白いキャンバスに、君と一緒に描いて

松本 響介

前編

 夏休みの美術室は、静寂に満ちていた。窓から射し込む午後の日差しは、白い壁を淡く染め、散らばったイーゼルや画材たちに長い影を落としている。エアコンの効きは悪く、微かに汗がにじむ肌に、扇風機の羽音がかすかな風を運んできた。

 僕は篠原大地(しのはら だいち)、高校二年生、美術部所属。今日も一人、このがらんとした部屋で筆を握っている。部活は休み、顧問も来ない。夏休みの半ば、校内は部活生か受験生ぐらいしかいないし、その中でも美術室なんかに顔を出す者はまれだ。

 キャンバスには、曖昧な下絵が残されたままだ。空白が多く、何を描きたいか定まらない証拠のように。最近、自分の絵がどこへ向かっているのか分からなくなっていた。幼い頃から絵を描くのは好きだったし、中学の頃はコンクールでちょっとした賞ももらったことがある。でも、高校に入り、周りには技術もセンスもある生徒が溢れ、自分の描くものが急速に色褪せていくような気がしていた。

 「俺、将来何を描けばいいんだろう」

 独り言が、埃っぽい空気を震わせる。筆先は止まり、ただ白い地肌の上で行き場を失ったまま。外ではセミが鳴き、夏の熱気がじわりと胸元に押し寄せる。

 そんな時だった。静寂を裏切るように、ドアの開く音がした。ぎぃ、と少し重い音をたてて、美術室の扉がわずかに揺れる。僕は振り向く。誰だろう? 夏休み中、他にこの部屋に来る人なんていないはずなのに。

 そこに立っていたのは、一人の少女だった。

 僕と同じ学校の制服、白いブラウスにチェックのスカート。それでもどこか古風な雰囲気を纏っている。長い髪は肩のあたりで緩く束ねられ、前髪が瞳にかかる。大きな瞳は深い湖面のように揺らめいていた。

 「ここ、絵を描いてもいい?」

 唐突な問いかけに、僕はうまく声が出なかった。彼女は勝手知ったる風で部屋へ足を踏み入れると、端の方に転がっていたイーゼルとキャンバスを静かに取り出して、僕の少し離れた場所に腰をおろした。

 「え、あの、誰?」

 やっと声を振り絞ると、彼女はちらりとこちらを見て、小さく微笑んだ。

 「私? 夏野しおり」

 夏野……しおり? 聞いたことがない名前だ。同学年か、下級生か。それとも上級生? しかし、僕が知る限り、この学校に彼女のような目立つ少女はいなかったと思う。美術室に自由に出入りできるのは、美術部員か、顧問に特別許可を得ている者だけのはず。

 「美術部の人?」

 「さあ、どうだったかな」

 曖昧な答えに、僕は眉をひそめた。彼女は僕の戸惑いをよそに、持参したわけでもない画材を、部室隅の棚から手際よく取り出し、真っ新なキャンバスに向かう。まるでここにずっといたかのような動作だ。

 僕は奇妙な感覚に囚われた。隣で彼女が描き始めたその筆さばきは、迷いがなかった。最初は透明水彩の淡い色を、軽く水で溶いて下地をのせる。水彩なのか油彩なのか、そこら中にある絵の具を気ままに掻き合わせ、豊かな色味を生み出していく。僕にはその色彩感覚が眩しかった。

 彼女は何者なのだろう。自然光の中、しおりは黙々と筆を動かしている。僕は彼女を観察しながら、手元の筆をただ持て余していた。

 しばらくして、彼女が口を開く。

 「ねえ、なんで絵を描いてるの?」

 「え?」

 「あなたが、ここでこうして筆を握る理由は何?」

 問われて、言葉に詰まる。僕はうまく答えられなかった。昔は純粋に好きだった。何かを表現する、想像する、その時間が楽しかった。けれど今は――進路や将来への不安、自分の才能への疑念が、筆先を重たくする。

