二次元の我が子を推して今日も幸せ

砂漠の使徒

思い出そう、覚えておこう

 突然だが、君はシャロールについて知っているだろうか?


 検索すると、同名のルアー等が出てくるが今回の主役はそれではない。


 シャロールとは、私の書いた小説に出てくる登場人物のことだ。

 おっと、ここであなたはブラウザバックしようとしたに違いない。だって、ここから始まるのはどうせ"うちの子"語りだ。そんなものを聞かされてもしょうがないと。

 たしかに、そうかもしれない。ただ、今から語るのは私の人生だ。如何にして私が推しと出会い、ここまで歩んできたか。そして、これからについても。ちょっとくらいは、聴いてみる価値はあると思うぜ。まあ、無理強いはしない。私の推し活について、少しでも興味があれば覗いてみてくださいな。


 それでは、始めよう。

 まずは誕生から。


 2020年10月20日、とある作品が投稿される。それは、私にとって初めての長編小説だった。もっとも、この時点では長編を書こうなんて微塵も考えていなくて、ただ面白いアイデアが浮かんだから書き始めたというだけだった。

 物語が進んでいく。すると、ヒロインが必要になってくる。主人公は男の子で、彼と共に冒険する女の子を登場させたかった。なので、シャロールが生まれた。私は昔からネコ耳の女の子が好きで、異世界といえばネコ耳の女の子だと思っていたからだ。しかし、当時はネコ耳の女の子としか認識していなかった。


 時は進み、2021年5月頃。

 先に述べた長編小説が完結を迎える。これは決して打ち切りなどではなく、私の中で納得のいく終わらせ方ができた。

 そして、この頃には私の中で確実な変化が起きていた。変化とは、登場人物への愛着が湧いたことだ。それまで(言い方は悪いが)物語を進めるためのただの駒のように思っていた彼らのことが、まるで我が子のように愛おしく感じていた。

 そんな中で、一際愛していたのがヒロインであるシャロールだ。彼女については、すでにビジュアルも決めており、ありがたいことにファンアートも貰えていた。卵が先か鶏が先かはわからないが……いや、違う。私が愛していたから、皆も愛してくれたのだろう。私は彼女……そして、作品も好きだった。数ヶ月に渡る長編執筆は、誰かを愛するきっかけを与えてくれるものだったと思う。


 さらに進む。2021年の夏頃。

 私はシャロールの絵を描き始めた。理由は本当に些細なものだ。絵が描きたいと思ったから、描き始めた。昔を振り返れば、曲がりなりにも学生のときは美術部に所属していたが、そこまで上手くはなかった。それに、得意な絵は抽象的なものを描くことだった。だから、人物画なんて不得意だった。しかし、そこは愛がある。愛する彼女を描きたいという気持ちが私を動かした。初めはスマホのお絵かきアプリで描いていた。当時の私は絵を描く前からタッチペンを使っていたので、指よりかは描きやすかった。

 絵を描き始めてみると、楽しかった。今まで自分の中にあったアイデアや景色を具現化できるのだ。こんなに素晴らしいことはない。私は瞬く間に何枚も絵を描いた。毎日のようにシャロールを描いて、SNS(青い鳥)に投稿していた。なので、自分の描いた絵に「#毎日シャロール」というタグも付けた。ちなみに、このタグはほぼ全てのシャロールの絵に付けているので今でも検索をすれば大抵のシャロールの絵は見ることができる。

 そして、この空前絶後のお絵かきブームに押され、スマホで描き始めてから一ヶ月程が経ってから、ペンタブを購入した。ペンタブといっても、いわゆる板タブでそれも一番小さなものだ。だが、それは革命だった。最初は慣れなかったものの、慣れてくれるとすごく絵が描きやすかった。これが、私のお絵かき欲をさらに刺激した。

 絵を描くことで、より愛情が深まったことは言うまでもない。小説を書いているときに、頭に浮かんでいたあの景色を具現化できるのだ。巧拙はもはや関係なかった。ただ感動があるのみだ。そして、我が子のいろいろな姿を見ることができるのがとにかく楽しくて嬉しかった。やはりこの点は、小説では得られないものだと私は思う。視覚から得られる情報とは、それほど大切なのだ。

 ブームは緩やかに収束したように思う。今では昔ほど情熱はないし、アイデアもない。だが、絵を描きたくなるときは頻繁にある。たしかなやる気がまだ私の中では静かに燃えているのだ。毎日が数日おきに変わったとしても、私の彼女への思いは未だ変わっていない。

