感情のバックアップ【デジタル・メモリーズシリーズ】

ソコニ

第1話 感情のバックアップ

「完全な幸福を、永遠に」


倉田美月は、EmotiStorageの宣伝文句を見つめていた。感情保存技術が実用化されて3年。人々は自分の感情をデジタルデータとして保存し、必要な時に再体験できるようになっていた。


「倉田さん、今日が初めてのバックアップですね」


白衣の技師が、親切そうに声をかけてきた。EmotiStorageクリニック銀座院。高級な内装に、最新の感情スキャン装置が並ぶ。


「はい。娘の結婚式の感動を、永遠に残したくて」


先週行われた娘の結婚式。その純粋な喜びと感動を、永遠に保存したいと美月は考えていた。


「では、まずは基本的な説明をさせていただきます」


技師が装置のモニターを指差す。


「感情データは、脳の電気信号と体内のホルモン状態を完全に再現します。つまり、保存した時の感情を、100%同じ強度で再体験できるのです」


「ネガティブな感情は除去できますか?」


「はい、最新のアルゴリズムで、ポジティブな感情だけを抽出できます」


これが、EmotiStorageの最大の売りだった。結婚式の喜びから、不安や寂しさを取り除く。卒業式の感動から、別れの悲しみを消し去る。人々は、完璧な幸福だけを保存することを選んでいた。


「では、スキャンを開始します」


美月は専用のリクライニングチェアに横たわる。頭部にセンサーが取り付けられ、モニターには脳の活動マップが表示された。


「結婚式の思い出に集中してください」


目を閉じ、娘が純白のドレス姿で微笑む光景を思い浮かべる。胸が温かくなる。しかし同時に、一抹の寂しさも。我が子が巣立っていく。その複雑な感情が、美月の心を満たしていた。


「スキャン完了です。ネガティブ要素を除去して...」


「待ってください」


美月は突然、体を起こした。


「その...寂しさも、残していただけませんか」


「えっ?」


技師が驚いた表情を見せる。


「この寂しさも、私の娘への愛情の一部なんです。それを消してしまっては、この感情の本当の価値が失われてしまう気がして」


母として感じる幸せと寂しさ。その両方があってこそ、この瞬間は特別なものになる。美月は、そう確信していた。


それから1ヶ月後。美月は定期的に、その感情データを再生していた。喜びと寂しさが入り混じった複雑な感情が、彼女の心を満たす。時には涙が流れることもある。しかし、それは決して後悔の涙ではなかった。


EmotiStorageクリニックでは、美月以降、「完全な感情保存」を選ぶ利用者が少しずつ増えていった。人々は気づき始めていた。人間の感情の価値は、その複雑さにこそあるのだと。


5年後、美月は娘から一通のメッセージを受け取った。


「母さん、私も感情のバックアップを取ることにしたの。結婚式の日の、あの複雑な気持ちを、このまま忘れたくないから」


美月は微笑んだ。娘もまた、感情の本当の意味を理解してくれていた。


人工的な完全な幸福より、自然な不完全さの中にこそ、本当の人生があるのかもしれない。そう感じながら、美月は今日も、あの日の感情を静かに呼び起こすのだった。


(完)





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