第6話


 重たい鉄の扉がある。

 幸いなことにとても頑丈そうだ。か細い腕で何度叩こうが開かないだろう。

 だから何が閉じ込められているかなんて、何を封じているかなんて、そんな些細なことは気にせず平凡で退屈な理性的人生を全うすればよいのだ。

 隙間から空気や音が入ってくる。僅かに漏れる光がちらついて、息遣いを感じて、何が見えずとも向こうに何かがいると察してしまえばもう終わり。 

 開くはずがない、そう思えば思うほど開きそうな気がしてくる。

 扉の下から黒く濁った液体が染み出してきた────気にしなければいい。扉に近づかなければ同じことだ。

 だけど知ってしまった。あの扉は人には壊せなくとも、形なきものは防げないのだと。

 人は誰もが心に扉を持っている。中に閉じ込められている何かを無視している。

 その扉を開いた者がどうなるか、みんな知っているから。誰だって気になるのに、気にしていないフリをして、開いてしまった者をみんなで非難した。

 扉は完全ではないと知っているのに、人は気付かないフリをしていた。


 全ての扉は開かれた。ここにある、ただ二つを除いて。



*********************************



 数カ月ぶりに故郷に戻ってきた。現在二人は霊九守ビルの最上階である40階にいる。

 このビルは地下一階が地下鉄に繋がっており、1階~38階まではオフィス、39階がパーティ等に使われるロイヤルホール、40階がホテルという構造になっている。

 あれから日本中を旅してきた二人だが、帰省にあたりどこに泊まるかという話になりこのビルが候補に挙がった。どうせなら一番いいところに泊まりたいというのが人情だ。

 そして今。二人の前に、重たい鉄の扉がある。薄暗い廊下の中でも分かるくらいに黒く腐食しており────黒いシミが動いた気がした。


「っ……わっ……」

 思わず小さく悲鳴をあげてしまう。懐中電灯で照らしてようやくシミの正体が分かった。それは扉の隙間からはみ出て蠢く髪の毛だった。

 非常階段へと続く扉の上で煌々と輝く非常口マークがやけに不気味だった。発電所は停止し、最早電気など使えなくなって久しいのに。


「この先に用はないし、無視していいでしょ」


「……そうだな」

 声を出したのがいけなかったのか、ぬるぬると動くばかりだった髪の毛が急にざわめき始めた。無視して扉に背を向けて歩き出す。

 大丈夫、大丈夫だ。扉は理性ある者でなければ開けない。ドアノブを回せないのだから。

 カチャン、と鍵が開くような音がして、緑色の非常口マークの光が消えた。無視しろと言われたばかりなのに、後ろを見てしまう。


「……やばい‼」

 いくつもの湿った手が扉の隙間に差し込まれ、今まさにこじ開けようとしているところだった。


「────ッ‼ くッ……そ……!」

 慌てて背中を扉に押し付け華怜と一緒に全力で体重をかける。

 それでも隙間に入り込む手の数はどんどん増えていき、あちらに何かがいると察した『向こう側のヤツら』が扉を叩き始めた。


「あ、あ、あぁ……っ!」

 竣の顔が無数の手に掴まれるのと同時に、扉を押さえていた華怜の手に髪の毛が伸びていく。

 助けようとした竣の手が髪の毛に捕まってしまった。振りほどく前に耳が掴まれ、口に指が押し込まれ、頬の内側から引っ張られる。眼窩に指が引っ掛けられ、強制的に目を開かされる。

 廊下の奥で我関せずとばかりに窓の外を眺めるゴン太が光に照らされ、やけにはっきりとした白い輪郭が見えた。

 ああ、月だ。永遠に孤独なまん丸い満月────いつかに月明かりの下、二人でページを捲りながら読んだ本の一節がフラッシュバックする。

 われわれの救いは死である。しかし〈この〉死ではない。


「────」

 まばゆい月の光を見た竣の眼球がギョロギョロと動き震える。

 搔きむしった手首の血を華怜に啜らせて悟ったあの夜。後戻りはもうできないと────口に押し込まれた指をブツッと喰い千切る。

 

「うっ、うっ、うグゥウウウ……」

 ピキパキと体の中から音が聞こえる。骨が軋み肉が震え、粘度の高い唾液が噛み合わせの悪い牙の隙間から垂れる。

 嚙み砕いた指を血の霧と共に噴き出すと、限界の一歩向こう側の力が出力され、なんとか開きかけていた扉を閉じることに成功した。

 

「………ッ! 華怜‼ 危ない‼」

 閉じた扉に断たれた手が二つ、尺取虫のような動きをしながら華怜に向かっていく。

 華怜の前に飛び出してベルトに差していた拳銃を抜き────ほとんど暗闇の空間に光が瞬く。

 一気に五発撃ってしまったが、運よく三発ほど命中し、ようやく手は動かなくなった。

 カチカチと残弾0を示す音が薄暗い廊下に虚しく響く。

 

(終わったのか……?)

