【身分差恋愛短編小説】薔薇の檻から、愛を ~ドブ裏の蝶と華族の薔薇~(約4,400字)

藍埜佑(あいのたすく)

【身分差恋愛短編小説】薔薇の檻から、愛を ~ドブ裏の蝶と華族の薔薇~(約4,400字)

●第1章 蝶の夢


 明治から大正、そして昭和へと移りゆく東京の片隅に、誰からも忘れ去られたような一画があった。雨の日も風の日も、灰色の空の下で呼吸を続ける迷宮。人々はそこを《ドブ裏》と呼んだ。


 路地は蛇のように曲がりくねり、古びた長屋は傾きながらも倒れることなく、幾重にも重なり合って立っていた。その迷路のような路地の一つに、荒木椿は暮らしていた。


「椿、起きな。もう日が昇ってるよ」


 朝もやの中、隣家の老婆が声をかけてきた。隙間風の通る板の間で、椿は薄い布団にくるまったまま、ゆっくりと目を開けた。


「はい、おばあちゃん。今起きます」


 十六の少女は、古びた鏡に向かって櫛を入れた。艶のある黒髪が、朝の光を受けて僅かに輝く。褪せた着物の襟元を正し、素足に古い下駄を履く。


 椿の両親は、彼女が五つの時に流行り病で亡くなった。以来、隣家の老婆が椿の面倒を見てくれていた。老婆は着物の繕いを生業としており、椿もその手伝いをしながら日々を過ごしていた。


 決して裕福な暮らしではなかったが、椿は不幸だとは思っていなかった。老婆は実の祖母のように優しく、路地の住人たちも皆、困ったときは互いに助け合った。時折、遠くの高台に建つ華やかな洋館を眺めながら、椿は考えることがあった。あの館に住む人々は、本当に幸せなのだろうかと。



 その洋館こそ、朝霧家の本邸だった。


 朝霧蓮太郎は、鏡に映る自分の姿を凝視していた。整えられた黒髪、高価な学生服、すべてが完璧に見える。けれども、少年の瞳の奥には、どこか虚ろな影が潜んでいた。


「ぼっちゃん、お時間です」


 執事の声に、蓮太郎は無言で頷いた。十七歳。華族の御曹司として、彼は生まれながらにして恵まれた環境にいた。しかし、その環境は同時に、見えない鎖となって彼を縛り付けていた。


 父は政界と実業界に強い影響力を持つ人物で、家にいることは稀だった。母は社交界の花形として、華やかな交際に明け暮れていた。館には多くの使用人がいたが、彼らは決して蓮太郎に心を開くことはなかった。


 蓮太郎の唯一の慰めは、館の温室に咲く薔薇だった。母が趣味で集めた様々な品種の薔薇が、ガラスの温室で静かに咲いている。彼はよく放課後、その温室で一人時を過ごした。


「本当の幸せとは……」


 蓮太郎は、薔薇の花びらに触れながら、独り言を呟いた。彼には分からなかった。この豪奢な館で、自分は何を求めているのか。何が足りないのか。


●第2章 薔薇の檻


 春の訪れを告げる風が、ドブ裏の路地を吹き抜けていった。


 椿は古い着物を抱えて、路地を歩いていた。老婆の具合が悪くなり、今日は椿が一人で修繕した着物を届けに行くことになった。


「あら、可愛い蝶々……」


 ふと目に入ったのは、一匹の蝶。まだ寒い季節なのに、艶やかな羽を広げて舞っている。椿は思わず足を止めた。蝶は風に乗って、路地の向こうへと消えていく。


「待って!」


 椿は蝶を追いかけた。路地を曲がり、更に曲がる。いつの間にか見知らぬ場所に出ていた。そこで彼女は、初めて見る光景に息を呑んだ。


 高い塀の向こうに、巨大なガラスの建物が見えた。その中には、色とりどりの薔薇が咲き誇っていた。


「まるで、おとぎ話の中みたい……」


 椿は塀の隙間から、夢中でその景色を眺めていた。その時、ガラスの向こうに一人の少年の姿が見えた。



 蓮太郎は、いつものように温室で過ごしていた。新しく咲いた薔薇の世話をしながら、彼は考え事をしていた。来月には、父が決めた婚約者との顔合わせがある。家の跡取りとして、当然の義務なのだと。


