【研究者百合短編小説】美の系譜 ~Histoire de la Beauté 二人の愛のカタチ~(約9,200字)

藍埜佑(あいのたすく)

【研究者百合短編小説】美の系譜 ~Histoire de la Beauté 二人の愛のカタチ~(約9,200字)

## 第1章 出会いと古代文明


 春の陽光が差し込む研究室で、桐原薫子は古い文献に目を通していた。服飾史と化粧文化史を専門とする若手准教授である彼女は、今日も変わらぬ几帳面さで研究に没頭していた。しかし、その静謐な時間は、突然のノックによって中断された。


「Excuse-moi? 桐原先生でいらっしゃいますか?」


 フランス語なまりの日本語が、研究室に響く。


「はい、どうぞ」


 扉を開けると、そこには一人の外国人女性が立っていた。栗色の巻き毛を緩やかにまとめ、知的な印象を醸し出すスーツを着こなしている。薫子は一瞬、その端正な容姿に見とれてしまった。


「初めまして。イリス・ラメールと申します。このたび、客員研究員としてお世話になることになりました」


 イリスは優雅な仕草で名刺を差し出した。


「ああ、ラメール先生! ご連絡いただいていた方ですね。古代文明における装飾文化がご専門と伺っています」


 薫子は立ち上がり、丁寧にお辞儀をする。


「お噂は伺っていました。桐原先生の『平安時代の化粧文化における階級性の研究』は、私も大変興味深く拝読させていただきました」


 イリスの真摯な眼差しに、薫子は少し照れくさそうに微笑んだ。


「まさか海外でも読んでいただいているとは……光栄です」


「むしろ、こちらこそ光栄です。実は、私の研究テーマについてご相談させていただきたいことがありまして」


 イリスは革のショルダーバッグから一冊の古書を取り出した。


「これは、古代エジプトの化粧道具に関する新しい発見についての報告書なのですが……」


 薫子は思わず身を乗り出した。


「まさか、あの『死者の書』に記された化粧道具の新解釈についてですか?」


「さすがですね! その通りです」


 イリスの瞳が輝きを増す。


「実は最近の発掘で、従来の解釈とは異なる使用方法を示唆する証拠が見つかったんです」


 二人は自然と机を挟んで向かい合い、熱心な議論を始めた。古代エジプトの化粧文化について、特にアイメイクの持つ呪術的な意味合いについて、意見を交わす。


「私が興味深いと思うのは、化粧が単なる美的表現ではなく、神聖な儀式の一部として扱われていた点です」


 イリスが熱を帯びた声で語る。


「ええ。古代エジプトでは、アイラインを引くことは太陽神ラーへの祈りの一つだったとされていますよね」


 薫子も負けじと応える。


「そして、使用される顔料にも深い意味が……」


 話は尽きることを知らなかった。窓の外では、桜の花びらが春風に乗って舞っている。


 やがて、イリスは時計に目をやり、少し慌てた様子を見せた。


「あら、こんな時間になってしまいました。今日はここまでにさせていただいてもよろしいでしょうか?」


「ええ、もちろんです。とても刺激的な議論をありがとうございました」


 立ち上がったイリスは、薫子に向かって柔らかな微笑みを向けた。


「また改めて、お話させていただけませんか? 実は古代ローマの化粧文化についても、面白い資料を持っているんです」


「是非お願いします」