 改めて鍵をかけると非常口マークの明かりが灯り、まるで夢だったかのように扉を叩く音は止んだ。

 口の中に残っていた肉片を吐き出し、心臓の早鐘を認識できるくらいに落ち着いて、ようやく華怜を壁に押し付けていたことに気が付く。

 

「ごめん! 苦しかった?」

 

「……もう!」

 ぎゅうぎゅうの圧力から解放された華怜が肺から大きく息を吐きだして竣の背中を叩いた。

 自分だって怖かった、なんて言い訳にしかならないが、都会の満員電車よりも強く華怜を圧し潰していた。

 間抜けだと今更ながら思うのだが、華怜だって銃を持っているのに。


「弾切れちゃった……明日からどうしようか?」

 

「明日のことは明日考えよう」

 この世界になってからの華怜のスタンスが端的に表れている言葉と共に、華怜が手のひらを上に向けて差し出してくる。

 男女あべこべのキャバリエとデビュタントのようにその手を取る。華怜の冷たい手は少しだけ汗に濡れていて、それが恐怖によるものでなければいいのにと願った。

 今度は対等な関係で最初からやり直し。それがあの日の夜、竣が心から望んだことだった。

 だから、未だに俺たちは手を繋ぐくらいしかしていない。ずっと一緒にはいるが依然として恋人未満とすら呼べない関係だし、今みたいなポカをしては華怜に怒られてばかりだ。

 まだまだ先になりそうだが、それでもいつかは難攻不落な華怜の心を捕まえてみせるんだ。俺はちゃんとした人間なんだから。


 

*********************************

 

 

 世界は完全に崩壊した。

 竣と華怜を除いて理性のある人間はもう残っていない。

 人類が数千年かけて築き上げた文明は全て消えて無くなり、もう意味をなさない建造物が街には溢れている。

 変わり果ててしまった元人間の化物たちは好き勝手に動き回り、眠り、戦い、死んでもまたどこかで生まれ、あらゆるしがらみから解き放たれこの世界を駆けていた。

 この世界において『理性』は光だった。あるモノは怖がって逃げるし、あるモノは手を伸ばしてくる。まるで炎に誘われる蛾のように。 

 良い子は眠れ、悪い子も眠れ。起きている子は連れていくぞ────今も心の闇が二人の扉を叩いている。


 

 ようやく目的地である最上階のスイートルームに辿り着いた。

 月明かりだけでも分かるほどに広く綺麗な部屋だ。苦労した甲斐があった。一泊60万円が今や0円だ。

 

「うわっ、でかいベッド!」

 

「キングサイズだからね」

 これまで色んなところを旅してきたが、ここまで分かりやすい最高級ベッドは初めて見た────ゴン太がベッドに飛び乗り容赦なく埃が舞い上がった。

 このくらいの不衛生さには慣れている竣と対照的に、華怜が可愛らしいくしゃみをした。意外にも手で口をおさえるのではなく、上着の肘の内側部分で口を覆っていた。

 

「寝る前に掃除しなきゃな」

 

「それは後でいいから、テラスに行こう。きっと来てよかったって思うよ」

 埃っぽい部屋に荷物を置き、勝手知ったるといった様子で歩く華怜に従いプライベートテラスに出た。

 

「ね?」

 

「うん……いい景色だ」

 二つの意味でこの街で一番高い場所だけあり、素晴らしい眺めだ。

 遠くでなぜか勝手に回り続けている観覧車の向こうでは、開眼した月が世界を照らしている。

 雲一つない夜空に輝く星々と対照的に、街には一つも光がなく急速に成長した植物に飲み込まれている。

 どこまで行っても続く廃墟に、国境も何もかもが無くなったことを実感する。

 バラバラだった世界はひとつになったが、誰の胸も音を立てず粉々になった。

 初めの頃はあちこちに火の手が上がっていたが、今は全てが凪いでいる。

 兵どもが夢の跡とはきっとこんな風景を詠んだのだろう。

 

「なにか飲み物でも作ろう」

 テラスには机と椅子があった。風雨に晒されて黒ずんだ汚れを綺麗に拭き、華怜を座らせる。

 キャンプ用コンロを点火するとようやくほっと一息付けた。

 

「竣、ちょっと背中……というかジャケット脱いでみて」

 

「え……なに? あっ! 破けてる……」

 羽織っていたライダースジャケットを脱ぐと、背中からぱっくりと裂けていた。

 二人で蹴破った古着屋で見つけた黒いジャケットは、華怜の着ている赤いジャケットと対のデザインとなっており、これを着てバイクに乗ると何もかも忘れられるくらい気分がよかった。お気に入りだったのに。

 

「なんで急に破れたんだ?」

 

「さっき扉押してる時に、ビリッて」

 

「ああ……またか」

 こんな世界になっても飲み食いが必要ないのでなんとか生きている。

 だがそれは裏を返せば、九尾の浄化の力があってもなおこの世界を包むカオスに取り込まれているということだ。

 それを示すかのように、危機に瀕した時や人間の限界以上の力を出そうとした時に竣は変身してしまう。

 特に今日のような満月の夜は抑えが効かない。今はまだ気づかぬ間に人間に戻っているが、いつかは戻れなくなる日が来るのだろう。

 