「……誰かいる?」


 ふと視線を感じ、蓮太郎は塀の方を見た。塀の隙間に、一つの影。彼は思わず足を進めた。


「君は……」


 蓮太郎が声をかけた時、影は慌てて逃げ出した。しかし、その瞬間に見た少女の姿が、彼の心に焼き付いた。艶やかな黒髪、褪せた着物。そして、澄んだ瞳。


 その日から、蓮太郎は塀の近くを頻繁に見回るようになった。そして数日後、再び少女の姿を見つけた。


「待ってください」


 今度は椿も、逃げなかった。二人は塀越しに、ぎこちない会話を交わした。


「薔薇、とても綺麗ですね」


「ありがとう。母が集めた品種なんだ」


「でも、なんだか寂しそう」


「え?」


「だって、ガラスの中に閉じ込められているから」


 その言葉が、蓮太郎の胸を突いた。


●第3章 月下の邂逅


 それから、二人は時々塀越しに言葉を交わすようになった。身分も育ちも、まったく異なる二人。けれども、互いの心の中にある何かが、強く引き合っていた。


「蓮太郎様は、お幸せですか?」


 ある日、椿がそう尋ねた。蓮太郎は答えに窮した。確かに、物質的には何一つ不自由ない。けれども……。


「分からない。君は幸せかい?」


「はい。私は幸せです」


 椿は迷いなく答えた。その声に、清らかな確信が響いていた。


「どうして?」


「だって、大切な人たちと一緒だから。おばあちゃんも、路地の皆も、私のことを本当に思ってくれている。それが分かるんです」


 その言葉は、蓮太郎の心に深く沈んでいった。


 やがて梅雨の季節が訪れ、毎日のように雨が降った。ある雨の晩、蓮太郎は椿が来ないことを知りながら、温室に居続けた。


「椿……」


 窓に打ちつける雨音を聞きながら、蓮太郎は初めて気付いた。自分は椿に会いたいのだと。ただ会いたい。それだけの、純粋な思いが胸の中で膨らんでいく。


 その夜、蓮太郎は決心した。翌日、満月の夜に、温室で椿と会うことを。塀の隙間から手紙を渡し、椿もその約束に頷いた。


 月の光が銀色に輝くその夜、蓮太郎は裏門から椿を温室へと招き入れた。


「綺麗……」


 椿の目が輝いた。月光に照らされた薔薇たちが、幻想的な光景を作り出していた。


「椿」


 蓮太郎は、椿の手を取った。


「私も、本当の幸せが分かった気がする」


 二人の間に、言葉では言い表せない何かが流れていた。それは確かに、愛という名の感情だった。


 しかし、その時。


「誰かいるぞ!」


 警備の声が響き、二人は慌てて逃げ出した。蓮太郎は椿を裏門まで送り、別れを告げた。次に会える日を約束することもできないまま。


 その夜を境に、蓮太郎の生活は一変した。両親は椿のことを知り、激怒した。温室は固く閉ざされ、蓮太郎は実質的な軟禁状態となった。そして、婚約者との結婚を急ぐことが決まった。