 薫子は心からそう答えた。イリスが去った後も、彼女の香水の柔らかな残り香が研究室に漂っていた。薫子は深いため息をつき、窓の外を見やる。


「古代文明における美の概念か……」


 彼女は机の上の古書に手を伸ばした。イリスとの議論は、新しい研究の可能性を示唆していた。それは単なる学術的な興味だけではない、何か特別な感情を伴うものだった。


 薫子は自分の頬が少し熱くなっているのを感じた。春の陽射しのせいだろうか、それとも……。



 それから数日後、薫子は図書館の古文書室でイリスと再会することになった。


「桐原先生、この資料をご覧になりませんか?」


 イリスは慎重に古い羊皮紙の写しを広げた。そこには、古代ローマの貴婦人の化粧道具が細密に描かれている。


「これは……素晴らしい資料ですね」


 薫子は思わずイリスに近づき、肩が触れ合うほどの距離で資料を覗き込んだ。二人の間に流れる空気が、一瞬張りつめる。


「ローマ時代の女性たちは、顔を白く塗ることで高貴さを表現しようとしました。でも、使用された鉛白は彼女たちの健康を著しく損なうものでした」


 イリスの声が低く響く。


「美の追求のために命を危険にさらす……それは現代でも、形を変えて続いているのかもしれませんね」


 薫子の言葉に、イリスは深く頷いた。


「そうですね。でも、私が最も興味深いと思うのは……」


 イリスは薫子の目を見つめながら言葉を続けた。


「人々が求める『美』の本質は、時代が変わっても変わらないということです。自分の内なる神性や気高さを、外見を通して表現しようとする。その願いは普遍的なものなのではないでしょうか」


 その言葉に、薫子は心を打たれた。イリスの真摯な研究姿勢と、美の本質を見抜こうとする深い洞察に、彼女は強く惹かれていることを自覚し始めていた。


「ラメール先生……」


「イリスと呼んでください。もし、よろしければですが」


 イリスの微笑みには、どこか憂いを帯びた美しさがあった。


「では、イリス……私のことも薫子と呼んでください」


 二人は再び資料に目を落とした。古い羊皮紙に描かれた化粧道具たちは、まるで二人の関係の行方を見守るように、静かに佇んでいた。


## 第2章 中世からルネサンス


 梅雨の晴れ間、薫子とイリスは大学の古い廊下を歩いていた。今日は中世ヨーロッパの美意識について議論する予定だった。


「中世の女性たちは、美を追求することを罪深いものとされていましたね」


 イリスが言葉を紡ぐ。


「ええ。特に化粧は、神の創造物である自然の姿を歪めるものとして、教会から非難されました」


 薫子は応える。二人の足音が、静かな廊下に響く。


「でも、面白いことに、同じ時期の日本では……」


 薫子は自身の専門分野について語り始めた。


「平安時代の女性たちは、化粧を通して教養の高さを表現していました。例えば、額に描く化粧である『引眉』は、身分の高さを示す重要な要素でした」


「文化による価値観の違いが、こんなにも明確に表れるのは興味深いですね」


 イリスの目が輝く。彼女は薫子の研究室のドアを開けた。


 机に向かい合って座った二人は、それぞれの資料を広げ始めた。イリスは中世の修道院に残された文書の複写を取り出す。


「これをご覧ください。12世紀の修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの著作には、化粧を否定しながらも、清潔さと健康的な美しさを重視する記述があるんです」


