読んだら呪われる小説を読んでも呪われなかった話

ぴのこ

読んだら呪われる小説を読んでも呪われなかった話

「読んだら呪われます。呪われてもいい人だけ読んでください」


 あらすじ欄にそう書かれていたホラー小説を読み終わった時、思わず舌打ちが出た。

 これはランダム表示欄に偶然流れてきたものだ。ついさっき投稿されたものらしく、レビューもいいねも一つも付いていなかった。面白いかどうかもわからない小説だったが、“読んだら呪われる”という謳い文句に惹かれて読んでしまった。

 感想としては、率直に言えば駄作だった。あらすじ欄には「この小説を読んだ人は親しい人間に広めなければ不幸が起きます」とも書かれていたが、小説からはそんな魔力のようなものは感じず不幸など起きそうになかった。3000文字程度の短編とはいえ読んだことを後悔するような内容だった。時間を無駄にしてしまった。

 俺はその小説に一切の評価をつけることなく、ブラウザのバックキーを押して執筆画面に戻った。

 こんなものを読んでいる場合ではないのだ。俺は小説を書かなければならない。参加したい自主企画の参加期限は明日の夜までだ。自主企画の期限は募集開始から10日間あったのだが、仕事の忙しさのあまり執筆する時間が取れなかった。ようやく仕事が一段落ついたので昨日の夜に7000字程度書き、今夜から本格的に腰を据えて取り組むつもりだった。

 俺はアパートの部屋の外に出て煙草を吸い、頬を叩いて執筆に取り組み始めた。

 それにしてもと、俺はキーボードを叩きながら遅れて苛立ちを抱いた。親しい人間に広めなければ呪われると言うが、親しい人間など居ない場合はどうするのか。俺には家族も友人もいない。親は両親ともにとっくに死んでいるし、友人も昔からずっと居ない人生を送ってきた。どのみちあんな小説は誰に広める価値も無いものだったが、その点が妙に気に食わなかった。

 数分ほど経った頃、ぎいぎいと歯を軋ませる音が聞こえてきた。そういえば夕飯を食べて煙草まで吸ったのに歯を磨いていなかったなと、その音で気づいた。ちょうど筆が進んできたところで中断したくはなかったのだが、一度気になるとどうにも口の中が気持ち悪い。俺は仕方なく立ち上がり、洗面所に向かった。

 洗面所の鏡には、俺ではなく見知らぬ女が映っていた。これでは鏡が使えないじゃないか。俺は舌打ちしながら歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を少しだけつけて歯を磨きだした。鏡の中の女は頭から血をどろどろと流し、苦痛に歪んだような顔を浮かべていた。しかし女の顔をよく見ると、なかなか整った造形をしている。胸も大きい。鏡から抜け出してきてくれてもいいのにと思ったところで、俺はぶんぶんと頭を振った。今は執筆に専念しなければならない時だ。邪念に支配されるな。俺はなるべく女の姿を見ないようにして歯ブラシを洗い、口をゆすいで洗面所を後にした。

 執筆を再開したが、中断したせいかどうにも筆の進み具合が遅くなってしまった。俺は速筆なことが自慢なのだが、気分が乗らないと文章が浮かばなくなってしまう。仕方がないから煙草でも吸って休憩するかと思った時、足が動かせないことに気づいた。これでは書くよりほかにない。俺は尻を叩かれたつもりでキーボードを打ち始めた。

 不思議なもので、少し書いてみると次から次へと文章が浮かぶ。これならば期限に間に合うとほくそ笑んでいると、髪の毛がごっそりと抜けて両手とキーボードの上を覆いつくした。邪魔だ。美容院に行く手間が省けたのはいいが、今は執筆の手を止めたくなかったのに。幸いにも毛を払ったことで何を書こうか忘れてしまうことは無く、執筆のペースは落ちなかった。少しの動作を挟むと文章が頭から消えてしまうことが俺にはよくあるから、危ないところだった。

 しかし今作の字数は3万字の予定なので目標は遠い。0時を回っても目標の字数の半分も書けず、流石に焦り始めた。明日も会社があるからそろそろ寝なければならない。朝まで寝て会社に行って、定時で帰ったとしても期限までに間に合うかどうか。少しだけ睡眠時間を削ろうかとも考えたが、仕事に支障が出る可能性が高い。俺は諦めて、今日の分は終わりにして寝ることにした。足が動かせないので、パソコンに被さるようにして寝るつもりだった。

