「マザー」

梓晴

「マザー」

 少年の頃、私は母ちゃんを亡くした。


 当時、私は母ちゃんと二人で暮らしていた。


 いまだに父親という男には会ったことがない。

 

 母ちゃんはモテたので、何人も付き合っている男はいたようだ。


 その男達を親子で住んでいるアパートには絶対に入れなかった。


 外で済ませていたようだ。


 きっと母ちゃんは私には見せない場所で苦楽を味わっていたのだろう。


 そして、その中から生活費を工面していたのだろう。


 母ちゃん、感謝します。


 その当時、私の家は裕福ではなかった。


 家にゲーム機器はなかった。


 ゲームはクラスメートの家で遊んでいた。

 

 ゲームに勝てそうな時があっても、ギリギリのところで相手に対して負けた。


 相手の勝ちになれば、次回もスムーズに、この家に遊びに来ることが出来た。


 私は母ちゃんから、人から好かれるしつけを仕込まれていた。


 母ちゃんの躾は絶大であった。


 ゲーム機に触れていると一瞬でも自分の生活環境を忘れられた。


 家族以外の人とひとつのことを共有出来る喜びを感じられた。


 自分がひとり勝ちしても楽しくない。


 ゲーム機を提供してくれた彼らを負けに追いやって不愉快にさせても楽しくない。


 私にとっても何もプラスにはならないし、むしろその場がしらけてしまい、結果として自分自身が悲しくなるだけである。


 大人になった今も、馴れ合いや遊びのゲームは三回に一回勝つか引き分けるぐらいが丁度いいと思っている。


 そのゲーム機の代わりといってはなんだか見当違いのようだが、母ちゃんはたまに職場から持ってくる二か月遅れぐらいの週刊誌を、息子の私に娯楽品として与えていた。


 私は当初それらをもらうことを、嬉しいとは感じていなかったが、テレビといえば修理に出せずに壊れたままだったし、ラジオは朝起きてから夜寝るまでつけっぱなしで日常的にBGM化していて、災害など台風情報以外には特に耳が集中することもなかったし、当然のようにスマホなど与えられるわけもなく、時間の経った紙媒体特有の湿っぽいにおいを放つ数冊の週刊誌を貪るように眺めていたというか、読んでいた。

 

 当初、その雑誌の中の読めない漢字を、私がいちいち母ちゃんに聞いていたので、それを母ちゃんは気の毒にも、うざくも感じたのか、近所の古本屋で古い版の国語辞典と漢和辞典を、母ちゃんがしばらく勤めていたスナックの馴染み客である初老の男性店主に、二冊も買うのだからと割引を懇願して、とうとう値切り倒して格安で買ってきてくれた。


 母ちゃんはそこそこ美人で粘り強かった。


 ちなみに周囲の子供たちは普通に漢字辞典というものを、小学校三年生ぐらいで買っていたようであった。


 その辞典を私は、母ちゃんがあえて買わなかったのか、買えなかったのか、買うのを忘れていたのか、いまだに分からない。


 この古本屋で値切って買われた国語辞典と漢和辞典は高校生並みの学力をもった人や大人でも愛用するような辞書であり、私はいっきに周りの子供たちの使用しているルビ入り辞典を軽く飛び超えてしまい、これを手にした当初は感じなかったが、学校に持参すると自分が身分不相応な気がして周囲に対して少々恥かしかった。


 この使い込んだ二冊は、特有のにおいを発しながら、湿気を含んでボロボロになった現在も私の机の上に置いてある。


 その隣には母ちゃんの口を閉じた少々怒り顔の写真が並んでいる。


 この辞典のおかげで、かなりの数量の漢字は理解出来るようになったし、ムダに作文や日記ばかりを書くようになったり、この辞典を使いたいだけで、学校の図書館に入り浸り、ムダに何冊も貸し出してもらい、それらを一読はするのだが、真面目な本はあんまり面白くないし、それよりも母ちゃんのお土産である古雑誌のほうが数倍面白く魅力があって、辞典での調べがいもあった。


 その週刊誌とは、特に女性週刊誌であった。


 母ちゃんは家に持っていく前に、一応小学生の子供に読ませるものとして検閲してから、厳選していた。


 そして家に持ち帰ると、小学生の自分の息子に読ませるには不適格と思われる文字表現には、黒マジックで塗り潰したり、若い女性のグラビアなどワイセツと思しきおぼコーナーやページなどには、ハサミが入れられていたり、なかにはページがそのまま破かれていたり、その手の特集部分の三分の一程度が破られて、ゴミ箱に捨てられていたこともあった。