「まるで現代のナチュラルメイクの考え方のような……」


 薫子が言いかけたとき、イリスの指が彼女の手に触れた。その温もりに、薫子は一瞬言葉を失う。


「ごめんなさい」


 イリスは慌てて手を引っ込めようとしたが、薫子は反射的にその手を掴んでいた。


「イリス……」


 二人の視線が絡み合う。研究室に流れる空気が、急に濃密になった。


「薫子……私……」


 イリスの頬が薄く染まる。その表情は、まるでボッティチェリの描いた「ヴィーナスの誕生」のように美しかった。


「ルネサンス期に、人々は古代の美意識を再発見しました」


 薫子は、感情を抑えるように、学術的な話題に戻る。


「そう……女性の美しさを称える文化が、再び花開いた時代です」


 イリスも、揺れる心を隠すように応える。しかし、二人の手はまだ重なったままだった。


「でも、同時に女性たちは新たな抑圧にも直面することになりました」


 イリスが続ける。


「『理想の美』という名の束縛ですね」


 薫子は深いため息をつく。二人は沈黙の中で、互いの温もりを感じていた。


 その時、廊下から足音が聞こえてきた。二人は慌てて手を離す。


「こんにちは」


 別の教授が資料を借りに来たのだった。二人は平静を装いながら、その場をやり過ごした。


 しばらくして、イリスが静かに言った。


「薫子……今度、美術館で開催されているルネサンス期の肖像画展に行きませんか?」


「ええ、是非」


 薫子は心臓の鼓動が早くなるのを感じながら答えた。



 週末、二人は約束通り美術館で再会した。展示室には、ルネサンス期の貴婦人たちの肖像画が並んでいる。


「この時代の理想的な美人とされた特徴をご存知ですか?」


 イリスが薫子に尋ねる。


「ええ。高い額、長い首、金髪、そして何より白い肌……」


「そう。でも、私が最も興味深いと思うのは、これらの肖像画に込められた象徴的な意味です」


 イリスは一枚の肖像画の前で足を止めた。


「例えば、この真珠の首飾りは純潔の象徴。手に持つ薔薇は愛を表しています」


 薫子はイリスの横顔を見つめていた。展示室の柔らかな照明が、彼女の表情を優しく照らしている。


「美術史における象徴表現の研究は、私の専門分野とも深く関わっているんです」


 イリスは続ける。


「化粧や装飾品は、単なる美的表現ではなく、その時代の価値観や願望を映し出す鏡でもあった」


「まさにその通りですね」


 薫子は思わずイリスの腕に触れた。その瞬間、二人の間に流れる空気が変化する。


「薫子……」


 イリスが振り向く。その瞳には、言葉にできない感情が溢れていた。


「この肖像画の中の貴婦人たちは、自分たちの想いを直接言葉にすることはできませんでした。だから、こうして象徴的な表現を通して……」


 イリスの言葉は途切れる。二人は無言で見つめ合った。美術館の静寂の中で、心臓の鼓動だけが響いているように感じられた。


「イリス、私……」


 薫子が言いかけたとき、展示室に他の観客が入ってきた。二人は慌てて距離を取り、別の作品の方へ移動する。


 しかし、その日の残りの時間、二人の間には言葉にならない緊張が漂っていた。帰り際、イリスが薫子の手をそっと握った。


「今日は素敵な時間をありがとう」


 その言葉には、複雑な感情が込められていた。薫子はその手の温もりを強く記憶に刻み込んだ。


