雪花のいない、冬。
駅を出て、見慣れた懐かしい光景が眼前に広がる。
やはり雪がしんしんと降ってはいて、地面が白く覆われてはいるが、歩くのが困難というレベルではないし、もうすこし高く降りつむ雪を想像していたので、私はほっとする。
生まれた町に足を踏み入れるのは、約四年振りだ。自分が久し振りに故郷の地を訪れた時、どんな感情になるのか、それが実は心のどこかで気になってはいた。この町も全然変わっちゃったな、とでも思うのだろうか、とか。だけどたった四年では、町もそこまで変化する気にはなれなかったみたいだ。いつまで経っても何も変わらないな、と思った。十年ひと昔なんて言葉があるから、十年越しに訪れていたら、町もその姿を変える気になっていたのだろうか。想像でしかないが、十年経っていたとしても、あまり変わっていないように思う。自ら時代から取り残されることを望むように、この町にはゆるやかな時間が流れている。高校までの私はそれを嫌っていたが、いまなら悪くない気もするから不思議だ。
「どうしたの。感傷に浸っているね」
私の思考を途切れさせるように、雪花が言った。
「まぁ、うん。否定はしないよ」
「おっ、めずらしく素直だね」
「そんな普段からひねくれているつもりもないけど」
「いや、きみは自分で思っているよりも、ずっとひねくれ者だよ。これから苦労するタイプだ」
「同い年に言われたくない」
「じゃあ年上に言われるならいいんだ」
「どっちにしても嫌かな」
私たちは横に並んで歩く。雪が不慣れなのか、雪花が途中で転びそうになった。
「大丈夫? 雪に慣れてないだろうから、気を付けて歩いてね」
「いや、そんなに慣れてないわけじゃないつもりなんだけどね」
と雪花が照れたように笑った。
バスの停留所に着く。そんなに本数も出ているわけではないので、あと二十分ほどは待たなければならない。遅延するほどの雪ではないので、その心配をする必要はないだろう。
遅延か……。
嫌な響きだ。
そう思ってしまうのは、やはり私がまだ母の死に囚われているからだろう。私がひとつ息を吐くと、「気にしなくていいよ」と私の心でも読んだのか、雪花が言った。私が何も返せずにいると、もう一度、雪花が告げた。
「気にしなくていいよ」
その瞬間、何故か雪花の顔に、母の面影が重なった。
私は頷くことしかできなかった。
バスに乗って十五分、我が家から歩いて五分のところにあるバス停に、私たちが乗っていたバスがとまる。バスをおりると、ちょうどそこから見えるスーパーの建物を指差して、雪花が言った。
「私、そこで待っているから」
「えっ。一緒に」
「行くわけないでしょ。大体、私が親子水入らずの状況に割り込むのは、変だと思うよ。本当に結婚報告するなら必要だけどね」と冗談めかした言葉を添えつつ、彼女が続ける。「だから、ふたりっきりで、ちゃんと話してきなさい。別に絶縁しているわけでもないんだから、怖くないでしょ」
雪花と別れて、私は実家に向かう。
事前に連絡は入れていない。いきなり帰るほうが失礼で、本来なら行きにくいはずなのだが、何故か私は事前に連絡を取り合うほうが怖かった。
家のチャイムを鳴らす。
玄関の戸の向こうから、「誰ですか」と父の声が聞こえる。
「私」
と言って、そのあとに自分の名前を告げる。向こうで父が息を呑んだのが分かった。
父が玄関の戸を開ける。
白髪の増えた父が、そこにいる。ふっくらとした体型だった父は、この四年間ですこし痩せたような気がする。もしもストレスだったらごめんなさい、と私は心の中で、父に謝った。
「久し振りだな。おかえり。もう帰ってこない、と思ったよ」
『一度タイミングを失ったら、どんな顔して会えばいいか分からなくなって』『このままもう二度と帰らないかも、って思ったこともある』私の返事には色んな選択肢があったわけだが、そのどの言葉も、私の口から出て来なかった。私の目からとめどなく涙が流れ、ほおをつたい、何の言葉も発する余裕がなかったからだ。
私の涙が落ち着いた頃に、父が言った。
「しかし、事前に連絡をしなさい。何の準備もできないだろ」
「何の準備もいらないよ。ただ会いに来ただけだから。ふたりに」
「……そうか。ただどちらにしても、父さん側の心の準備も欲しいからな。こう、なんだ。何度か電話でたまにやり取りはしていても、な。いきなり、というのは、心臓に悪い」
「それは、ごめんね」
「今日は泊まっていくか?」
「実は友達と一緒に来てて。ひとりが不安だったから……」
「そうか、じゃあその子も呼ぶといい」
「直接、聞いてみないと。……でも、お父さん、びっくりしちゃうかも」
不思議そうに首を傾げる父に、あぁごめん、なんでもない、と私は話を変えることにした。
「でも、とりあえずはまたあとで連絡するね。私、今日はお母さんにも会いに来たから」
「しかし、こんな雪も降っているような日に、なんて。俺も一緒に付いていこうか」
「このくらいの雪なら別に問題ないと思うけど。大丈夫。母娘ふたりっきり、お父さんに内緒の話もあるかもしれないでしょ」
冗談めかした私の言葉に、父が笑う。「そうも、そうか」
「これからはたまに定期的に帰ってくるようにするから、あんまり心配しなくても大丈夫だよ」
「お前のことなら、そんなに心配してないさ。どちらかと言うと、お前に会えない、俺自身の心のほうが心配だよ」
私は実家を離れると、雪花が待っているだろうスーパーに向かった。冬空が降り落としていた雪は勢いを失ったように、粒がちいさくなり、舞うだけになっていた。