「また今度探せばいいじゃない」

 机に肘をついて行儀悪く笑う華怜の目は、もはや遺伝という言葉では説明が付かない程に赤く妖しく輝いている。

 少し口角を上げただけで刃のような牙は外気に晒され、元々白かった肌は白を通り越して青白いと言っていいくらいだ。

 きっといつか華怜が太陽の光を嫌がる日が来るのだろう。その時には自分も人の姿を失って夜を生きる半人半獣の化物になっている。

 月の下で永遠に迷子の人狼と吸血鬼。それがいつか必ず訪れる俺たちの末路。

 

「うん。また二人で」

 それでいい。それがいい。いつか訪れる永遠の夢。それまではこの世界を楽しもう。

 コンロの火にかけていた水が沸騰した。ジャケットを着直し、いつの間にか華怜の好物にもなっていたブランデー入りのココアを作る。

 大量の化物に追い回されても、野宿をする羽目になっても、このココアを飲むと一日の疲れがぶっ飛んで二人で笑い合える────ゴン太が両前足を机にかけて立ち上がった。

 

「わかったわかった。ほら、ゴン太の分もあるって」

 そのまま鍋に顔を突っ込みそうだったのをなんとか押さえ、深めの大皿に注ぎ床に置く。まだ熱いだろうに、一切気にせずガブガブと飲み始めた。

 9本ある尻尾を含めれば体長2m半はあるだろうか。神聖な赤い模様が呼吸と同じリズムで輝いており、現世の生き物ではないことを無言で証明している。

 

(こいつ俺たちのことどう思ってんだろ)

 前に廃寺に寄ったとき、三面六臂の怪物が中から飛び出してきた。

 なす術もなく逃げ回る二人だったが、間にいたゴン太の尻尾に怪物の手が触れた瞬間、怪物はしゃぼん玉のように弾けて消えた。ゴン太はあくびをしていた。

 間違いなくこの世界で最強のあやかしだ。だが、先ほどもそうだったが基本的に助けてくれたりはしない。

 付いてきているだけ、二人の末路に興味があるだけなのだろう。

 

「うりうり。ほらほら、ここがいいの?」

 ココアを飲み干したゴン太は、華怜の素足に踏まれて揉みしだかれ、見事なヘソ天を晒して尻尾をぶんぶん振っている。

 どうやらそこまで無機質な感情でもないらしい。

 

「竣、なんか食べよっか」

 華怜がカバンをひっくり返すとカップラーメンや缶詰、それに煙草が大量に出てきた。

 皮肉なことに、こんな身体になって飲食の重要性が分かった。

 五感の一つがずっと機能しない状態というのは実につまらない。

 食事というのはそれだけで人生を飾る要素足り得る────のだが、肉も野菜も既に腐り果てているため保存食かお菓子くらいしかない。

 

「ホテルに泊まる楽しみって、深夜にコンビニで普段買わないものを買うことなんだよ」

 華怜は竣の内心を見抜いたかのような言葉を口にしながら、羊羹の缶詰を開けている。

 そうかな、そうかも。華怜が言うならきっとそうなんだろう。

 こんな世界になってようやく生きているって素晴らしいと思える。安っぽい食事でも美味しいと思える。

 

(君がいるから)

 煙草を咥えながら羊羹を十徳ナイフで切り分ける華怜の表情は、苦しみも葛藤もなく、何も取り繕っていない。

 この子のこんな顔を見たことがあるかって、世界中に自慢してやりたい。だけどその表情を誰にも向けないでほしい。

 誰からも隠しておきたい。ずっとドキドキしていたい。と、未だにこんな青いことを考えてしまうくらいには、二人の仲は進んでいない。

 ぼんやりしていた自分が悪かったのか、受け取った羊羹が横からかっさらわれた。

 

「……! カラスだ……」

 いつの間にか机の上にいたカラスが竣の羊羹をついばんでいた。

 文字通り、三千世界の鴉が死んだ世界だから、素のままのカラスを見たのは相当久しぶりな気がする。

 

「燈……?」

 

「えっ⁉」

 家族の話をしない華怜から出た兄の名前。

 あらためて見ると確かに脚が三本あり、華怜との血の繋がりを示すように瞳が赤かった。

 仲は悪くなかったと言った兄は、八咫烏となり妹の前で羽づくろいをしている。

 華怜が何を考えているのかは分からないが、まばたきもしておらず────雨が降ってきた。

 

「雨……? 雲出てないのに?」

 机を覆うパラソルに大粒の雨が叩きつけられる。

 それなのに相も変わらず空には月と星が浮かんでいるばかりで、と思っていたらテラスが大きな影に覆われた。

 

「……なんだ?」

 霊九守ビルの上空を真っ白な何かが横切っている。

 最初は飛行船かと思ったが。

 

「クジラだ……!」

 おとぎ話の続きを見たかのような華怜の声が水音に混じる。

 そう、これは雨などではなくクジラの潮吹きだった。入道雲のように大きな真っ白なクジラが空を泳ぎ、追いかけるようにトビウオが空一面を飛んでいたのだ。

 奇跡はほんの数十秒で終わり、やがてそのままの意味での通り雨は止んだ。

 名も心も失った華怜の兄は、くちばしに咥えた羽根をそっと華怜のそばに置いた。

 真っ黒のようで深海のように青い。指先でつまんだ黝い羽根を赤い瞳に映し、華怜は喜びとも悲しみともとれる表情をしている。

 竣はただ黙っていた。きっと兄から何かを貰ったのは初めてなのだろう。

 雨宿りの代金を置いた八咫烏が飛び去って行き、遠い空で金属が擦れるような音で啼いた。

 

