夏とピアスとスイカとヘソと研究と

平賀・仲田・香菜

夏とピアスとスイカとヘソと研究と

「勉強なんて大っ嫌いだ」

 夏休み初頭、自室で僕は独り言ちていた。今年は高校受験を控えている身というのに、甘えた言葉であった。

 勉強が大嫌いと自覚する僕に受験勉強など続けられるものか。学校の先生からも志望校を落とせと忠告されている。第一志望の高校にどうしても通いたい、という気概がある訳でもない。偏差値が高いという理由だけで選んだ高校だからだ。

 しかし僕は志望校を落とすつもりは毛頭ない。勉強は嫌いであるが、志望校を落とすことは負けだ。元来の負けず嫌いである僕にそれは耐えられない。

 勉強はしたくない。しかし負けたくない。二律背反はいつも僕を机に拘束しつつ、無益の時間を産み出す厄介者だった。

 誰もいない自室というのに、空気が淀んでいる。これはクーラーもつけずに、ドアも窓も閉め切っているからだ。

 熱帯夜に耐えかねた僕は部屋の窓を大きく開く。

 気圧差に風が流れ込み、カーテンがはためく。

 風は部屋を一廻りすると、数冊のノートを床に落とす。

 生温くも心地よい風に身体の内外を包まれると、頭に声が響いた。 

『研究は最後までやるものだよ』

 抑揚のない女性の声だ。今まですっかり忘れていた。いや、諦めて忘れようとしていた。

 僕は風に落とされたキャンパスノートを拾い、飾り気表紙を見る、そして汚い手書きのタイトルを読む。

「リコお姉さんのオヘソからスイカの芽は出るのか」


 祖父の家で出る食事はいつも素麺である。青い硝子の容器に氷と共に盛り付けられた素麺は宝石の様に輝く。茄子と舞茸の天ぷらが添えられているのもお馴染みの光景だ。

 夏休みも後半、僕は両親に連れられて祖父母の家にやってきていた。毎年の恒例ともいえるイベントだ。畳にちゃぶ台、蚊帳まであって夏休みの田舎満喫コース。夏休みをモチーフにしたアニメや漫画に出てくる光景のようで、僕は毎年ちょっとだけ楽しみにしている。

 とはいえ、大声で話しながら酒を食らう祖父たちから隠れるように、僕はいそいそと食事を進める。本格的に酔っぱらいが増える前に食卓から退散するためだ。この家はウワバミばかりで、段々と子どもの居場所はなくなっていく。スマドリという言葉はこの地域にはまだ浸透していないようだ。

 素麺を食べ進めると、薄桃色の麺を発見する。味が変わらないことくらいわかってはいるが、これは浪漫である。といっても、テンションが上がっていることを悟られるのも恥ずかしく、平然とした顔で箸を伸ばすが。

 その麺は直前に掻っ攫われていってしまった。

 すました顔でつるつると麺を啜るのは、リコ姉ちゃん、僕の従姉妹である。

 リコ姉ちゃんが啜る素麺は音を立てず、静かなエレベーターのように口へ運び込まれていく。その静かさときたら、麺つゆが一滴も飛び散ることもない。

 しかし妙なことに、姉ちゃんが啜る素麺は真っ白。僕から掻っ攫ったピンク素麺はどうなってしまったのか。不思議に思って姉ちゃんの椀をみれば、色付き素麺が溜まっている。どうやら最後にまとめて色付き麺を食べる気らしい。涼しい顔をしてやることは随分と子どもっぽい。

 僕はデザートのスイカに手を伸ばした。お爺ちゃんが畑で育てたものだという。よく冷えていて美味しいが、瓜っぽさに若干のカブト虫気分も味わう。種が多いのも気になりながら、僕はティッシュに種を吐き出した。

 そうこうしているうち、リコ姉ちゃんも色付き素麺をまとめて口に運んでご満悦の様子をみせている。そして、大きな口でスイカにかぶりついた。上品に食した素麺とは違い、汁をまき散らす豪快な食べ方だ。もしゃもしゃと咀嚼し、飲み込み、また一口。

 リコ姉ちゃんはスイカの種を吐き出さずに飲み込むのだ。

 そのせいで食べ終わるのが早いからか、僕が姉ちゃんをじっと見てしまっていたからか。リコ姉ちゃんは「ごちそうさま」と一言残し、部屋に戻ってしまった。


 寝室用にとあてがわれた小さな和室。僕は煎餅のように薄くて硬い布団に寝転がって考えていた。リコ姉ちゃんのことである。

 従姉妹であるリコ姉ちゃんは僕の四つ歳上、大学の一年生だ。僕が小学生からの付き合いで毎年のようにお爺ちゃんの家で顔を合わせている。年も近くて僕は遊んでほしいとねだったものだが、殆どはのらりくらりとかわされた。