## 第3章 産業革命期


 梅雨が明けた真夏の午後、薫子の研究室は蒸し暑かった。エアコンの音だけが、静かな空間に響いている。


「19世紀の化粧品産業の発展について、面白い資料が見つかったんです」


 イリスは興奮した様子で資料を広げた。


「ああ、化粧品の大量生産が始まった時期ですね」


 薫子は扇子を手に取りながら答える。


「そう。特に注目したいのは、この時期に『美の民主化』とも言うべき現象が起きたことです」


 イリスの熱心な表情に、薫子は思わず見とれる。


「それまでは貴族の特権だった化粧品が、一般大衆でも手に入るようになった。それによって、美の基準も大きく変化していきましたね」


「ええ。でも同時に、新たな問題も生まれました」


 イリスは古い新聞広告のコピーを取り出した。


「この広告をご覧ください。『より白く、より若く』というキャッチコピーの下に、有害な成分を含む化粧品が宣伝されているんです」


「現代でも似たような問題は続いていますね」


 薫子は無意識にイリスに近づいていた。汗で少し濡れた髪が、イリスの首筋にくっついている。それを見た薫子は、思わず手を伸ばした。


「イリス、髪が……」


 指先が首筋に触れた瞬間、イリスが小さく震える。


「あ、ごめんなさい」


「いいえ……」


 イリスは振り向き、薫子の手を取った。


「薫子……私たちが研究している『美』について、考えることがあるんです」


「どういうこと?」


「私たちは過去の女性たちの美の追求を研究している。でも、その研究自体が、また新たな『美の規範』を作り出してしまっているのではないかって」


 イリスの声には、迷いが混じっている。


「確かに……私たちは客観的な立場で研究しているつもりでも、どこかで既存の価値観に縛られているのかもしれません」


 薫子は深く考え込む。


「でも、だからこそ……」


 イリスが続ける。


「私たちには、その価値観を問い直す責任があるのではないでしょうか」


 二人の手は、まだ重なったままだった。研究室の熱気が、二人の間の空気をさらに濃密にする。


「イリス……」


 薫子が言いかけたとき、突然の雷鳴が響いた。夕立の始まりだ。


「あら、急な雨……」


 イリスが窓際に歩み寄る。薫子も後に続く。


「傘、持ってきましたか?」


「いいえ……」


「では、雨が止むまで、ここで……」


 言葉の続きは、雨音に消された。しかし、二人の心は確かに通じ合っていた。


 研究室の窓から見える雨景色を眺めながら、イリスがゆっくりと口を開く。


「19世紀の女性たちは、産業革命による社会変化の中で、自分たちの価値を見出そうと必死だったんです」


「ええ。労働者として、そして消費者としての新しい立場を得た彼女たちは、美の追求を通じて自己実現を図ろうとしました」


「でも、それは本当の解放だったのでしょうか?」


 イリスの問いかけに、薫子は答えを持っていなかった。


 雨音を背景に、二人は黙って寄り添っていた。その沈黙は、心地よいものだった。



 その夜、帰宅した薫子は自分の研究ノートを開いた。そこには、これまでの研究成果が整然と並んでいる。しかし今、その学術的な記述の向こうに、別の物語が見えてきた。


 それは、美を求めて苦悩し、戦い、時には傷つきながらも、自分の価値を見出そうとした無数の女性たちの物語。そして、その延長線上にある現代の女性たち、そして自分自身の姿。