「なっ、今度はなんだ⁉」

 

「地震⁉」

 世界そのものが変わっても地球の性質は変わっていないのか、これまでも何度か地震はあった。

 だが天の使いが呼び起こした地震は、大地そのものが身震いしているかのようで、かつて日本を襲ったあの厄災が脳裏に浮かんだ。

 ビル全体が軋む音が響き、あちこちで家が倒壊している。華怜に覆いかぶさってじっと耐え、何も落ちてくるものが無いのだから意味がない、と気づいた頃には地震は止んでいた。

 

「……あはっ。何あれ」

 かつての霊九守邸の下から途轍もなく巨大な何かが這い出てきている。人と表現していいのかも分からない程に大きな人だった。

 身体に樹々が生い茂り、少し動くだけで大地が揺れる。僅かに地面から見えている部分だけでもこのビルよりも大きい。

 頭の三分の一が地上に出ており、大型船ほどある目が周囲を見回している。

 おそらく全長は富士山を腰かけにできるほど大きく、その手で国を創ることすらもできるだろう。

 幸い、覚醒にはもう一声足りなかったのか、華怜の実家を粉々に吹き飛ばした巨人は動かなくなった。

 

(よかった……飛び出てこなくて……)

 額を拭って初めて冷や汗をかいていたことに気が付く。

 確実に目が合ったと思うが、小さすぎて認識できなかったのか、興味がなかったのか。

 もしも本格的に動いていたら逃げる間もなく霊九守ビルごとぺしゃんこにされていただろう。

 今まで見た中で一番の怪物から目を離せずにいると、突然華怜が踵を落とすように竣の太ももの上に脚を乗せてきた。


「あれはもういいでしょ。こっちを見て」

 華怜のスタンスはずっと一貫している。それがなんであれ、竣の意識が自分以外の何かに向くのが嫌なのだ。

 確かに、こうされなければ自分はほぼ間違いなく『あいつの正体は一体』とか『華怜の家がなくなっちまった』とか、華怜にとってどうでもいい話をするところだった。

 薄暗闇の中、何かを待つように開いて閉じてをする華怜の素足にピンと来る。

 

「……足、拭いてあげるね」

 

「ん」

 華怜の望みをうまく掬い取ることができたと、その表情からもわかる。

 適温になった別皿のお湯にタオルを浸して絞り、ライダーブーツの中で一日中蒸された足を持ち上げる。

 いつから、どちらから言い出したかは覚えてないが華怜の御御足を綺麗にするのは竣の仕事だった。

 大好きな女の子の足を拭くという行為は心の奥底からうまく言葉にできない幸福感がにじみ出てくる。

 俺は変なのかもしれない、変態なのかもしれない。だけど構わない。華怜だって自分でする方がよほど早いのにやらせてくれているし、他に誰もいないのだから。


「熱くない?」


「ううん、気持ちいい」

 やわらかい土踏まずを持ってつま先から踵まで丁寧に拭いていく。 

 飲食が不要な身体とはいえ、汚れるし汗もかく。しかし水道は既に止まっているので、簡単には風呂に入れない。

 スーパーに行けばペットボトルの水があるので、浴槽に溜めて大き目な鍋で沸騰させたお湯と混ぜればよいが、何十リットルと必要なのでこんなビルの最上階では非現実的だ。

 そうだ、思い出した。前も似たような建物の高層階で寝泊まりしたときに、せめて濡れタオルで身体を拭くことになって、足を拭けと言われたんだ。


「綺麗な足……。すごいよ、爪の形まで完璧だなんて」

 指も爪もくるぶしも、小さな黄金比が集まって更なる黄金比を形成している。

 常に一緒にいるのにこの赤いペディキュアをいつ塗ったのかわからない。いつもそう、竣が起きる頃には化粧を済ませて着替え終わっている。

 それくらい華怜の美意識はこの世界でも完璧に保たれていた。


「いいよ、好きにしても」

 もう片方の足を竣の肩に乗せ、囁いた蠱惑的な言葉────はっきり言って、先ほど華怜に踏みしだかれていたゴン太が羨ましかった。

 完璧に保たれた自分を見せていたいと華怜は思っているはずなのに、身体の中でも一、二を争うほどに汚れている部位を竣になら好きにさせてもいいという、破裂しそうなほどに大きな好意に裏付けられた矛盾。

 ああ、もう。においを嗅ぎたい、口に含みたい、舐め回したい。華怜は怒らない、むしろ望んでいることだし喜ぶとわかっていても竣にはできない。そんな勇気がない。


「ほらっ」

 ぽすっ、と素足を軽く顔に乗せられた。いや、踏んづけられた。

 一呼吸ごとにツンとした汗のにおいが鼻腔を刺激する。華怜でも、華怜ほどの美少女でも完璧ではない部分がしっかりあると教えてくれる。


「竣はにおいフェチだもんね。隠してたつもりかもしれないけど。あんなに鼻が利きそうな姿見せられたらね」


(ああ~~……好き好き好き好きすぎる……)