 フィジェット系のトイやハンドスピナーばかりしていた印象がある。極めつけは、白一色のルービックキューブを回していたこともあったと記憶する。

 リコ姉ちゃんが僕に付き合ってくれたこと。強く印象に残っていることが一つある。日付は三年前、僕が小学六年生の頃だ。

『リコお姉さんのオヘソからスイカの芽は出るのか』

 自室で見つけたノートを僕は開いた。

 八月十三日。晴れ。三十三度。

 ヘソ、変化無し。若干お腹が冷たい。

 八月十四日。晴れ。三十度。

 ヘソ、変化無し。ヘソを延長した先の背中にホクロがあった。

 八月十五日。雨。二十九度。

 ヘソ、湿っている。成分は汗か。

 スイカの種を飲み込むとヘソから芽が出るなどと僕を脅したのはホラー漫画かバラエティ番組か。今となっては出処を知る由もないが、僕はそれを大いに信じていたのである。

 だから目の前でスイカの種を飲み込むリコ姉ちゃんを見て、僕は恐怖を覚えた。

「このままじゃリコ姉ちゃんが死んじゃう」

 ぶるぶると布団を被って泣いている僕を哀れんだのか、無気力なリコ姉ちゃんは僕に提案をした。それが、ヘソの観察研究というわけだ。

 毎日観察をして、異常が見つからなければ安心できる。そう考えての提案だろう。

 観察はお盆休みの間続いていたが、歳上のお姉さんのヘソを間近で観察することが突然僕は恥ずかしくなった。その時には芽が出る恐怖を忘れて、観察研究を放り投げるに至る。

 実はリコ姉ちゃんとはそれ以来会っていない。高校に進学した姉ちゃんは一年生のうちから受験勉強を始めたらしく、祖父の家に遊びに来なくなってしまっていたのだ。

 僕は中途半端に終わっている研究ノートを閉じて、机に放り投げる。襖が開いたのはそれと同時だった。

「ショータロー。今、いいかな」

 リコ姉ちゃんだった。姉ちゃんは僕の返事も待たずにずかずかと部屋にあがりこんできた。部屋でくつろぎに来たと姉ちゃんは言うけれど、なぜ自分にあてがわれた部屋を使わないのか。

「あの部屋は日本人形が見つめてくるから怖い」

 嘘か真か。適当なことをのらりくらりと口から垂れ流しているのかの判断はつかない。リコ姉ちゃんは座布団を一つ一つ手で叩きながらどれに座るべきか厳選している。

 久しぶりに見たリコ姉ちゃんは随分と背が伸びた。僕よりも背が高い。髪の毛は昔からくしゃくしゃの癖毛、気怠げな目は三白眼に近い。マキシ丈というのだろうか、身に付けるワンピースは踝まで隠している。さらにオーバーサイズのジャケット、薄手のようだが真夏に暑くないのだろうか。

 座布団の厳選が終わったようで、布団の横に陣取って座り始めた。寝転がっていた僕も身体を起こす。

「久しぶりだね、リコ姉ちゃん」

「ああ。大学の受験勉強は思っていたよりも大変だった。入学してからも教養講義や実験など忙しいのは変わらんのだがね」

 ふうんと僕は相槌を打つ。僕も高校受験で忙しいつもりではあったが、こうして祖父の家に遊びに来れていることを考えると、驚くべき程度の差があることだろう。

「ショータロー。君は今年、高校受験だな?」

「そうだけど……なに?」

「受験勉強には集中力が必要だ。そして集中するにあたって、雑念は減らすべきだろう」

 何を当たり前なことを、と思いながら話を聞いていると、リコ姉ちゃんは遠い目で呟いた。

「やりかけの研究を終わらせないといけないだろう」

 沈黙が騒ぎ出す。田んぼから届く蛙の声だけが耳に反響している。

 リコ姉ちゃんはおもむろに立ち上がり、ワンピースの裾を手でゆっくりと持ち上げ始めた。

「ああ。短パンは履いているから気にしなくていい」

 それは……よかった? いやよくないか、パンツは見たい。いやいや、そういう問題ではない。

「昔、私が君に教えた言葉。それがもしかしたら呪いになっていないか心配していた。」

 呪い。受験勉強の妨げとなる雑念。

「研究は最後までやるものだよ」

 僕と姉ちゃんの言葉は重なった。

 リコ姉ちゃんの手が腰で止まる。生白く少し骨張った足、名は体を表さない細い腿、短パンを越えた先にあったのは。

 ピアス。ヘソピアス。

 研究をしていた当時には決して存在しなかったブツ。研究ノートのスケッチにも描かれていないのが証拠だ。

「ほうら。ちゃんと見たまえ。研究は既に始まっている。先ずはよく見なさい。何がある?」

「ヘソ……と、ヘソピアス」

「見てわかることはそれだけか? 芽は出ているか? ピアスの色は? 形は?」

「芽は出ていない。ピアスはシルバー、意匠はハートマーク」

 リコ姉ちゃんの腹で、小指の先ほどのピアスが踊っている。

「触った感触は? 材質は何だろうか?」

「磨かれたように滑らか。材質は……ステンレス?」

 正解だ。と感心した声が降ってくる。

 僕はリコ姉ちゃんの言い成りだった。ピアスを持ち上げ、肌との境目を撫で、ノートにスケッチをとる。もちろん、リコ姉ちゃんのヘソからスイカの芽が出ていることはなかった。

 僕は研究ノートの最後に『スイカの種を食べてもヘソから芽は出ない』と結論付けて、そのノートを閉じる。顔を上げると、いつも気怠げなリコ姉ちゃんが若干微笑んで見えた。

「やっと終わったな。すっきりしたか? ショータロー」

 衣服を正しリコ姉ちゃんはそう言ってきたが、いかがわしく聞こえる言葉なのは気のせいだろうか。でも確かに、終えていない研究を完成させたことは、頭の片隅にあったしこりが無くなったようで気分がいいのは確かだった。

「だがな、研究は終えても次また新たな疑問が産まれるものだ」

 リコ姉ちゃんは舌先をちょっぴり出して微笑んだが、それは妖艶だった。

「ピアスはあと二つある。どこだか探したいなら……研究も受験も要努力だ、ショータロー」

 リコ姉ちゃんの舌先の少し奥、薄い色の上唇に隠された暗闇に宝石が煌めいたように見える。僕は身体が、かあっと熱を持ったように感じた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏とピアスとスイカとヘソと研究と 平賀・仲田・香菜 @hiraganakata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画