 ワイセツなものには厳しい母ちゃんの倫理規定が、徹底的に振りまわされていた。


 こんな週刊誌を与えられた小学生は、ちょっと嫌悪するのでは?と思うかもしれないが、読んでいた私からすればそんなに違和感はなかったのだ。


 むしろ下世話な大人の世界を覗き見しているような気がして、かなり私の好奇心をくすぐっていたのだ。


 その結果として私は少々早熟になった。


 そんな母ちゃんとの喜怒哀楽を共にした日々に、突然、お別れの日が来たのだ。


 あの夏の日の出来事を、成人した現在でも思い出す。


 それが起きたのは、私が小学校6年生の夏休み後半の8月下旬のアスファルト舗装からの照り返しが厳しい猛暑日のことであり、その週も連日の晴れ模様であった。


 私は夏休みの間、家の電気料金を浮かすために、朝から夕方まで冷房が効いている町の図書館に出向いては、例の辞書を引きながら色々な本を読み漁っていたものの、ついでに夏休みの宿題もしていた。


 その日、母ちゃんは給料日ということで、昼過ぎに二人で外食の約束をしていたので、お昼前になった頃に図書館を出て、自宅まで歩きながら空を見上げると、入道雲がもくもくと居丈高であった。


その入道雲は金剛力士像に見えた。


 それは腰をひねり右足を前に出して両足を拡げて、今にも私に掴みかかって来るように見えて怖かった。


 この時の一連の怖さが私の感じた「胸騒ぎ」に繋がるのであるが、後々この時のことに理屈や屁理屈をつけて、自分で作り上げた世界観に気づかされるのは数年後のことであった。


 私は「胸騒ぎ」に少々震えながら、そいつが口を開けている金剛力士だと思ったら、口を閉じた金剛力士もいるはずだと、空を見上げて探したが口を開けたほうだけだった。


「金剛力士像」といえば、口を開けている「阿形あぎょう」と口を閉じている「吽形うんぎょう」の二体の守護神がいると、浅草の雷門かみなりもんに行った時に母ちゃんが教えてくれた。


 時たま、いろんなことを教えくれる母ちゃんは口を閉じている金剛力士のようだった。


 私は帰り道に、何度も空を探しても吽形はいないので、相棒不在の阿形のことを気の毒に思った。


 今日は「あ・うん」の呼吸どころではないぐらいの猛暑なので、吽形は疲労困憊ひろうこんぱいのため、休みだと思った。


 私は自宅につくと、先ほど見上げた入道雲の「吽形」をもう一度探そうとベランダに出たが、空は真っ黒になって、今にも嵐になりそうな雨雲に変わっていた。


 その刹那せつな、口を閉じている母ちゃんが目に浮かんだ。


 数秒ののちにゲリラ豪雨になった。


 怖くなって、ラジオのスイッチを入れて音量を上げた。


 数分後にドアチャイムが鳴った。


 ドアを開けると母ちゃんの職場のおじさんが立っていた。


 全身ずぶ濡れで少々言葉を取り乱していた。


 聞くと母ちゃんは職場で急にめまいがするとその場で倒れて、脳卒中で亡くなったという。


 母ちゃんは本格的に口を閉じた金剛力士になった。


 その時、私は泣かなかったのか、泣けなかったのか、泣くことを忘れていたのか、正直忘れた。


 その後の親戚に預けられた生活を思い出すと、嫌なことばかりであったように思う。


 しかしそれが、一人暮らしを始めて、嫌なことの原因が自分の目の前から消えてくれたら解消した。


 他人から言われた誹謗中傷なんて、言っている人に会わなければどうってことはなかった。

 

 しかし、母親を失った時に起きた「胸騒ぎ」は、私の中で続いている。

 

 私は思い出を自分の都合のいいように選別している。


 それを気に入っている。


「胸騒ぎ」


 私が、この言葉を人生で初めて記憶に焼き付けてしまったのは、おそらく中学生の思春期を通り過ぎて、高校生の青年期にさしかかった頃、そろそろ身体全体が色気づいてきた頃合もあり、当時読み漁っていた色々な雑誌の中から、当時の私には想像するだけで精神を無駄に摩耗したり、時には体力が崩壊寸前になったり、好奇心をくすぐるような、特に自分の学校生活の中では到底及びもつかない言い回しを、ただ面白がって日記や教科書やノートなどに書くという作業に活かしたつもりになり、ただ内心は思い上がっているだけのくせに、薄々あまり意味のない方向に向かっていることに気づいてはいるのだが、どうしても止められずに、周囲の生徒よりは大人っぽくなったと勝手に思い込み、普段使わない表現をさも使いこなすふりをして書きとめ、自分の決して巧みではない処理能力で記憶した数少ない言葉たちが、脳の底にへばりついて忘れられなくなったからである。


 自分の過去の現象を成長と共に、ある体験に変化させた偏見と独自の見方で完成した思い出は、今からさかのぼること15年近くも前のことであった。


 

 


 












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「マザー」 梓晴 @mugen3378

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