 薫子は新しいページを開き、書き始めた。


『美の追求は、時として抑圧の道具となり得る。しかし同時に、それは自己表現と解放の手段にもなり得る。その両義性こそが、化粧文化の本質なのかもしれない……』


 ペンを走らせながら、薫子はイリスのことを考えていた。彼女との出会いは、単なる研究上の協力関係を超えて、薫子の内面に大きな変化をもたらしていた。


 窓の外では、まだ雨が降り続いていた。その音を聞きながら、薫子は静かにため息をつく。


「明日、イリスに会ったら……」


 言葉の続きは、心の中にしまっておいた。


## 第4章 現代


 秋の訪れを感じさせる風が、キャンパスの木々を揺らしていた。薫子とイリスは、学会発表の準備で忙しい日々を送っていた。


「現代の美意識について、私たちなりの視点を示せたらと思うんです」


 イリスが資料を整理しながら言う。


「ええ。特にソーシャルメディアが美の基準に与えた影響について……」


 薫子はパソコンの画面を見つめながら答えた。


「デジタルフィルターやエディット機能で作られる『理想の美』が、新たな抑圧になっているという指摘は重要ですよね」


 イリスが真剣な表情で続ける。


「でも同時に、これまでの画一的な美の基準に異議を唱え、多様な美しさを主張する動きも出てきています」


「Body Positivityムーブメントのことですね」


 薫子は立ち上がり、イリスの隣に座った。


「私たちの研究が、そうした議論に新しい視座を提供できればと思います」


 イリスは薫子の方を向いた。二人の距離が、またしても近くなる。


「薫子……私、あなたと出会ってから、美についての考え方が変わりました」


「イリス……」


「これまで私は、美を歴史的な研究対象としてしか見ていませんでした。でも今は……」


 イリスの言葉が途切れる。薫子は、彼女の目に涙が光るのを見た。


「私にも分かります」


 薫子はそっとイリスの手を取った。


「美は、客観的に研究できる対象であると同時に、私たち一人一人の内面にある、かけがえのない感覚でもある」


「ええ。そして、その感覚は決して一つの基準に縛られるものではない」


 イリスが薫子に寄り添う。


「薫子、私……あなたの中に、新しい美しさを見つけました」


 その言葉に、薫子の心が大きく揺れる。


「イリス、私も……」


 二人の唇が、そっと重なった。研究室の夕暮れの中で、時が止まったようだった。


 やがて、イリスが静かに目を開ける。


「これが、私たちの見つけた答えなのかもしれません」


「美は、愛する人の目の中にある……ということですね」


 薫子も微笑んだ。


 その瞬間、研究室のドアがノックされた。二人は慌てて離れる。


「失礼します」


 学生が資料を取りに来たのだった。


 その夜、二人は大学の近くのカフェで夕食を共にした。窓の外では、街灯が優しく光っている。


「明日の発表、緊張します」


 イリスがコーヒーカップを両手で包み込みながら言う。


「大丈夫。私たちの研究は、確かな証拠と新しい視点に基づいています」


 薫子は優しく微笑んだ。


「そうですね。特に、美の概念が持つ両義性について、歴史的な実例を通じて示せることが強みです」


「ええ。そして、現代における新しい動きについても……」


 話は尽きることがなかった。二人は研究者として、そして一人の女性として、美について語り合った。


 帰り道、イリスが突然立ち止まった。


「薫子、今度の週末、私の部屋で一緒に発表の最終確認をしませんか?」


 その誘いに込められた想いを、薫子は確かに感じ取っていた。


「ええ、喜んで」


 二人は夜の街を、肩を寄せ合いながら歩いていった。


## 第5章 未来への展望


 学会発表の日、会場は多くの研究者で埋まっていた。薫子とイリスの研究発表は、最後のセッションに組まれていた。


「では、最後の発表は桐原薫子准教授とイリス・ラメール研究員による『美の変遷と解放:古代から現代までの化粧文化に見る女性の自己表現』です」


 司会者の声が、会場に響く。


 壇上に立った二人は、まるで一つの魂のように息の合った発表を始めた。


「化粧と装飾の歴史は、人類の美的追求の歴史であると同時に、社会における権力と解放の歴史でもあります」


 薫子が口火を切る。


「古代文明において、化粧は神との対話の手段でした」


 イリスが続ける。


「中世では抑圧の対象となり、ルネサンスで再評価され、そして産業革命期には消費文化の象徴となりました」


 スライドには、二人が収集した貴重な資料の数々が映し出される。


「そして現代、私たちは新たな岐路に立っています」


 薫子の声が、会場に響き渡る。


「デジタル技術の発展は、美の概念をさらに複雑化させました。しかし同時に、これまでにない可能性も開いています」


 イリスが補足する。


「重要なのは、美の追求が持つ二面性です。それは時として抑圧の道具となり得るものの、同時に自己表現と解放の手段にもなり得る」


 発表は大きな反響を呼んだ。質疑応答では、多くの質問が寄せられた。二人は、それぞれの専門性を活かしながら、的確に応答していく。


 発表後、二人は大学の裏庭で深いため息をついた。


「やり終えましたね」


 イリスが安堵の表情を浮かべる。


「ええ。でも、これは終わりじゃなくて、始まりかもしれません」


 薫子はイリスの手を取った。


「私たちの研究も、関係も」


 イリスは頬を染めながら頷いた。


「薫子……私、フランスに戻ることになっているんです。でも……」


「イリス」


 薫子は強くイリスの手を握った。


「距離は問題じゃありません。私たちには、まだ解明すべき謎がたくさんある。そして……」


「そして?」


「探求すべき美しさが」


 二人は静かに見つめ合った。夕暮れの庭で、桜の葉が舞い散る。


「私たちが見つけた答えは……」


 イリスが言いかける。


「究極の美は、自分自身を受け入れ、愛することの中にある。そして……」


「そして、愛する人と共に、新しい価値を見出していくことの中にある」


 薫子が言葉を継ぐ。


 その瞬間、二人は心からの笑顔を交わした。その表情には、研究者としての誇りと、一人の女性としての幸福が溢れていた。


 これは、美の探求者たちの、そして愛の物語の始まりだった。


(完)