 他の人間にこんなことされたら下手しなくとも相手を殺すと思う。なのに華怜にされると心底幸せな気持ちになる。大好きが溢れて止まらない。

 バレてるだろうが、バレないように鼻と唇をそっと擦り付ける。足裏に隠れてほとんど見えない華怜もまた、紫煙を燻らせながら心底幸せそうな顔をしている。

 今更誰に取り繕うというんだ。俺らは揃って変態なんだ。


「竣はねぇ、変身しなくても最初から犬だったんだよ。かわいいね」

 華怜も変身しなくても最初から怪物だった。押し付けられていた足の親指がねちっこく眉間を伝い、鼻をなぞり、半開きの口で止まる。

 もちろん入ってもいいよね?────そう言っているかのような動きで口の中に優しく入ってきた。

 固まる舌の緊張をほぐすように親指の裏側で舌先を撫でてくる。しょっぱい。塩辛い。この世にこんな高貴な味が他にあるだろうか。

 

「幸せ?」

 華怜の足の指を口に入れながら小さく頷いた俺の情けなさときたら。くふっ、と好感度が上がったことがよく分かる表情。

 変だよ俺ら、変態だよ。でもそれでいいよ。自分の歓びのために、華怜を悦ばせるために、初めて能動的に動いて足首を掴んでから気が付く。


(また爪が伸びてる……)

 竣の血管が浮かんだ手から伸びる白濁とした死蝋のような非人間的な爪。

 人間用の爪切りではまるで歯が立たず、放置するとバイクのハンドルも握れなくなるので普段はコンクリートを引っ掻いて爪を削っている。

 満ち満ちた月の光の中でぎちぎちと狂骨が鳴る。本能に飲み込まれれば飲み込まれるほど爪は伸びていく。徐々に人間ではなくなっていく。戻る術はもう、ない。

 襲い掛かってくる化物を撃退する中で、頭が真っ白になることがある。先日は化物の口に両手を突っ込んで縦に引き裂いてしまった。

 理性を遥かに凌駕する獣慾が日に日に大きくなっていく。


「…………。掴んだまま固まるのはやめて」 

 仰る通りの言葉に足首を離してから気が付く。華怜は既にココアを飲み干している。

 それだけと言えばそれだけだが、俺たちは喉が渇かないのに────鉄分が足りていないのだ。

 今も華怜は何かを誤魔化すように、咥えた煙草の火に新しい煙草を押し付けてチェーンスモークに勤しんでいる。


「華怜……ほら」 

 袖を捲って包帯を外し、幾重にも傷跡が刻まれた手首を華怜に差し出す。

 煙草を口から落とした華怜の赤瑪瑙の瞳が猫のようにきゅうっと細まり、ごくりとお手本のような生唾を飲み込む音が聞こえた。

 華怜は教えてくれないが、毎日一緒にいれば自然とわかってくる。

 やたらと飲み食いが多くなってきたら黄色信号だ。更に満月の夜という条件が重なるともう間違いない。

 今宵の華怜は血に飢えている。


「……天橋立の旅館……覚えてる?」

 短い言葉にも関わらず、乾いた口を開くと粘度の高い唾液が牙から伸びるのが見えた。

 今にも飛び掛かりそうな腕をもう片手で抑え、股ぐらに突っ込んで太ももで挟み耐えている。

 心に絡みつく灼熱の闇と戦う華怜を見ていると、創作物によく出てくる吸血鬼の被害者がなぜ自分からその身を差し出したのかよく分かる。

 