 「……さあ。もう、よく分からないんだ」

 正直に答えると、彼女は「そっか」と呟き、また絵に没頭する。僕には何が「そっか」なのか分からない。ただ、その一言には、妙な重みがあった。まるで共感か、あるいは諦めのような響きさえ感じる。

 その日は、彼女はそれ以上多くを語らなかった。淡々と絵具をのせ、夕暮れが近づくころ、ふらりと立ち上がって姿を消した。僕は名前以外、何も知らないまま、美術室には一人きり。またセミの声だけが耳に残る。


 翌日、僕は少し早めに美術室へ行ってみた。昨日の少女が来るかもしれない、そんな期待混じりの好奇心が胸をくすぐる。

 ドアを開けると、彼女はもういた。昨日と同じようにイーゼルの前に座り、筆を動かしている。キャンバスには柔らかい色彩の背景が広がり、その上に花や光の粒のような抽象的モチーフが揺らめいている。

 「おはよう」

 こちらから声をかけると、しおりは微笑む。

 「おはよう」

 「今日も描きに来たんだね」

 「うん。ほら、夏休みって、静かでいいじゃない?」

 確かに、静けさはある。けれど、彼女が部外者ならなぜここに入れるのか。気になってはいたが、問い詰めるような気分にはなれなかった。むしろ、その謎めいた存在に、僕は少し安堵していた。妙なことだが、しおりがいると、この部屋が生き生きするように感じるのだ。

 「そういえば、君は何を描いているの?」

 僕が尋ねると、しおりはふと手を止めて、窓の外を見た。

 「未来、かな」

 「未来……?」

 「うん。私が、描き残した未来があるんだ。それをもう一度、塗り直したくて」

 意味が分からない。描き残した未来? その言葉はまるで、何か失われたものを取り戻そうとしているようだった。

 僕はそれ以上突っ込めなかった。彼女の表情が、なんとも言えない哀しさを帯びていたからだ。どうやら、しおりにはしおりの理由があるらしい。

 それから数日、僕は毎日のように美術室へ足を運び、彼女と並んで絵を描いた。しおりは自由自在に色を重ね、楽しそうな笑みを浮かべる時もあれば、じっと沈黙する時もあった。彼女は僕に対して特別な指導をするわけでもなく、ただ並んで筆を運ぶだけだったが、不思議と居心地が良かった。

 その間、僕は自分のキャンバスに向き合い続けた。何を描けばいいのか分からないままでも、彼女の存在が、僕の停滞した気持ちを少しずつ溶かしていくような気がした。焦らず、ゆっくりでいい。そんな風に思わせる空気が、しおりにはあった。

 だが、気になることも増えていく。

 しおりは本当にこの学校の生徒なのか。制服は正しく着ているが、部活生とも思えない。名簿を思い返しても、夏野しおりという名は記憶にない。クラスメイトに聞こうにも、夏休み中で誰とも顔を合わせていないし、そもそも「夏野しおり」という名前が知られていれば、きっと一度は耳にしているはずだ。

 そんな疑問を抱えつつも、彼女は毎日現れた。誰もいない美術室に、ふらりと。まるで風がそこに吹き込むように。

 ある日のこと、彼女が何気なく言った。

 「もし、あなたに時間が無限にあって、才能もあったら、何を描く?」

 「無限の時間と才能……? それがあったら……」

 考えてみるが、答えはすぐには出ない。むしろ、その二つがないからこそ、僕は悩んでいるのに。完璧な条件が整えば僕は何を求めるだろうか。世界中の絶景? 愛しい人の笑顔? それとも、自分の内面に埋まっている何かを掘り起こしたいのか。

 「分からないな。そんなこと考えたこともなかった」

 「そっか」と、またしおりは微笑んだ。

 「でも、少しずつ考えてみてよ。描きたいものが見つかるまでの時間って、案外悪くないよ」

 彼女の言葉は不思議と肯定的だった。無理に答えを急かさない。まるで、僕が迷える旅人だと知った上で、遠くから見守っているような。

 そうした日々が過ぎていく中で、僕はある行動に出ることにした。彼女の正体を知りたい、そんな気持ちが抑えられなくなったのだ。彼女が席を外した隙、僕は美術準備室の奥にある古い資料棚へ向かう。そこには過去の部員名簿や、卒業アルバムが保管されていた。