# 美の系譜 - Histoire de la Beaute


## 特別編 永遠の美を求めて


 秋の休日、薫子とイリスは都内の美術館でデートを楽しんでいた。特別展「世界の化粧道具展」を見るためだ。


「ああ、これが古代エジプトのコホル容器ですね」


 イリスが嬉しそうに展示ケースを覗き込む。その仕草があまりにも愛らしく、薫子は思わず微笑んだ。


「まるで子供のように目を輝かせて……可愛い」


「あら、今なんて?」


 イリスが振り向く。薫子は慌てて視線を逸らした。


「い、いえ、なんでも……」


「もう、隠さなくていいのに」


 イリスは薫子の腕に自然と寄り添う。その仕草には計算された優雅さがあった。


「ねえ、薫子。この展示、私たちの研究にも参考になりそうですね」


「ええ。特にこの化粧パレットの文様は興味深いわ」


 二人は展示品に見入りながら、時折肩が触れ合う距離で歩いていた。


 美術館を出た後、二人は近くのカフェに立ち寄った。窓際の席で、イリスがカプチーノの泡をすくう姿に、薫子は見とれてしまう。


「どうかした?」


「ううん、ただ……イリスの指先の動きが優雅で」


「まあ、お上手ね」


 イリスは少し照れた様子で、薫子の方へ身を乗り出した。


「でも、薫子こそ素敵よ。特に真剣な表情で研究のことを語るとき、とても魅力的なの」


 薫子は頬が熱くなるのを感じた。


「そ、そう?」


「ええ。だからこそ、もっとあなたのことを知りたいの」


 イリスは一瞬言葉を躊躇い、そして決意を固めたように続けた。


「薫子、私……あなたともっと一緒にいたいの」


「イリス……」


「私の部屋、けっこう広いのよ。二人で暮らせるくらい」


 イリスの瞳が揺れている。その中に期待と不安が混ざっているのが見て取れた。


「同棲……ということ?」


「ええ。毎日一緒に研究して、話して、笑って……そんな生活を送りたいの」


 薫子は深く息を吸い込んだ。心の中で様々な感情が渦を巻いている。でも、答えはもう決まっていた。


「私も……そうしたい」


「本当?」


「ええ。イリスと一緒なら、きっと素敵な日々になるわ」


 イリスの目に涙が光った。


「ありがとう、薫子」


 二人は互いの手を取り合い、幸せな笑顔を交わした。カフェの柔らかな光が、その瞬間を優しく包み込んでいた。



 それから数日後、薫子は自分の荷物を整理していた。明日からイリスと同じ屋根の下で暮らす。その考えだけで胸が高鳴る。


「これは……」


 段ボールの中から、イリスと初めて会った日の資料が出てきた。古代エジプトの化粧道具についての報告書。薫子は懐かしさと共に、その時の緊張と期待を思い出した。


 チャイムが鳴る。


「お手伝いに来たわ」


 ドアを開けると、イリスが立っていた。休日のカジュアルな服装が、普段の研究者としての彼女とは違う魅力を放っている。


「イリス……」


「どうしたの? そんなに見つめちゃって」


「だって、可愛すぎるんだもの」


 今度は薫子の方から素直な気持ちを伝えた。イリスは嬉しそうに微笑む。


「まあ、照れるわ」


 イリスは薫子に近づき、その頬にそっとキスをした。


「これからは毎日、こうして甘えられるのね」


「ええ。楽しみにしています」


 二人で荷物を整理しながら、新生活への期待を語り合う。時折、指先が触れ合うたびに、小さな電流が走るような心地よさを感じた。


「ねえ、薫子」


「なあに?」


「私たちが研究している『美』って、結局のところ、愛する人と過ごす日常の中にあるのかもしれないわね」


「そうね。その通りよ、イリス」


 夕暮れの部屋に、二人の笑い声が響いた。そしてそのあと、二人の唇がそっと重なり合う。


 新しい人生の一歩を、二人は確かな想いと共に踏み出そうとしていた。


(特別編・完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【研究者百合短編小説】美の系譜 ~Histoire de la Beauté 二人の愛のカタチ~(約9,200字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画