「ああ、もちろん覚えてるよ」

 目的地が天橋立のどこかにあったのだが、探している途中で酷い大雪に襲われ立ち往生しているときに旅館を見つけた。

 どちらともなく入った旅館で見つけたのは、未だに湯気の立ち上る天然温泉だった。温泉大国なので探せば他にもあるのだろうが、偶然見つけたという事実が喜びを倍にした。

 ゴン太を抱えて頭から温泉に飛び込み、湯気の立つ狐の頭に畳んだ手拭いを乗せていると、身体にタオルを巻いて華怜がわざわざ男湯に入ってきたんだ。

 二人と一匹で横に並んで眺めた真っ白な天橋立のことは今でも昨日のことのように思い出せる。ゴン太は雪の中、むしろ元気いっぱいで庭を駆け回っていたこととか。

 そんな幸せな記憶にはあまりにも似合わない、歪んだ表情。震える手を口元に持っていきながらも華怜は言葉を続ける。


「竣が寝間着の浴衣はだけてしかめっ面しながら寝てて……その、つまり……」


「つまり?」


「首から欲しいの……」

 手の甲を嚙みながら呟いた華怜の瞳はとうとう闇夜に、気のせいではなく本当に紅く輝くようになってしまった。つーっ、と華怜の白い手を伝って血が流れる。

 華怜は『甘え』を最も嫌う。その一方で竣はどんなことも断らないと華怜は分かっている。

 プライドを曲げて望みを叶える時の屈辱と興奮が混ざり合って、歪み切った笑顔はいっそ恍惚をさらけ出している。


「いいよ、好きなだけ」

 お返しのような言葉を口にしながら、ジャケットのファスナーを下げて首を月光に晒すと、華怜が前のめりになって目の前まで顔を近づけてきた。

 ぼたぼたぼたっ、と牙を伝って華怜の牙から唾液が落ちる。変わりつつある華怜の唾液には痛みを和らげる成分と血の凝固を妨げる成分が混ざっている。

 それは知っていたが、牙そのものから分泌しているとは初めて知った。


「でも死んじゃうかも……」


「最近、傷の治り早いし、なんだか血の気も多いし……大丈夫だよ」

 人間性が微睡む表情に右耳のピアスがきらきら光る。

 互いに化物になっても俺たちはずっとこのピアスを付けているのだろう。

 周囲に何も無い二つの星のように、永遠に惹かれ合う。


「本当だよ、うそじゃない。大丈夫なんだ、そうしたいんだ。だって────」

 肺の空気を全部吐き出してルナティックな月明かりに身を委ねると、身体中から獣の音が鳴り始めた。ちらと見た己の影が膨らんでいき耳が歪に伸びていく。


「すごくいいきぶんなんだ」

 鋭利な爪が生え揃い、四足歩行向きの骨に肉付いた太い腕を広げる。ああ、己の本当の姿を受け入れることのなんて心地のよいことか。

 広げた腕の中に、膝の上に華怜が飛び乗ってきて椅子が軋む。醜く歪んだ人狼の顔を吸血鬼が血管の透き通る手でぺたぺたと触れて形を確かめてくる。

 言葉にしてくれたことは無いが、華怜はこの姿を好いてくれていると分かる。それならもう、犬人間でも狼人間でも構いやしない。


「なにを笑っているの? バカにしちゃって……」

 不揃いな牙を閉じ込めた竣の唇に両方の親指を突っ込み、華怜は噴き出した。笑っているわけではない。口が裂けているだけなのだ。

 人間以下の扱いを十何年も受けてきたし、実際人間以下だったけれど、華怜が笑ってくれるならそれでよかったよ。


「あはっ、なにこれ。竣の顔、全然怖くない。変なの。変なの!」

 鋭敏になった鼻をでこぴんで弾かれ、思わず顔をしかめた隙に華怜が顔を寄せて頬ずりをしてくる。

 きっと俺は完全に変わってしまった後も華怜に頬ずりしてる犬っころだし、吸血鬼に成り果てても華怜はずっと俺に執着しているんだろうな。

 華怜の兄がそうだったように、理性が霧散しても化物どもはどこか人間だったころの縁を辿るから、そんな予感がする。

 

「痛かったら言ってね。やめないけど」

 背筋を伸ばした華怜の胸が睫毛も触れそうなほど近くにある。華怜が己のジャケットを両側から引っ張りギリギリとファスナーが壊れ行く音を立てる。

 バツン、とファスナーが引き千切れ、肌着に包まれた豊満な胸が目の前で揺れた。また俺の真似をしている。破れたジャケットまで真似しなくていいのに。

 顔の高さを竣に合わせた華怜が目の前でワザと舌なめずりをした。隠し切れない性的興奮の浮かぶ華怜の顔が首に近づいていく。

 今にも結露しそうな吐息が首筋をなぞり、焼け焦げそうなほどに熱い舌が触れ、全身に鳥肌が立った。

 肌を舐める舌に浮かんだイメージは、なんということだろう、注射前のアルコール消毒で────女王の牙が突き刺さった。

 

「うっ……っ……」

 想像に反して痛みは一瞬だった。これはもう痛みを和らげる成分なんて優しいものではなく、麻酔に近い何かを分泌しているに違いない。

 それでも首に何かが食い込んでいるという異物感と、手首とは比べ物にならない快感も相まって、息がうまくできない。

 

