雪の花と帰る

サトウ・レン

雪花のいた、冬。

 母が死んだ時、電車の中から窓越しの雪をぼんやり眺めていた。私はまだ高校生だった。


 大雪で遅延した電車が速度をおおきく落としてゆるやかに走行し、母が入院している病院の最寄り駅を目指していたのだ。娘に気を遣ったのだろう。電話ではなく、ラインだった。父からの素っ気ないメッセージで、私は母の死を知った。別に母の死に顔をこの目に焼き付けたい、と思ったわけではない。見なくて済むのならば、見たくはなかった。母を嫌っていたからではなく、その反対で、私が母を愛していたからだ。もちろん気恥ずかしくて、実際にそんな想いを口にしたことはない。


 見なければ、まだ生きているかもしれないじゃないか、とかすかな可能性にでもすがりたかったのかもしれない。結局、その後に、動かなくなった母と対面しているので、すぐにそんな幻想は打ち砕かれてしまうのだが。


 あんなにも私は母が好きだったはずなのに、父からの連絡を受けた時も、死装束を纏った母を見た時も、棺に入った母が燃やされる時も、私は泣かなかった。泣けなかったのだ。そんな自分を、私は心底、醜い、と思って、吐きそうになり、そして実際に吐いた。涙は吐き出されてくれないのに。私は、私自身を憎んだ。


 例えばあの日、学校が休みの日だったなら。

 例えばあの日、雪が降っていなかったなら。

 あれから何度、私はそんなことを考えただろう。私は、私自身の感情の澱みを何か別のもののせいにしたかったのかもしれない。多少、その自覚はある。だから私は、私自身を憎む以上に、雪を憎んだ。冷たい季節を嫌悪した。母が死ぬ瞬間に、その場所に立ち会えていたなら、私は泣けたのではないだろうか、と。


「雪、私は好きだけどなぁ。またいつか好きになれたらいいね」

 大学に入ってすぐにできた友人がいる。私が通っていたのは和歌山市内にある大学で、雪国から敢えて温暖な印象のある地域を選んだのは、間違いなくあの時の母の死がきっかけだ。私にそう言った友人は、白浜雪花しらはませつかという名前の女性で、彼女はどこか母に似ていた。だからこそ私は雪花に、いままで誰にも言えなかった、雪が嫌いになった理由を話したのだ。


「私は元々、好きだったことなんて一度もないよ」

「本当? たとえば雪を見て、はしゃいじゃったりしたことなかった?」

「あったかな」

「あったよ。間違いなく」


 なんでそんなにも自信満々なんだろう、と思った。私の過去を知っているわけでもないのに。雪花は私と違って雪国の生まれではない。だから大雪の苦しみが分からないのだ。


 彼女は、不思議な子だ。静かな子だ、と思ったら、ときおり激しい感情を見せたり。とらえどころのないところも、どこか母を思わせた。もうすぐ私たちは大学も卒業の時期だ。彼女とはもう四年近い付き合いになるはずなのに、いまだに彼女は謎めいたままで、新たな顔を覗かせてくれる。私にとっては見ていて飽きないタイプだが、人付き合いはあまり好きではないみたいで、友達は私以外、誰もいないのかもしれない。他のひとと一緒に過ごしているところを、あまり見た記憶がない。まぁ私も友達が多い人間でもないので、偉そうに言えることでもないのだが。


「もうすぐ、私たち、卒業だね」と雪花が言った。

「そう、だね」

 と返したあとに、気付いた。無意識だったのだが、私の声の色には翳りが混じっていたかもしれない。そうか、もう会えなくなるのか。私の内定をもらっている企業は関西にある。就活についての話を私にまったくしてくれないので、彼女がどこに行くのかはまったく分からないのだが、一度だけ、「卒業したら、私は遠いところに行くから。もうきみとは会えなくなっちゃうね」と言われたことがある。電話くらいできるでしょ、と私は言ってみたのだが、彼女はちいさく笑って、首を横に振るだけだった。


 彼女の今後や真意はまったく分からない。

 ただ分かることがあるとすれば、私たちに残された時間はとても短い、ということだ。半年くらい前は、まだまだ時間があるような気がしていたのに、いつの間にか、もう残りは二、三ヶ月になっている。


 ぼやけた空から、小雪が揺れ落ちている。比較的温暖、と言っても、もちろん和歌山にも雪は降る。残念ながら。雪を見ながら私はうんざりしたが、雪花は楽しそうにしている。そう言えば、と思った。母も雪を見ると、娘の私以上に、嬉しそうにしていた記憶がある。なんでこんな雪国に住んでいて、運転や雪かきも大変になるのに、こんなに嬉しそうにできるのだろう、と子どもながらに不思議な気持ちになった。実際、父はうんざりした顔をしていたし、その表情のほうが、私にはしっくりときた。


「ねぇ、せっかくだから。卒業旅行でもしない。ふたりで」

「まだ卒業には、結構、時間が残っているよ」

「すこしくらいフライングしたっていいでしょ。行ける時に行くのが、旅行でしょ。せっかく時間がある時に行動しなかったせいで、結局どこにも行けないまま、とか絶対に未練が残るから」