 椿もまた、二度と朝霧邸には近づけなくなった。けれども、二人の心は確かに通じ合っていた。それは、誰にも奪えない真実だった。


●第4章 幻視する鏡


 雨の季節が過ぎ、蒸し暑い夏が訪れた。


 椿は相変わらず、老婆の手伝いをしながら日々を過ごしていた。けれども、彼女の心は常に、あの温室での夜を追想していた。


「椿や、具合でも悪いのかい?」


 老婆が心配そうに声をかける。椿は首を振った。


「大丈夫です。ただ、少し考え事を……」


 鏡に映る自分の顔が、どこか物憂げに見える。椿は温室で見た薔薇の香りを、今でも鮮明に覚えていた。そして、蓮太郎の温かな手の感触を。


 一方、朝霧邸では、蓮太郎の婚約話が着々と進められていた。相手は華族の令嬢、園川詩織。才媛として名高く、朝霧家の家格にもふさわしい人物だった。


 蓮太郎は、自室の鏡に向かって座っていた。


「これが、運命なのか……」


 その時、不思議なことが起きた。鏡の中に、ぼんやりと椿の姿が見えたのだ。まるで、彼女が目の前にいるかのように。


「椿!」


 思わず手を伸ばしたが、そこにあるのは冷たいガラスの表面だけ。幻だったのだろうか。いや、これは単なる幻ではない。二人の魂が、確かに呼応しているのだ。


 その日から、蓮太郎は毎日鏡を見つめるようになった。時々、確かに椿の姿が映り込む。彼女も同じように、自分を想っているに違いない。その確信が、蓮太郎の心を支えていた。


●第5章 時計仕掛けの迷宮


 八月の末、蓮太郎の婚約披露宴が催されることになった。朝霧邸では、その準備が急ピッチで進められていた。


 蓮太郎の部屋には、新しい柱時計が置かれた。カチカチと時を刻む音が、彼の心を追い詰めていく。このまま、時計の針のように決められた軌道を進んでいくのか。それとも……。


 一方、椿の暮らすドブ裏では、新しい噂が広がっていた。朝霧家の跡取り様が、近々婚約されるという話だ。


 椿はその噂を聞いても、動揺を見せなかった。ただ、夜な夜な鏡を見つめては、蓮太郎の面影を探していた。不思議なことに、時々確かに彼の姿が見えるのだ。


「私たちは、きっとまた……」


 椿はそう信じていた。二人の間には、目には見えない糸が結ばれている。それは、身分や環境を超えた、魂の結びつきだった。


 披露宴の前日。蓮太郎は、ついに決心した。両親や使用人の目を盗んで、椿の暮らすドブ裏へと向かった迷路のような路地を歩きながら、蓮太郎の心は高鳴っていた。


「椿……どこにいるんだ」


 雨上がりの路地には、どこか懐かしい匂いが漂っていた。古い長屋の軒先を通り過ぎるたび、誰かの話し声や、夕餉の支度の音が聞こえてくる。


 そして、ついに見つけた。老婆の家の前で、椿は縫い物をしていた。


「椿!」


 声をかけられ、椿は顔を上げた。そこに立っていたのは、間違いなく蓮太郎だった。しかし、彼の姿は随分と変わっていた。高価な衣服の代わりに質素な着物を身につけ、髪も乱れている。


「蓮太郎様……どうして」


「もう、様はいらない。僕は、ただの蓮太郎でいい」


 二人は見つめ合い、そして、笑みを交わした。


●第6章 永遠の刻印


 朝霧邸では大騒ぎになっていた。跡取りの蓮太郎が姿を消したのだ。捜索が始まり、警察にも届けが出された。


 しかし、蓮太郎は戻ってこなかった。


 彼は椿と共に、この街を去ることを決意したのだ。二人は夜汽車に乗り、誰も知らない土地を目指した。


「本当にいいの? あなたの将来を、私のために……」


「僕の将来は、椿と共にある。それ以外に、何もいらない」


 汽車の窓から、夜景が流れていく。遠ざかる東京の灯りが、まるで星屑のように瞬いていた。


 老婆には手紙を残していった。椿の口づけが印された手紙には、こう書かれていた。


『おばあちゃん。

 私は幸せです。本当の幸せを見つけました。

 どうかお元気で。いつか、必ずご報告に参ります』


 朝霧家では、蓮太郎の失踪により婚約は破棄された。両親は一時激怒したものの、やがて息子の選択を受け入れざるを得なくなった。


 温室の薔薇たちは、今も静かに咲き続けている。ガラスの向こうには、広い世界が広がっている。薔薇たちも、その世界を夢見ているのかもしれない。


 二人が向かった先で、どんな人生が待っているのかは誰にも分からない。しかし、確かなことが一つあった。


 二人は互いの心に、永遠の刻印を残したのだ。それは、身分も地位も超えた、真実の愛の証だった。


 月明かりの下、遠く走り続ける汽車の中で、椿と蓮太郎は固く手を握り合っていた。


 真の幸せとは、愛する人と共にあること。


 それだけで、十分だったのだ。


 (終)


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