学の二次試験には、理系にも拘らず国語が必須だった。
後期の合格発表から数日後、卒業式前の登校日に久しぶりに会ったSは、相変わらずふざけた笑顔で愉しげに言った。
「俺、アメリカ行くわ」
ああ、それがいい。
この国の試験でお前のようなヤツを測るのは不可能だ。
見慣れた半袖開襟シャツは、相変わらずバカみたいに白く、アホほど輝いて見えた。
あれから二十年以上経ったが、一時帰国を除いて、Sが日本に帰ってくることはなかった。今は英国だったか。一度、Sが書いた数学の論文を読んでみたが、やはり私にはさっぱりわからなかった。もう何年も会っていないが、きっと元気にやっていることだろう。
最後に一つだけ釈明しておこうと思う。実はこの話を書くにあたって、Sには一切許可を取っていないのだ。いろいろと厳しい時代ではあるが、どうか酔っ払いのつまらない思い出話だと思って大目に見てもらえたらありがたい。まあ本人にバレることはないだろう。本を読まないSは小説投稿サイトなど存在も知らないはずだ。
それにバレたところでどうってことはない。国語の苦手なSには、書いてもいない筆者の思いなど、きっと最後までわかるまい。
半袖開襟シャツのS しぇもんご @shemoshemo1118
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