 「夏野、しおり……」

 美術部の歴史は長い。過去のアルバムや展覧会の写真をめくっていく中、僕の心は妙な予感に揺れていた。もし、彼女が昔この学校に在籍していたのなら、何かしら手がかりがあるはずだ。

 6年前のアルバムを開いてみる。そこには、美術部の集合写真があった。生徒たちがイーゼルを囲んで笑顔を浮かべている。その中の一人、遠慮がちに中央に立つ少女が、僕の目に飛び込んできた。

 「――っ」

 驚きに息を飲む。そこに写る少女は、紛れもなく彼女だった。夏野しおり。写真の下には名前がはっきりと記されている。しかし、そのアルバムは6年前のもの。僕が入学するより前、美術部にいた先輩たちの世代の記録だ。

 手が震える。彼女は当時、顧問が期待を寄せていたほどの才能があったという注釈付きで紹介されていた。だが、そのページをめくっていくと、次の学期には彼女の姿はなくなっていた。

 別の資料を探る。古い新聞部の発行物、美術展出品者一覧。そこには、しおりが出品した作品名があった。しかし、次の年には彼女の記録が見当たらない。

 さらに調べるうち、僕は校内で保管されていた過去の顧問日誌らしきものを見つける。そこには「夏野しおり、病気療養のため休学」「その後、回復かなわず逝去」という記述が淡々と残っていた。

 頭が真っ白になる。死んだ? いや、でも今ここにいる少女は誰だ? 昨日も、今日も、彼女は僕の隣で確かに筆を握っていた。

 鼓動が早まる。冷や汗が背中をつたう。幽霊? 馬鹿な。けれど、そうとしか思えない。亡くなったはずの少女が、今、僕の隣で未来を描いている。

 僕はゆっくりと閉じられかけた扉を押し戻し、資料室を出た。美術室へ戻る足は重く、頭は混乱していた。彼女が何者なのか。なぜ、この夏休み、僕の前に姿を現したのか。その答えは、彼女に直接聞くしかない。

 震える手を握りしめ、僕は美術室へと戻った。扉を開けると、しおりは相変わらずそこにいた。透き通るような横顔、淡々と色を重ね続ける姿。

 僕は喉の奥がからからに乾くのを感じながら、彼女に声をかける。

 「しおり……君は、いつの人なんだ?」

 彼女が、ゆっくりとこちらを向いた。その瞳は、どこか悟ったような、静かな光を帯びていた。

 「調べたんだね。昔の記録、見ちゃったんだ」

 小さく笑うしおり。確信を孕んだその言葉に、僕は息を呑む。

 「な、なんで……」

 言葉にならない問いを、彼女は受け止めるように首を傾げる。

 「あなたが、絵を描くことを諦めそうになっていたから。どうしても気になったの。私も、生きていた頃は同じような気持ちで筆を握っていたから」

 生きていた頃。それはつまり、もうこの世にいないことを肯定する言葉。僕の心臓は痛いほど脈打つ。

 「死んだはずなのに、なぜ……」

 「さあね。でも、私は描き残したものがあるの」

 しおりはそう言って、キャンバスを見つめた。彼女の瞳には確かに悔いの色がある。それは、未完成のまま時を止めた画家が、もう一度だけ描き直したいと願う気持ちなのかもしれない。

 その瞬間、僕は彼女がこの夏、何のためにここに現れたのか、その理由を少しだけ理解した気がした。

 しおりは僕の迷いを見透かすように、静かに微笑んだ。「ねえ、一緒に描かない? 私の未完の未来を、あなたと一緒に」

 僕の胸の中で、何かが震えている。死者と生者が交わる、不思議な夏の美術室。窓の外では、相変わらず蝉の声が遠くで泣いていた。

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