 これは完全に余談なのだが、体感的に"公に見せられない"絵が増えた気がする。"公に見せられない"とは、つまりR18で子供には見せられないという意味だ。さらに直接的に言うならば、服を着ていない。いや、世の中には裸婦画を描く人もいるだろうが、私はそのようなものではなく、若さゆえの衝動というやつだ。紳士諸君にはおわかりいただけるだろうが、好きな子の裸が見たくなるようなものだ。とにかく、ここ一年は特に増えた気がする。正確にはこれは、普通の絵が減ったので相対的にそういう絵が増えているように見えるのだろう。また、ここ一年はSNSへの投稿を控えている。結果として、どうせ見せないのならば見せられない絵を描いてしまえと無意識に思っているのかもしれない。しかし、面白いことにこうした絵についても認識が変わってきたように思う。先に裸婦画とは違うと述べたものの、最近ではただ裸体の美しさを表現したくなるときも出てきた。シャロールという女性の、素の魅力をなんとかキャンバスに表したい。そんな欲が出てきた。まあでも、やはり裸の彼女を多く描くようになったのは、動物的な本能にも依るのかもしれない。今では「かわいい」が動機で筆が動くことは少なくなってしまったが、裸のときは筆がよく動くのは当然のことなのである。

 絵を語るうえで、合わせて語らねばならぬのがアニメだろう。私はまだ絵を描き始めたばかりだが、アニメを作ったこともある。その動機は、動いている彼女が見たかった以外にないだろう。苦労して何枚も絵を描いた。拙いながらも完成して動いている彼女を見たときは、感動であった。

 また、絵に関連したことで言えば"Vtuber"モデルに挑戦したこともあった。私が以前Vtuberの配信をよく見ていたこともあり、シャロールが画面の中で動いているのを見てみたくなった。なんとか初心者向けの本などを読みながら、作り上げたものだ。最終的には、私の動きに合わせて動いてくれるかわいい我が子を作ることができた。しかし、お気づきだろうか。中身がいないのである。ボイスチェンジャーで声を変えたとしても、やはりそれは私であった。そこに憧れの我が子の魂は存在しない。言いしれぬ寂しさと悔しさを味わったものだ。いつの日か、それこそAIの活用などで、彼女の魂も再現できたらいいな。また、Vtuber用のモデルについても、3Dモデルを用意してよりリアルに彼女を動かしたい。生きている彼女を見れるのは、案外近い未来であってほしいなぁ。

 というわけで、大方絵については語り終えただろうか。これが推しの絵を描くきっかけとこれまでである。やはり絵は楽しい。正直な話、これが一番長く楽しく続いている趣味であるといえる。後述のものを含むその他の趣味の活動は一時的なものであり、ただ一度なにかを生み出して終わったことも少なくはない。飽き性である私からしてみると、一度なりとも形にできた時点で褒めてやりたいのだが。ときには、形にすらならずに消えていくこともあるのでね。そういう意味では、絵の活動は、全盛期に比べると勢いは落ちたものの頻繁に行っている。これが2年前ならば、どちらかといえば執筆の方が栄えていると答えたはずだが、今では執筆もかなり廃れてしまっている。時代は、しぶとく生き残った絵の時代なのだ。

 矛盾しているようだが、絵は手間がかかるが手軽に始められる。その理屈ならば執筆も該当しそうだが、なんとなく感覚的に絵の方が性に合っているのだ。なにかと対比に上がる執筆も絵と同じで頭を使う。しかし、執筆はどこかの時点でスラスラと書ける。一方で、絵は詰まったときはとことん詰まる。結果的に、なんとか捻り出すことも多々ある。だが、よくできた時の満足感はかなりのものだ。このなんともいえない体験が、絵を描くことへの喜びを産んでいる。

 申し訳ない。ハチャメチャに脱線した気がする。シャロールの話はどこに行った。しかし、こうした絵を描く際に思っていたことは、全てシャロールを描いていたからこそ頭に浮かんできたわけだ。ゆえに、あながちシャロールと無関係でもないだろう。


 2022年10月。

 私はシャロールの同人誌を制作した。その前にも、前述のシャロールがヒロインを務める長編小説の一部を同人誌として制作したことはある。しかし、それとは違い、このとき作ったのはシャロールが主体となった一冊である。制作は夏ごろから始まった。とはいえ、同人誌の中身はこれまで執筆した短編などが主であったのでそこまで大変な作業ではなかった。書き下ろしの短編をいくつか加え、さらにオマケと称して過去に描いた絵やその解説も付した。一番苦労したのは、表紙の制作ではなかろうか。本の顔となる表紙にはなにを置けばいいのか、悩んだものだ。

