後編

 宵闇がしのび寄る美術室で、僕は夏野しおりの瞳を見つめていた。そこには疑問も恐れもなく、ただ穏やかな光が揺らめいている。

 「一緒に描くって、何を?」

 声が震える。だが、しおりはすべてを見通すように微笑んだ。

 「私が未完のまま残したかった“未来の絵”よ。いつか見たかった景色、実現しなかった夢。それらをもう一度、キャンバスに刻みたいの」

 外では夏休みの終わりが近づく気配が濃くなりつつあった。セミの声は日に日に弱まり、夕暮れは少し早く訪れるようになっている。僕はしおりがなぜこの夏に現れたのか、何となく分かってきた。彼女はかつてこの部室で才能を輝かせながらも、病に倒れ、描きたいものを描き残して逝った少女。成し遂げられなかったことを、もう一度誰かと共に挑戦したいのだ。

 「でも、俺に何ができるのかな。俺こそ、自分が何を描きたいか分からないのに」

 「それでいいのよ。分からなくても、一緒に考えてみない? 私は、あなたが絵を諦めそうになっている姿を見たとき、不思議と放っておけなかったの」

 しおりは筆を握りしめ、自分のキャンバスに向き合う。そして、その視線は僕に向いた。

 「描き残した未来は、もう一人の手が必要だったの。私の色だけでは足りない。私一人では表せなかった景色が、あなたとなら見えるんじゃないかって思ったの」

 その言葉はまるで、彼女が生前に抱えていた孤独や葛藤を示しているようだった。どんなに才能があっても、描けなかったものがある。無念にも絶たれた時間を、再び絵筆で繋げるために彼女は戻ってきた。

 僕は頷く。まだ不安はあるが、逃げる理由はない。彼女と一緒なら、新たな答えを見つけられるかもしれない。

 「分かった。やろう、一緒に」

 すると、しおりの瞳が輝いた。それは胸を締めつけるほど美しく、儚げな光。僕の返事を聞いて、彼女は静かに笑みをこぼした。


 僕たちは翌朝から本格的に絵を描き始めた。夏休みも終盤に差し掛かり、美術室は相変わらず人気はない。窓の外からは朝露に濡れた校庭の匂いが微かに漂ってくる。しおりはキャンバスを新たに用意し、僕たちはその一枚に二人で向き合った。

 「最初に何を描く?」

 僕が尋ねると、しおりは少し考えてから答える。

 「光を描きたい。夜明け前の、一筋の光」

 彼女が言う“未来”は、おそらくまだ夜が明けきらぬ世界。これから先を暗示する、静かな光の予兆。僕は頷いて、パレットに淡い黄色とオレンジを混ぜ合わせ、薄くのばす。しおりも指先で絵の具を馴染ませるようにのせていく。不思議な感覚だった。二人が同じキャンバスに触れ、同じ瞬間に色を置いていく。その度に、しおりが生きているかのように感じられ、同時に彼女がどこか遠くへ行ってしまいそうな危うさも覚える。

 「あなたが描きたいのは何?」

 逆に問われ、僕は筆を止める。

 「俺が描きたいもの、か。正直、まだ明確に言葉にはできない。でも……たぶん、人が生きて、悩んで、それでも進んでいくような、そんな瞬間を絵にしたいんだと思う。漠然としてるけど」

 「いいと思うわ。その“漠然”はきっと、まだ形を持たない可能性なのよ」

 しおりが笑う。その笑顔は、どこか救われるような、許しを得たような気持ちにさせる。僕はそのまま、空の端に淡い紺色を塗り重ねる。夜明け前の空気感を滲ませたかった。そこに彼女がまろやかなグラデーションを足し、光と闇がまじり合う境界がキャンバス上に生まれていく。


 日々、僕たちは少しずつ絵を進めた。静かな夏休みの終わり、美術室で二人だけの世界が広がっていく。

 時折、しおりは苦しそうな表情を見せることがあった。筆を持つ手がふっと透けたように見えたこともある。僕はその度に胸が締めつけられる思いだった。

 「大丈夫?」

 「平気。もう少し。未完だった未来を、ちゃんと描き終えるまで、私はここにいるから」

 しおりは笑ってみせるが、その声は少しだけ震えているように思えた。おそらく、彼女には時間がない。死者が再びこの世界に戻れる時間は限られているのかもしれない。だからこそ、しおりは急いでいる。僕は彼女の想いを受け止めるため、必死に筆を進めた。自分が描けるものは何でもぶつけよう。こんなにも誰かと一緒に描くことが楽しく、切ないなんて思わなかった。


 完成が近づく頃、キャンバスには不思議な情景が浮かび上がっていた。夜明けの空と、差し込む光。そこには明確な人物の姿は描かれていない。けれど、光の中にふわりと舞う花弁や、空気中で揺れる粒子が、まるで人影が笑い合っているかのような錯覚を起こさせる。抽象的な絵だが、見ていると温かい気持ちが込み上げてくる。僕たちが共に過ごした、あの静かな時間が、絵の中に溶け込んでいるようだった。