「竣────」

 意識が薄れていく。遠くの空に飛ぶ黒い鳥の翼が掠れている。

 牙を突き立てた華怜が発した言葉と同時に溢れた血が首筋を伝い、華怜が全身全霊で抱きしめてくる。

 抱き殺してしまわないように華怜の細くて狂暴な身体を膨らんだ腕でそっと覆うと、この世のあらゆる全てに勝る多幸感が溢れてくる。

 急速に血液が失われ、息も切れ切れで、酸素が巡らず必然的に視界の端から徐々に解像度が落ちていく。


「またいこう」

 すぐそばで湿った音がする。華怜が自身の股間をまさぐっている。気付かないフリをしながら呟くと、華怜が小さく頷いてまた血が零れた。

 華怜の体重を感じながら色濃く薫る亜麻色の髪を精一杯優しく撫でて、観覧車越しに月を見上げる。上位者の瞳は今夜もふたりぼっちの世界を冷たく光らせていた。

 ありとあらゆるものが恐ろしくも美しい、神の頭の中をドロドロになるまで煮込んでぶち撒いたような世界。

 だけど、世界の終わりが来ても二人は離ればなれじゃない。

 やがて夜は深まっていき、うとうとしていた巨人の目が閉じた。



********************************* 



 お日様の匂いがする。最後に覚えているのはバカデカい月だったはずなのに。

 理性的な思考が結び付くと同時に急速に意識が覚醒へと向かう。その目にまず映ったのはつぶらな赤い瞳だった。


「ゴン太……重いって」

 竣の口と鼻に乗せていた肉球をどかすとゴン太は鼻をぴすぴすと鳴らした。

 どうも昨晩は吸血されている途中で気絶してしまったようだ。華怜がここまで運んでくれたようだが、高級ベッドのありがたみも分からないまま朝を迎えてしまった。

 改めて朝の空気を吸い込む前に、冷たい手のひらが額に触れた。


「気分はどう? 顔色はいいけれど……」

 華怜が竣の顔を覗き込んでいる。首に手を当てると既に傷口が塞がっていた。傷の治りが早いと嘘をついたわけではないが、実際大したものだ。

 既に着替えも化粧も済ませているのは流石だが、いつから起きているのだろう。


「……おはよう、華怜。ちゃんと寝た?」


「いつもよりぐっすりとね。体は動く? 起きれそう?」


「ああ。これなら毎晩だって大丈夫そうだ」

 ぱちんと鼻っ柱をひっぱたかれ、残っていた眠気も全て追い出される。

 冗談めかして言ったのが悪かったのだろうか。こういう時、どう言うのが正解なんだろう。これくらいも分からないのだから、まだまだ華怜との関係が進む日は遠い気がする。


「……いい天気だな」

 真っ白な春の陽光が差し込む窓の傍、椅子の上にハードカバーの本が置いてある。早起きした華怜が先ほどまで読んでいたのだろう。

 華怜は割と読書家なのだ。華怜の部屋にも大きな本棚があり様々なジャンルの本で埋まっていたことを思い出す。

 よし、思考ははっきりしている。貧血らしき症状は見られない。やっぱり大丈夫だった。


「いよいよね」

 華怜がベッドから跳ねて立ち上がった。そう、俺たちは今日という日を心待ちにしていた。

 二人はあてもなく世界を徘徊している訳ではない。こんな世界でも生きる意味を見つけるために目的を決めて、そのために行動しているのだ。

 

 

 ひび割れた道路の隙間からは草花が好き放題に生えており、路肩には永遠に動くことのない車が何台も路上駐車してある。

 その隙間を縫って排気ガスをモリモリ吐き出すバイクを乗り回す気持ちよさは他の何にも例えられない。

 日本中をツーリングしてきた二人のバイクは順当にグレードアップしていき、華怜の乗っているウルフ250には大量のキャンプ用品が括り付けられているし、竣のバイクなんかは750㏄のサイドカー付きのイカつい大型バイクだ。

 ちなみにそのサイドカーにはゴン太が行儀よく乗っている。日が出ている間は化物どもも比較的落ち着いているので、素直に風を楽しむことができる。

 巨人によって引き起こされた地震によって滅茶苦茶になった道を行ったり来たりすること数十分、ツーリングの必需品であるトランシーバーを通じて華怜から通信が入った。

 

「竣! 何か聞こえない?」

 

「ん……?」

 バイクのスピードを落とし、聞き耳を立てると確かに何かが聞こえる。

 音の出所を探し、周囲を見回すと学校が見えた。 

 偶然なのか、あるいは導かれたのか。竣と華怜の母校だった。

 学校だけあって耐震補強もしっかりしていたのか、あれほどの地震があったのにほとんど壊れていない。

 

「…………? 卒業式の歌……! そうか、今日は卒業式だったのか」

 体育館から聞こえる合唱は校歌が終わって卒業式の定番の曲となっていた。

 いつの間にか冬は終わって春が来たな、と思っていたらそんな時期になっていたのだ。腕時計を見ると25と書いてあるから3月の25日ということか。

 まさか卒業式の日に母校に戻ってくるなんて。いい思い出などほぼなかった場所なのに、懐かしき学び舎を眺めていると腹の奥がどこかきゅんと切なくなる。

 

「行ってみようじゃないの」

 

「うん」

 バイクを停め、表口の大扉を開けようとして少し背中がぞわっとした。

 裏口へ行こう、とジェスチャーして裏手へ向かう。昨日もそうだったが、二人してわざわざ危険そうな場所へ向かっている。

 もちろん安全に生きていこうと思えば危険を全て避けることもできる。

 だが自分たちの求めているものは一秒でも長く安全に生きることなんかじゃないから、刹那的に好奇心の赴くままに適当に行きたいところへ行き、やりたいことをやる。

 

「……亡霊たちの卒業式ね」

 

「俺達が三年生になるはずだったのになぁ」

 裏口から入り壇上に上がって驚いた。

 ピアノは勝手に鍵盤が沈んでは浮かんで曲を演奏し、誰が並べたのか綺麗に整列した椅子の前に人の形をした白いモヤのようなモノが立っている。

 この世界では誰もが、どんな生物もが悪夢まがいの現実の中で夢を見続けるのだ。

 

「みんな散り散りになっても戻ってきたのね」

 

「……混沌に飲み込まれても、やっぱりどこか人間なんだな」

 在校生代表のように壇上から眺めているが、卒業の曲も歌い終わり亡霊たちは行儀よく座り始めた。

 体育館の高い窓からは、はらはらと散っていく桜が見える。

 

「あっ。逃げないとかも」

 