雪花はスーパーの庇の下に置かれたベンチに腰掛けていて、自販機で買ったのだろう、手には缶のおしるこを持っている。
「はじめて飲んだけど、結構おいしいね」と私にほほ笑む。「おかえり。どうだった」
「別に。普通に久し振りに会った挨拶をしてただけ」
「ふーん、普通に、か」と雪花が自分自身の目じりを指でなぞった。「それだけ、しっかり涙の痕を残しておいて」
「恥ずかしいな」
「恥ずかしくないよ。だから素直になりなよ」
「素直に、か。でもそれはお互い様だ、と思うけど」
「さて、何のことかな」
そう言って、雪花はとぼけた表情を浮かべる。まったく。私が気付いていない、と思っているのだろうか。と言っても、私も気付いたのは、ついさっきのことなのだが。彼女の嘘について、私はもっと怒るべきなのだろうか。裏切りだと糾弾するべきなのだろうか。だけど、どうもそんな気持ちにはなれない。感謝の気持ちのほうが勝っているからだ。
「ねぇ雪花、いまからお母さんの墓参りに行くつもりなんだけど、雪花はどうする」
「きみが寂しいなら、付いていくけど」
「そんなに寂しいわけじゃないけど……」いやこれはすこし強がりが混じっているかもしれない。「でも、雪花には付いてきて欲しい。そうじゃないと、いくらお母さんに会いに行ったとしても意味がない気がして」
雪花の吐いた息は、寂しげな白い靄となった。別れの予兆にも感じて、私たちに残された時間は決して長くはないのかもしれない、と思った。
「うん。分かった。きみが望むことなら、私は叶えてあげたい。だって約束したからね」
もちろんこの約束は、雪花としたことであって、雪花としたことではない。雪花はもう隠すことをやめたようだ。その言葉を聞いたあの日、まばゆく白い光が、病室を照らしていた。その純粋なほどに白く染まった世界が、私に澱んだ感情を与えたのを覚えている。
私たちは、霊園に向かった。母の眠る、という表現は正しくないだろう。
母の墓がある。ここを訪れるのも、本当に久し振りだ。
私が手を合わせていると、背後から、「ごめんね」という声が聞こえてきた。私は振り返らずに、雪花に……いや、母に答える。
「お母さんが謝ることなんてひとつもないよ」
「最後に会ってあげられなくて。もうすこし、って粘ってみたかったんだけど、なかなかうまくいかないもんだね。ずっとそばであなたを見ていたかったんだけど、いつまでも、こうしているわけにもいかないからね」
きみ、と呼んでいた母が、あなた、とその呼び方を変える。
その声は寂しげだ。私は振り返らない。私はその声が確かに存在しているものだと信じているが、見た瞬間、すべてが嘘だったかのように消えてしまう不安に囚われたからだ。
「一歩も踏み出せずにいる私を助けにきてくれたんだね」
「娘がどうしているか気になるのは、自然な感情でしょ」
「ごめんね。四年間も。時間が掛かり過ぎたね。普通の子だったら、もっとすぐに歩き出せるんだろうけど、私は昔から何をやるにも遅い子だったから。おとなになっても、迷惑を掛けてばかりだ」
「遅い子だ、なんて思ったこと、一度もないよ。そんなこと一度も」
目を瞑りながら、私は祈っていた。この時間がもっと続くことを。いつまでも続かないことなど分かっていながら。
「お墓参りが終わったら、今日は、家に一泊しようと思ってるんだ。お父さんがそう言ってくれたから。友達が一緒に来てる、って話もしたんだ。ねぇ、お父さんに会わなくていいの? 一緒に行こうよ」
「残念だけど、それはできないかな」
「なんで」
「もう残された時間はわずかしかない。そりゃ、私だって、あのひとと話したい気持ちもあるけど、たぶん、会話を交わすことはできないから。私とあなただけが特別。それに、もしも」
「もしも?」
「もしも話すことができたとしたら、それはそれで、未練が残る。もうすこし、あと、もうすこし、こっちにいたい、ってね。でもあなたが歩きはじめたように、私も歩きはじめないといけないから。だから、ここでさよならをしよう、と思って」
母が、私の名前を呼んだ。両親ふたりで一文字ずつ出し合って名付けた名前だ、と聞いている。幼い頃はあまり好きではなかったが、いまではとても気に入っている。
「ねぇ、お母さん」
と言ったが、返事はなかった。振り返らないまま、もう一度、「ねぇお母さん」と声を掛けてみた。返事はない。
私は覚悟を決めて、振り返る。
そこには誰もいない。消えてしまったのだ。白浜雪花という女性など、はじめからいなかったかのように。その存在を知っているひとなど、どこにもいないはずだ。私は雪花が……母が、誰かと話している場面を一度も見たことがない。たとえば電車の中で高齢の女性が首を傾げていたように、他のひとには雪花の姿は見えないのかもしれない。私だけが雪花を、知っていた、のだ。
いますぐに誰かと、雪花のことを、母のことを、話したくなった。
あまりにも不確かで、証拠は何ひとつないのだけれど、確かにいたのだ、と。
私は父に電話を掛ける。
「ねぇ、お父さん、今日、やっぱり泊まってもいいかな。どうしても、どうしても話したいことがあって」
雪はさっきまでよりも大粒になっている。母と別れの瞬間、一緒に見ることができたからか、きのうまでの憎しみは消えていた。
涙がほおをつたっていく。
私はようやく、母の死に対して泣くことができたみたいだ。
雪の花と帰る サトウ・レン @ryose
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