 「もう少し……もう少しよ」

 しおりが筆を動かし、最後のハイライトを加える。小さな光の粒が、キャンバス上に一筋、二筋と漂い始めた。僕はその隣に、淡い色合いの空気感を補う。

 その時、しおりの手がふと震え、半透明に揺らめくのが見えた。

 「しおり!」

 慌てて呼びかけると、彼女は申し訳なさそうに笑った。

 「ごめんね、時間みたい……」

 「まだ、完成してない」

 僕は必死に絵の具を溶き、最後の仕上げをしようとする。けれど、しおりは首を振った。

 「大丈夫。あなたがいるなら、この絵は完成するわ。最後のひとかけらはあなたに託す。私が見たかった未来は、もう、あなたがここにいることで姿を持ち始めてる」

 その言葉は、僕を強く支えた。迷いが晴れる。僕はしっかりと筆を握りしめ、空中に浮かぶ輝きの中へと、一筆を加える。それは、しおりが描こうとしていた「光」と、僕が漠然と求めていた「人々の進む力」を繋ぐ一瞬。かすかな輪郭が、二人の姿を抽象的に示すように浮かび上がる。

 この夏、出会わなければ見えなかった景色だ。悩み、迷い、しかし一歩ずつ進もうとする心。それがこの一枚に確かに凝縮されている。

 「ありがとう、しおり……」

 振り返ると、しおりは透き通ってきている。彼女は笑顔のまま、静かに頷いた。

 「私こそ……ありがとう。あなたと描けて、嬉しかった。きっとこれで、私も前に進めるわ」

 窓の外から淡い夕日が射し込む。部室の埃が金色に舞い、絵具の匂いが鼻をくすぐる。キャンバスは完成した。そこには二人の思いが重なり、絡み合い、未来へと伸びる光が確かに存在していた。

 「しおり、もう行っちゃうの?」

 僕は声を詰まらせながら問う。すると、しおりは上級生らしい優しい眼差しを向けた。

 「うん。約束の時間だから。もうこの世には長くいられない。でも、あなたはこれからも描いていける。迷っても、また筆を取ればいい。私にできなかったことを、あなたが続けてくれるなら、それでいいの」

 その瞬間、胸が熱くなった。しおりは僕の絵の師匠ではない。ただの幽霊でもない。彼女はもう一度、生きることを願った画家の卵であり、僕と同じような不安を抱えた少年だった頃の自分を救う、導きの灯火だった。

 「また、どこかで会える?」

 涙が滲み、声が震える。しおりは微笑んで首を振った。

 「さあ。私はもう行くけれど……この絵が、私たちの再会の証みたいなものよ。あなたがこの絵を見る度に、私たちは心の中で出会えるわ」

 そう言い残して、しおりは夕日を背にして溶けるように姿を消した。優しい風が吹き抜け、美術室はいつもの静寂を取り戻す。

 残されたのは、僕と、完成した一枚のキャンバス。


 新学期が始まった。廊下には夏休み明けのにぎわいが戻り、クラスメイトたちが宿題の話や部活の話で盛り上がっている。僕は相変わらず美術室へ足を運んだ。

 あの夏、一人きりだった美術室。そこには今も、しおりと二人で描いた絵が残っている。顧問が「これ、誰が描いたの?」と不思議がったが、僕は曖昧に笑うだけだった。あれは僕だけでなく、もう一人の画家が加わっていると説明しても、きっと理解されないだろう。

 僕はイーゼルを立て、新たなキャンバスを前にする。また迷いが訪れるかもしれない。上手く描けずに、自己嫌悪に陥る日も来るだろう。それでも、僕はもう筆を握ることを躊躇しない。

 「描きたいものがまだ見つからなくてもいい。描きながら探せばいいんだ」

 しおりと過ごした時間が、僕にそう教えてくれた。未来は完璧に計算できるものではなく、不確実だからこそ、その一瞬一瞬に色を重ねる意味がある。絵も同じだ。色を重ね、時に塗り直し、失敗しながら自分なりの風景をつくり上げていく。

 窓から差し込む光の具合が変わると、夏野しおりとの日々が頭をよぎる。短いひと夏の奇跡だったかもしれない。けれど、その奇跡は筆を持つ僕の手に、確かな重みを与えている。

 キャンバスに向けて、筆を下ろす。最初の一色は、あの絵で使った淡い光の色と似たオレンジ。少しだけ、朝焼けのようなやわらかいトーンを重ねてみる。次は何色にしようか。迷いながらも、僕はもう筆を止めない。

 ふと視界の端に、かつて一緒に描いたキャンバスが映る。そこには、二人の想いが紛れもなく詰まっている。抽象的だけれど、そこに生きている何かを僕は感じる。

 ありがとう、しおり。あなたが残してくれた色と想いは、僕のこれからを支えてくれる。

 「さあ、これからは僕の色で未来を描こう」

 心の中でそう告げると、気持ちが少しだけ前向きになる。筆先からこぼれる絵の具が、新たな地平を拓く。あの夏の出会いは、僕に再び歩き出す勇気をくれたのだ。


 こうして、僕は再び絵を描く。自分の色で、ゆっくりと。

 しおりの姿はもうどこにもない。けれど、この部室には、二人で創り上げた「あの一枚」が朝日を浴びている。そこに息づく光は、未来へと続く小さな道標のようだった。


 この先、僕がどう進むかは分からない。進路に迷い、時に失望することもあるかもしれない。でも、もう一度やり直せばいい。新しい色を重ねればいい。しおりが見せてくれたように、選べなかった未来は、いくらでも塗り直せるのだから。

 窓から小さな風が入り、紙片を揺らした。音もなく流れる時間の中で、筆を動かし続ける音だけが、美術室に静かに響いていた。

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白いキャンバスに、君と一緒に描いて 松本 響介 @k-matumoto

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