乖離 -裏の裏-

 店を出た男が見えなくなった頃、ずっと黙っていた助手の大男が口を開いた。


「先生――この商売、一体いつまで続けるのです?」

「いつまで? ……面白いことを言うのぅ。もちろん、いつまでもじゃよ」


 何を今更、と老人は言う。大男は溜息を吐いた。

 大男は、部屋の奥の机で開きっぱなしになっていた、老人の調合ノートを眺める。ページの一番上に走り書きされた題はこうであった。



『人格乖離剤 材料と調合手順』


 任意の性格や思考傾向を人格から切り離し、別人格として独立させる薬。自分の嫌いなところを集めた、もうひとつの人格をつくりだす薬物。飲むたびに人格がひとつずつ増えていく秘薬。

 つまり、今日来た男は、前回薬を飲んだ時に乖離した、「悪い人格」だ。


 悪い人格のなかで、さらに自分の嫌いなところを集めたものが、新しい人格となる。だから今日薬を飲んだことで、あの男は人格が三つに分裂する。

 「良い人格」が二つに、「悪い人格」が一つ。もう一度飲めば、「良い人格」が三つと、「より悪い人格」が一つになる。


「何度も薬を飲むことで、自分の嫌いなところがひとつの人格に濃縮されていく。だが同時に、その人格が表に現れる割合も1/3、1/4……と小さくなっていくという寸法じゃ」


 他人事のような口調で老人が説明する。


「――――つまり、これからの人生のうち、大半は良い人格として過ごせるのじゃ。幸せだと思わんかね?」

「…………」


 大男は答えなかった。老人はつまらなさそうな顔をして、お湯の沸いたポットを手に取り、お茶を淹れ始めた。


 そして、この薬には重要な特徴がある。

 ここで薬を飲んだことは、新しく生まれる悪い人格の方には引き継がれない。つまり、悪い人格になっている間は、この店に来たことを忘れてしまうのだ。

 だからこうして、記憶喪失のようにリセットされて、何度も客は来店する。


 沈黙に耐えかねたように、大男が口を開いた。


「……今日の彼、どうなるんですかね」

「いつもと同じじゃろ。悪い人格の日に、ついに耐えられんくなって身を投げるか、事件でも起こして捕まるか」


 興味なしといった様子で老人は呟く。それから、淹れたお茶を大男に差し出しながら、今度は面白そうに続けた。


「でも、この一週間、切り離した悪い人格が出てこなかったなんて、本当に運が良い奴じゃ。もしかすると、今までとは違った結末になるかもしれんぞ?」



 その店は、今日も客が絶えることはなかった。



<了>

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乖離 亥之子餅。 @ockeys_monologues

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