 目が閉じられない。参った。これでは眠れない。仕方なく、俺はため息をついて執筆を再開した。

 深夜2時になると部屋が揺れ出した。地震らしいが、やけに長い。もう30分は揺れている。尻から振動が伝わってくる。まあ振動マッサージというのもあるから、健康に悪いことは無いだろう。

 今度は誰かが俺の背中にずっしりと体重を乗せてきた。体温が背中に伝わる。夜になって冷えてきたところだったからありがたい。少しだけ振り返ってみたところ、髪の長い女のようだった。さっきの女かと思ったが、胸が無いので別の女らしい。どうせならさっきの女のほうが良かったなと考えていると、女はふっと消え去った。いったい何なんだ。

 朝が来て出社時刻になっても小説の進捗は7割ほどだった。俺はもっと書けなかったものかと自分を恨んだ。いくら執筆以外に何もできない状況になろうとも、頭の回転までもが速くなるわけではない。出社時刻とはいえ、足が動かせないのだから出社などできるはずがない。欠勤の連絡も出来なさそうだ。スマホは少し離れた場所に置いてあるので手が届かない。俺が休んだことで仕事が増える同僚に心の中で詫びつつ、俺は執筆を続けた。

 昼前になると、スマホが鳴った。電話に出ることはできないが、画面は見えた。上司からだ。もし電話に出れば、怒鳴り散らしながら無断欠勤を責めてくるだろう。想像するだけでもうるさい。電話に出れない状況で良かったと心から思った。

 さあいよいよラストスパートだ。もう少しで完成する。ラストまでの文章もすでに思い浮かんでいる。俺は興奮を抑えきれないままキーボードに指を走らせた。

 インターホンが鳴った。来客か。待てよ?そういえば昨日の夜に煙草を吸いに行った時、鍵は閉めただろうか。確か閉めていなかった気がする。まあいい、こんな安アパートに強盗に踏み込んでくる奴は居ないだろう。

 がちゃりと音が鳴った。ドアが開く音だ。背後から大声が響いた。上司の声だ。俺が無断欠勤したので、様子を見に来たのだろうか。とはいえ小説がもう少しで書き終わるのだ。上司に構っている暇は無い。俺は振り返ることもしないままキーボードを叩き続けた。

 ぱちゅん、と音が鳴った。上司の声が途絶えた。背後から血と肉片が飛び散って来て、パソコンの画面を汚した。邪魔だ。血で画面が見えない。俺はすぐ横にあったティッシュで画面の血を拭い、小説の最後の一文を書き終えた。

 その瞬間、足がぴくりと動いた。どうやら足の金縛りが解けたらしい。だがまだ立ち上がるわけにはいかない。自主企画への応募まで完了させなければ、何のために書いていたのかわからない。

 俺は小説の投稿画面から目的の自主企画を選択し、間違いが無いことをしっかりと確認した上で投稿ボタンを押した。二重確認ということで自主企画のページを開くと、俺の小説は無事に応募できていた。

 唸り声を上げながら、俺は大きく伸びをした。清々しい気分だった。苦心して小説を書き上げ、何事もなく目標を達成できたという幸福感。何にも代えがたいものだ。俺はこの感覚のために小説を書いていると言っても過言ではない。

 俺は昨日の夜に読んだ、例のつまらない小説の作者にガッツポーズを取ってやりたい気持ちだった。何が読んだら呪われるだ。何が広めなければ不幸が起きるだ。俺は呪われてなどいないし、こんなにも幸福な気持ちでいるぞ。

 それにしても流石に疲れた。シャワーを浴びて、少し寝よう。俺は血だまりと化している上司をひょいっと飛び越えて、洗面所に向かった。洗面所の鏡にはまだ例の胸の大きい女が映っていた。俺の要望通りに出てきてくれようとしているのか、手だけが鏡から抜け出していた。俺は女の手にハイタッチをしてから、服を脱いで風呂場に入った。

 俺が書いた小説は、きっと応募作品の中で最も高評価がつくぞ。俺は少し未来の幸福を想像して笑みを浮かべながら、熱いシャワーを浴びた。


 自主企画の募集要項は“総文字数10000字以下”であり、“総文字数100000字以下”と読み間違えて3万字の作品を応募してしまった俺は規約違反になると気づいたのは、翌日のことだった。

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