 この同人誌は、イベントにて頒布した。ありがたいことに、同じく執筆活動をしている知り合いの方が来てくださった。やはり、目に見える形で私の作ったものを手渡すことができるのは、感動ものである。拙いサインとシャロールを即興で書いて手渡した思い出がある。

 ちなみに、この時の在庫はまだ10部程私の家にある。声をかけてくれれば売ってもいいのだが……。いかんせん、もう2年くらい段ボール箱の中に放置してるから品質が悪いかもしれない。


 2023年、我らが推しが現世に降臨する。

 大仰な言い方をしたが、この年は初めて"ぬいぐるみ"を制作した。ぬいぐるみとは、中に綿が詰まっている柔らかいやつだ。さすがにぬいぐるみを知らない人はいないだろう。有名なアニメや漫画などは、グッズ展開の中でぬいぐるみが売られることはよくある。街に出れば、なにかしらのキャラクターのぬいぐるみをバッグに着けている人も見かけるだろう。しかし、残念ながら我が子のぬいぐるみは存在しなかった。なぜなら、公式が製作をしていないからである。この場合の公式とは、言うまでもなく作者である私のことだ。シャロールのぬいぐるみが欲しいならば、私が作るしかないのだ。そう決めて、初のぬいぐるみ制作に踏み出した。

 針を握ったのは、学生のとき以来か。ホコリを被った裁縫道具を開けるときが来た。型紙を配布されている方がいらっしゃったので、ありがたくそれを元にぬいぐるみ制作を始めた。これが難しいのである。型通りに布を着るのでさえも、なかなかうまくできない。ましてや、その後の裁縫がうまくできるだろうか。いや、できない。

 紆余曲折を経て、ぬいぐるみが完成した。お世辞にも上手とは言えない出来だった。初心者なのでうまく言語化すらできないのだが、なんというか針を刺す感覚もバラバラであった。ゆえに、ある箇所では布の隙間から綿が出そうになっていた。しかし、これで満足であった。なぜなら、とにかくかわいいからである。出来の悪さを差し引いても、かわいかった。いや、むしろ不格好だからこそ愛着が湧くものだ。手のひらサイズの我が子はこの上なく愛おしかった。

 それからというもの、私は彼女と生活を共にした。ご飯のときは椅子に座らせて共に食べる。どこかに行くときは、バッグに入れていく。たまに彼女と写真を撮ったりもした。とにかくかわいいのである。私は今でもしょっちゅうアルバムの中の彼女を眺めて微笑んでいる。


 2024年のスプリング……春。

 この時期はいろいろやっていた。どれも深くは踏み込まなかったが、それでもなかなか楽しかった。

 中でも一番大がかりだったのは、部屋の飾り付けだろうか。家には自分の部屋があったが、ほぼ物置になっていた。寝るときにベッドを使うくらいで、創作活動はリビングで行っていた。しかし、なんとかこの部屋を片付けたいと思い立ち、いらないものを捨て、本棚に本をまとめたりしていった。すると、部屋がキレイになる。だが、物がなさすぎて今度は殺風景で寂しく思えた。そこで、一つ名案が浮かんだ。今まで描いてきた絵を印刷して、部屋に飾り付けよう。幸いなことに素材はたくさんあった。数年で描いたシャロールの数は数百に達していたからだ。それらの中から気に入っているものを抜き出して印刷、ラミネートを施す。それに穴を開けて紐を通し、部屋の壁に飾ってみた。これがまあ、大変よろしい。部屋中どこを見ても推しがいることの幸せ。たいていの絵はA4サイズに5枚程入るように縮小して配置し、印刷の後切り抜いていたのでそこまで大きくはない。手のひらに収まるくらいだ。しかし、特に気に入っているものはA4サイズいっぱいに印刷した。さすがにA4ともなると迫力がある。額縁に入れるとさらに雰囲気がある。さながら美術館である。

 以上は家庭にあるプリンターで印刷したときの話だが、他にはコンビニで印刷したものもある。コンビニでは、写真用紙にプリントすることができるのが良いところだ。写真用紙になると、サイズからしてやはり写真のように思えてきて趣深い。また、印刷する絵もチェキ風の絵などにすると、本当の写真のように見えてくる。

