答えの代わりに焼きたてパンを

二階堂友星

答えの代わりに焼きたてパンを 前

 ミノリから届く手紙は美味しい。


 ひんやりとした暗いワンルームに帰ってきたサツキは、ドア裏の郵便受けに可愛らしい小麦色の封筒が入っているのを見つけて頬をゆるめた。

 ジャケットもブーツも脱がないままそれを手に取り、そっと鼻に近付ける。


 こんがり焼けた生地と、香ばしいバター。


 鼻の奥をくすぐる、ほのかな酵母の深み。


 ふわりと広がる華やかな甘みはサツマイモだろうか。


 そんな匂いをたっぷり吸い込みながら目を閉じれば、店先に整列した黄金色のパンと、誇らしげなミノリのエプロン姿が浮かんでくる。


「はぁ……美味しい」


 たまらず、グルルと物欲しそうにお腹が鳴った。


 故郷にいる幼馴染みのミノリは、小さなパン屋を営んでいる。月に一度届く彼女からの手紙には、決まって香ばしいパンの匂いが染みついていた。なんでも、上京してなかなか帰省出来ないサツキのため「せめてものお裾分け」なのだとか。


 封筒の香ばしさと甘みをひとしきり味わってから、サツキはようやく封を開け、匂いの元である三つ折りになった便せんを取り出す。


『さっちゃんへ』


 彼女らしい、丸みのある大きな文字でつづられた手紙。


 書かれていたのは、十月の新作パンである「スイートポテトパン」のことだった。それから、思いついたことを片っ端から書いたのだと分かる近況報告。


 封筒には、厚紙に手書きされた百円引きクーポン券と、スイートポテトパンとミノリのツーショット写真も同封されていた。


『是非焼きたてを食べに来てね!』


 写真に直接黒マジックで書かれた一文に、サツキは思わず、肩に掛けたバッグからスケジュール帳を取り出す。けれど、パラリとめくった途端に現れたのは、びっしりと書き込まれた開き癖のついたページだった。目を通すのも億劫で、すぐにパタンと閉じてしまう。


 そこでふと、その背表紙が膨らんでいることに気が付いた。


 いつからこんなに分厚くなっていたのだろう。ミノリから送られてくるクーポン券はスケジュール帳に挟んだまま貯まる一方で、いつの間にかピッタリと閉じられなくなっていたらしい。


 はぁあ、とサツキの口から重たい息がこぼれる。


 すると、空っぽになった肺へ容赦なく入ってくる、香ばしい焼きたてパンの匂い。


「……私も、ミノリのパン、食べに行きたいよ」


 うわごとのように呟いたサツキは、空っぽの腹を満たすため、おぼつかない足取りでキッチンへと向かった。


 ◇


 ミノリから届く手紙は、それからもずっと美味しかった。


 シナモンリンゴデニッシュ。


 サンタクロースのホワイトチョココロネ。


 二〇二四干支のドラゴンロール。


 もちもち雪だるまチーズパン。


 スケジュール帳を埋めていた年度末の繁忙期真っ只中だったサツキにとっては、その手紙が一番のごちそうだった。勿論、実際に食べている訳ではないけれど。




 そうして繁忙期を乗り越え、その疲れもまだ残る頃。


 重い体をひきずるようにワンルームへ帰ってきたサツキは、身に付けていたバッグやカーディガンをそこらじゅうに放りながらベッドへ直行した。マットレスのスプリングを揺らして腰を降ろすと、ブラウスにシワがつくのも構わず布団の上へ寝転がる。


 ワンルームは静かだった。


 夜の十時を過ぎたベッドタウンは、どこもかしこも寝静まっている。時折、近くの幹線道路を走る車のエンジン音が聞こえてくるだけで、他には何の音もしない。


 あぁ、このまま目を閉じれば、ぐっすり眠れ――いや、いけない。まだ化粧も落としていないのに。お風呂も夕飯もまだなのに。


 そう思ったサツキは、ノロノロと半身を起こして腕を伸ばし、テーブルの上に置かれたリモコンを手に取った。


 ただ鼓膜に刺激を与えたくてテレビの電源ボタンを押せば、思惑通り、アナウンサーがニュースを読み上げる声が耳へ入ってくる。淡々とした、どこか高圧的にも思える語気の強い声。眠気を追い払ってくれそうな声だ。


 それを音として聞き流しながら、起こした体を再び横たえて、柔らかな冷たい布に身を預ける。


 これなら、眠らないようにしつつ、もう一休み出来るだろう。もう少しだけ――。

 すると突然、それが明瞭な言葉となってサツキの頭に響いた。


『――物価高が続く中、〝町のパン屋さん〟の倒産が急増しています』


 ハッとして、体が跳ね起きた。


 テレビの中では、無表情のアナウンサーが『原材料価格や燃料費の高騰などにより』と続け、閉店するパン屋やその常連客を取材する映像が流れている。


 サツキはベッドに座ったまま、目の前の液晶を呆然と眺めていた。


「……あ」


 ふと我に返る。と同時に『続いてのニュースです』という声。


 居ても立ってもいられず、サツキはベッドの側にあるサイドテーブルに手を伸ばした。引き出しを開け、そこにしまってあるお菓子の空き箱を開ければ、ぎっしりと詰まった手紙が飛び出してくる。ミノリから届いた美味しい手紙たちだ。


 その一番上にある、真新しい桜色の封筒。


 そこから便せんを取り出して、そっと鼻に近付けてみる。


「あれ……?」


 何も匂いがしない。


 思わず、手にした便せんと封筒を確かめる。けれどやはり、先月の始めに届いた、三月の新作パン「さくらあんぱん」のことが書かれた手紙に間違いない。


 届いた時には確かにしたはずだ。香ばしいバターと甘いあんこ。桜の葉の塩っ気のある独特の風味。そんな春らしい匂いは、どこかへ消えてしまったらしい。


 いや、当然か。一ヶ月も経てば、紙に移った匂いなど残っているはずがない。


 そう分かってはいても、考えずにはいられなかった。


 ――パン屋を辞めたミノリから届く手紙は、きっと何の匂いもしないのだろう。


 そんな嫌な想像にふたをするように、サツキは便せんと封筒を空き箱に戻し、音を立てて引き出しを閉じた。それから、床に転がったカバンからスケジュール帳を出すと、書き込まれた日程とのにらめっこを始めた。




 次の日、家に帰るとミノリから手紙が届いていた。


 ドア裏の郵便受けの入った無地の白い封筒を手に取った途端、息が止まる。


 何も匂いがしない。


 そこに貼られた可愛らしいパンのシールの封を、サツキは剥がすことが出来なかった。

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