答えの代わりに焼きたてパンを 後
それから数日が経った、ある日の夜。
仕事を終えて帰ってきたサツキがほとんど空っぽの冷蔵庫を覗いていると、唐突にインターホンが鳴った。
咄嗟に玄関の方へ顔を向ければ、キッチン棚へ置かれた時計が目に入る。もうすぐ九時半だ。こんな時間に誰だろう、と考えを巡らせながら、チェーンをつけたままの玄関扉をそっと押し開けると。
「さっちゃーん! 久しぶり!」
扉の隙間から聞こえてきた、耳に馴染んだ幼稚なあだ名。
驚いたサツキは、あたふたと手際悪くチェーンを外し、腕をいっぱいまで伸ばして扉を開けた。
「ミ、ミノリ?!」
「やっほ~」
玄関から飛び出してきたサツキを見たその人は、小さく体を傾け、柔らかな笑みを浮かべる。
その拍子に揺れる、ふんわりとしたロングスカート。サラリと流れる、ウェーブがかった長い小麦色の髪。弧を描いた口元から覗くのは、少し外に向いた八重歯。見慣れた、けれどもう何年も見ていなかった笑顔だ。
そこに立っていたのは、故郷にいるはずのミノリだった。
「ど、どうしたの、何でここに?」
「あれ? 手紙、読んでない?」
「手紙?」
言われてから、はたと思い至る。
数日前に届いた、何の匂いもしない白い封筒。何が書かれているのか想像すると恐ろしくて、あれからずっとカバンに入れたままだ。
しまった。何てことはない、今日の訪問を知らせる手紙だったのか。
流石に読んでいないと白状するのは躊躇われて、サツキは誤魔化すように「あー」と言いながら、うつむいて首の後ろをこする他なかった。
すると、ふっふっふ、と楽しげな笑い声。
見れば、ミノリはイタズラが成功した子供のようなニンマリ顔をしていて。
「じゃーん! さっちゃん、キミにパンを食べさせに来たよ!」
そんな高らかな宣言と共にサツキの眼前へ掲げられたのは、見慣れたパン屋のロゴが入った紙袋だった。
ガリ、とバジルチーズパンに歯を立てる。
一口頬張れば、口いっぱいに広がる香ばしいチーズのコク。鼻を抜けていくバジルのスパイシーな香り。あごを動かす度にバターの風味があふれてくる固めの生地は、噛み応えがあって空腹のサツキにはたまらなかった。
「あ~、美味しい~……」
「いやぁ……うん、それはすっごくアリガトウなんだけどぉ……」
「なによ」
テーブルに頭を横たえたミノリに、サツキは首を傾げた。
ミノリお手製のパンが並んだテーブルの向こうでは、焼いた店主自らミニバターロールをかじっている。たくさん袋に詰められているうちの一つだ。それを「一つだけ味見させて」と言って食べ始めたのだが、どういう訳か、彼女の表情は険しかった。
「やっぱり鮮度が……焼きたての味が……」
「ちょっと。美味そうに食べてよ。折角のパンが不味くなるでしょ」
「はぁい……」
呆れ混じりに言えば、ミノリは納得いかないと言わんばかりの渋い顔で、残っていたひとかけを口に放り込む。
サツキにはとっては、文句のつけようが無いほど美味しいパンだ。これが不満の味だなんて。相変わらず、ミノリのパンへのこだわりは並外れている。
続けてオニオンベーコンパンを食べ始めたところで、ミノリがハッとして身を乗り出してきた。
「ていうか、さっちゃん、スーツのままじゃん。こんな時間まで仕事してたの?」
「まぁね。……大事な用があるから、仕事が山積みだったの」
「ふーん?」
口を尖らせて、不服そうな声で言うミノリ。
皆まで言われなくとも分かる。「自分を大切にすることよりも大事な用なんてある?」と思っている顔だ。パンが好きという自分の思いを大切にして今に至っている彼女から言われると、説得力がありすぎて困る。
そういうミノリはどうなの、と質問を返そうとした瞬間、いつか聞いた声が脳裏を過ぎった。
『〝町のパン屋さん〟の倒産が――』
たちまち、言葉が出てこなくなる。
――そっちだって大変じゃないの?
――焼きたてにこだわるくせに、どうしてその信条を曲げてまで食べさせに来たの?
いくら想像しても、返ってくるのは聞きたくない答えばかり。それが現実になるのが怖くて、サツキはただ噛み締めるようにパンを味わうことしか出来なかった。
そうして、ミノリが届けてくれたパンは、あっという間に全てサツキの腹の中に消えていった。
「それで、今日はこの後どうするの? 明日、お店は定休日だったよね?」
「うん。だから、ゆっくり帰るつもりだよ。今晩はどっかのホテルにでも泊まろうかな~って」
「今から探すの?」
「? うん!」
「……ちなみに、帰りの切符は?」
「まだ~」
「……」
あっけらかんと答えるミノリに、サツキは顔を両手で覆って天を仰いだ。
行き当たりばったりにも程がある。ミノリは、パン以外のこととなると本当に適当だ。そういうところはまだ直っていないらしい。
「あー……今日はもう遅いし、うちに泊まっていきな」
「えっ! いいの?」
「いいよ。っていうか、こんな夜中に放り出せる訳ないでしょ」
それからサツキは「帰りの電車決まってないならさ」と前置きして、財布から買ってきたばかりの切符を取り出した。
「この時間なら私と一緒に帰れるよ。始発だけど」
「え?」
テーブルに置かれた特急券を見て、ミノリの目が丸くなる。
「……帰ってきてくれるの?」
「うん」
ゆっくりとこちらに視線を向けながら呆然とつぶやいたミノリに、サツキは大きくうなずいてみせる。
ミノリにたずねたいことは、数え切れないほどあった。
なのに、何一つ口にすることが出来なくて、答えは聞けないままでいる。
だからサツキは、焼きたてを食べに行くことにした。ミノリが焼いたとびきり美味しいパンを食べれば、その答えが分かるような気がしたのだ。
しばらく見つめ合ったままでいた二人は、やがてこらえきれなくなって、どちらともなく笑い出した。
満面の笑みを浮かべたミノリが、胸の内の喜びを全て乗せたような勢いでギュッと抱きついてくる。
それを受け止めて抱きしめ返すと、ふわりとかぎ慣れた手紙の味がした。
答えの代わりに焼きたてパンを 二階堂友星 @niboshimoku
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