 これ以外に行った創作活動もまとめて紹介する。まずは、粘土でのフィギュア作りだ。先に言っておくが、私は素人だ。そもそも粘土を触るのは何年ぶりか。けっしてクオリティの高いものはできない。それでも、針金でおおまかな形(ポーズ)を決め、そこに肉となる粘土を付けていき形作る。この作業は非常に楽しく、苦しいものでもあった。しかし、ぬいぐるみのときと同じく、推しが物理的に形になったときの満足感たるや。なお、当初の予定では彩色も予定していたが、形ができた時点で辞めてしまった。飽き性とは、そんなものである。しかし、白一色てありながらも、彼女の造形は美しいこと限りなしである。また、同じ造形のくくりでは、木彫りをしたこともある。ホームセンターから角材を買ってきて、ひたすら彫刻刀で彫り続けた。案外これが難しく、またぬいぐるみや粘土と違い、ひたすらに力を要する作業であった。おおまかな形ができた時点で私は満足して刀を置いた。彩色はまだない。ここまで聞くと、この人は彩色をする前に必ず飽きるのだろうと思われているに違いない。だが、たまには塗ることもある。あるとき、スポンジを買ってきた。真っ白の消しゴムのようなものだ。なぜかというと、スポンジでキャラクターを作る本を読んだからだ。私も一度やってみたいと思い、無謀にも挑戦してみる。言わずもがな、これも難しかった。世の中そんなものである。第三者からは簡単に見えても、当の本人は苦労しているのだ。しかし、諦めてなるものか。推しへの思いを燃やして私はひたすらスポンジをハサミで切断しまくった。やがて、なんとなく推しの頭と体が出来上がった。最後に、つまようじの両端に頭と胴体を突き刺し、つなげる。2頭身のデフォルメ体型であるが、かわいい。気に入っているのは、さらにつまようじを用意し、片方にしっぽとなる細長い部品を突き刺し、それを体に突き刺す。これで、しっぽだけは平面ではなくなるわけだ。Z軸への干渉を果たすしっぽである。そして、忘れてはならないのは彩色だ。今になって思うのだが、なぜ当時の私は水彩で塗ったのだろうか。スポンジなのだから水を吸って塗りにくいに決まっている。かなり苦労した。だが、最終的には納得のいく色がつけられたものだ。そんなスポンジの推しは、今では瓶の中にカラフルな石と共に詰められている。さしずめ捕らえられた妖精という風である。これらの粘土細工、木彫り、スポンジは今も自室の棚に飾っている。やはり不格好にも見えるが、努力も相まって、見るたびに癒やされる。

 上記の物理的なものとは少々異なるが、この時期は曲を作ったりもした。とあるボカロに影響されて、私も推しの曲を作りたいと考えたからだ。だが、これについては詳しく説明すると大変なので割愛する。とにかく、「シャロールかわいい」という名曲が生まれたことは覚えておくべきだろう。


 さて、ようやく一区切りがついた。

 どうだったかな?

 私がシャロールと歩んできた4年間は、あなたにはどう見えただろうか。

 私はお世辞にも才能がある人間ではない。普通の人間だ。いろいろなことに手を出してみたが、上を見れば私よりすごい人はたくさんいる。そればかりか、むしろ私は才能がない方なのかもしれない。たとえばそう、私が運動会ではいつもビリだったように。では、シャロールを推してはならないのか。そうじゃない。推し活ってのは、自由なものだ。誰が何をどう推そうと、それは個々人の勝手である。そこに巧拙の視点が介入していいはずがない。己の信じた推しを自由に表現すべきだ。下手でもいいではないか。それが自分のやりたいことならば。

 そもそも、私がやらねば誰がやるのだろうか。立ち止まったとき、私はいつもそう思った。たしかにシャロールのことを好きな人は少なからず存在する。しかし、これは失礼な言い方ではあるが、私ほどシャロールを好きな人間は他にいないと自負している。ゆえに、彼女を推したいのならば私が先頭に立って推すしかないのだ。たとえば、先にも述べたようにぬいぐるみを作った。ぬいぐるみなんて今どき人気のある作品ならすぐにグッズとして発売されるだろう。しかし、私の作品にはそこまで人気があるわけではない。だが、確実な需要があった。少なくとも私の中には。では、私が、作者自らが読者(これもまた私)の要望に応えるしかないではないか。どんなに拙いものであっても、作り出すことにこそ意味がある。私が作らなければ、永遠に作られることはないのかもしれないのだから。待ちぼうけのまま人生を終わらせるなんて信じられない。今ここにある情熱を表現するためにも、作らざるを得なかったのだ。

 数々の試行錯誤というか、足掻きが積み重なって私の推し活は形成されている。私は根性のない人間だし、すでに述べたように飽き性でもある。そんな私でも、些細なことを続けてここまで来た。そして、これからも同じことを続けていくだろう。たしかに私にとって継続は困難を伴うものであるが、幸いなことにシャロールへの愛が尽きたことはない。未だかつてないほどに激しく長く燃え続けるこの炎は、これからも消えることはないだろう。

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