「まぁいいけど。で、どこに行くの? 京都にでも行く?」

「ううん。きみの生まれた場所に行ってみたいな?」

「私の生まれた場所? そんなところより、もっと良いところいっぱいあるでしょ」

「どこにだって、良いところはいっぱいあるよ」

「いや、でも……」

「帰りたくないんでしょ」と私の心を見透かすように、雪花が言った。「知ってるよ。こっちに来てから、何かと理由を付けて、一度も帰省しなかったことは。ちゃんと一度くらいは帰ってあげないと、お父さんが悲しんじゃうよ」

 優しくしかるような彼女の声音に、私は何も言えなくなってしまった。


 もちろん自覚はしている。

 怖い。

 あそこは母を失った場所だ。そして遠ざかろうと意識すればするほど、戻ることはさらに怖くなる。


「いいでしょ。私が付き添ってあげるから。そうだね、お父さんに、私もご挨拶しようか。『娘さんとお付き合いさせていただいている者です』って」

「変な冗談はやめてよ」


 そして私たちは、私の郷里へと向かう電車に揺られている。あの会話からちょうど一週間が経っていて、結局、私が根負けする形になったのだ。そろそろ東北に入った頃だろうか。私がかつて住んでいた町は山形県の中でも、特に雪の多い地域で、予報を見ると、警報が出るレベルではないものの、雪がしんしんと降っているだろう景色が容易に想像できた。想像して、うんざりした。もしも母の死の瞬間に立ち会えていたとしたら、私はこんなにもうんざりした気持ちになることはなかったのだろうか。


「どうしたの、緊張してる?」

 私の横では、ニコニコした顔で雪花が車窓越しの景色を眺めたり、たまに私のほうを向いたりしている。雪花は横並びになっているシートの窓際のほうに座っている。そっちに座りたい、と雪花からお願いされたのだ。子どものように無邪気に眺めている姿が、私にはすこし不思議だった。


「そんなに外の景色、楽しい?」

「こうやってのんびり外を眺めていられる時間って貴重なんだよ」

「そう?」

「うん、それになんだか懐かしい感じがするでしょ」

「懐かしい? 初めて来るのに?」

「あぁ、そうだね。初めてだ、うん、初めて。でも、原風景に根差したような景色っていうのは、それが初めて見たものだとしても、懐かしさを感じるようにできているんだよ、きっと人間は」


 ときおり、雪花は人生について悟ったかのようなことを口にする時がある。私は雪花の過去はあまり知らないし、詮索するつもりはないのだが、結構苦労の多い人生を送っているのかもしれない。彼女に限った話ではないが、これが人生何度目なのだろう、と同い年なのに、年上の余裕を感じてしまうひと、というのはいるのだ。


 雪花は手元に一冊の文庫を置いていた。水仙のマークが刻印された紫色の革製カバーを付けているが、中身は知っている。浅倉卓弥の『雪の夜話』というファンタジーだ。彼女が電車に乗ってすぐに教えてくれた。まぁもしきみが寝ちゃったら、これでも読んで時間でも潰そうかな、と思って。これから雪国の厳しい寒さへと向かう中で、なんでわざわざそういう小説を選ぶのだろう、と思った。私が以前読んで雪花にすすめた小説なので、面白い小説なのは知っているが。


 ふと私と対角線上に座っている高齢の女性と目が合った。女性は私を見ながら、不思議そうに首を傾げている。もしかして知っているひとだろうか、と思ったが、見覚えはない。


「あと、どのくらいだろう。きみのいた町まで」

「まだ、もうちょっと掛かるよ」

「ここに行きたい、とかある? あぁでもまずはきみはお父さんに会いに行かないといけないね。親不孝者でごめんなさい、って。絶対に心配してたと思うよ」

「そんなこと……ない」

「そんな自信なさそうに言ったら」雪花が笑った。「そうだ、って認めてるようなもんだよ。まぁいいじゃない。これまでなんて、どうでも。大事なのは、これからだよ」


 そのあと、お互いに意識したわけではないだろうが、私たちの会話は止まった。沈黙の時間が、私たちの間に流れたわけだが、決して気まずいわけではない。私たちにはこういう時がときおりあって、こういう状況が嫌ではないからこそ、私たちは友人関係を続けられたのだと思う。つねに会話が途切れないように気を遣わないといけない関係は気疲れしてしまう。


 会話がなくなると、睡魔が襲ってきた。

 元々、私は今日のことが気がかりで、全然眠れていなかったのだ。実家へと帰ることを考えると、妙に緊張してしまって。だから雪花の指摘は決して間違ってはいない。


「どうしたの、眠たい?」

「まぁ、ちょっと」

「じゃあ寝るといいよ。私の肩、すこし貸してあげるから」

「いいよ、それは」

 それはさすがに恥ずかしすぎる。


「そっか。まぁでも、寝なよ。近付いてきたら、起こしてあげるから。大丈夫。間違えて乗り過ごしたみたいなことにはならないから」


 我慢してみようと思ったが、気付けば眠りに落ちていたみたいだ。

 彼女の肩にもたれて。

 それを知ったのは、起きたあとのことだ。

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