「……やばそう」

 保護者席に座っていた亡霊の一人が形を変えていく。

 長いボロ布でできた黒いスカートと包帯でできた身体にはあちこちに鈴がぶら下がって不気味な音を立てている。

 何を思ったのか、スカートの中にあった小宇宙に周りの亡霊を吸い込み始めた。


「待って。やってみたい」


「まじか。まじか……絶対に意味ないと思うけど……」


「竣も昨日撃ったんだからいいでしょ」

 華怜が構えたのは自衛隊の基地から盗んできたアサルトライフルだ。89式5.56㎜小銃の弾倉には20発の弾丸が入る。

 だが、今までもああいうのに弾を撃ってみたが結局無駄だった。実弾というか、物理的な攻撃が効くタイプと効かないタイプがいるがあれは明らかに後者じゃないか────有無を言わさずレート650超えの銃声が体育館中に響き渡った。


「無理ね」


「だから言ったじゃないか! 逃げろ!」

 5.56㎜弾は椅子を吹き飛ばし、床に穴を空けるだけで全くヒットしなかった。

 それどころか化物は目の無い顔をこちらに向けてかなりのスピードで追いかけてきた。

 二人して猛ダッシュで外に逃げる。卒業式で保護者が卒業生を殺し在校生は銃を乱射なんてどっかの国顔負けだ。


「あーあ。弾無駄にしちゃった」


「後で地図見て弾を手に入れられるところ調べ……なんで笑っているの?」

 煙草に火を付けた華怜は愉快そうに笑っていた。

 校舎を背にバイクに凭れて小銃片手に煙草を咥えている華怜は、どう見てもこちらの世界の方が性格的に合っている。


「学校で銃とか撃ってみたかったのよね」


「…………。そうだな」


「さ、行こっか。時間どれだけかかるか分からないし、明るいうちに」

 ゴン太に一番小さいサイズのヘルメットとゴーグルを被せて抱き上げ、サイドカーに乗せる。しかし随分重くなった。60㎏はあるんじゃないか。

 華怜くらいなら乗せられるかもしれない。それはきっとすごい綺麗な絵になるんだろうな────と笑いながら竣はエンジンをかけた。


 

「よし、全部繋がっている。問題ないと思う」

 二人はまたあの山に来ていた。それも全ての元凶だったあの洞窟に。

 噴出してた混沌は今は落ち着いてるが、単に世界に広まりきったというだけだろう。

 やるなら徹底的に、と華怜は言った。その言葉に同意した竣は、まず地方を巡って発破解体用のダイナマイトを集めたのだ。

 そのかたわらに作っておいた通電装置も上手く取り付けられた。後は遠く離れた場所で起爆するだけだ。

 地獄の穴を全開放し、この世界をより面白く、より徹底的に破壊してやるのだ。


「とんでもない爆発になるぞ、これ」


「これもう火を付けちゃダメなの?」


「ダメだよ! まじで俺らぶっ飛んで────」


「うわっ‼」

 ここに来て突然ゴン太が邪魔してきた。二人を尻尾で掴んで宙に浮いたのだ。

 ゴン太だってこの穴には数百年も封印されて相当に恨みが溜まっているだろうに、どうしてと思っていたら。


「「ゴン太‼」」

 二人で叫んだ。大きく息を吸い込んだゴン太が極大の炎の球をダイナマイトの仕掛けられた穴に向けて吐き出したのだ。

 お前こんなことできたのか────そんな言葉は目もくらむような大爆発にかき消されて、ズゥンッ、と空中にいたのに直下型の超大型地震のような衝撃が響いてきた。

 この街は海無し県にある。なのに、北を見ても南を見ても遠くの空に海が盛り上がっているのが見えた。

 まさか────あんな高さまで津波が上がるほどの地震なら地球が割れている。

 地上に視線を向け、様々な建築物も浮かび上がっているのが見えてようやく気が付く。

 これは地震が起きて津波が発生したのではない。あの波はバケツに石を真上から落としたかのように垂直に空まで上がっている。


「日本が‼」


「沈んだぁ⁉」

 日本がいきなり5m程沈んだのだ。

 その証拠に山にあった木が根っこごと宙に浮いており、空を飛ぶ二人は大量の桜の花びらに包み込まれていた。ゴン太の尻尾に掴まれているものの、ふとした瞬間に離れてしまわないようなんとか華怜の手を掴む。

 空を覆うような巨大な鳥たちが大慌てで飛んでいる。地獄の穴を完全に解放して、日本を沈めてしまった。

 やったやった、やっちまった。心の中で湧き上がる達成感に笑いを抑えきれないでいると、同じく心の底から笑っている華怜と目が合った。


「おっとっと」


「いてっ‼ ゴン太‼」

 倒壊したビルの上に降ろされて軽やかに着地した華怜と違い、竣は思い切り転んでしまった。

 確かに器用な方ではないが、今のはゴン太の降ろし方も悪かっただろう。しかし怒られたゴン太は知らん顔をして尻尾を噛みながら毛づくろいをしていた。

 日本を襲った衝撃の中でも間違いなく歴史上一番のエネルギーだっただろう。目につく全ての家が半壊し窓ガラスは粉々に割れている。


「あははは! 見てアレ‼」

 華怜が指差した先に二つの巨大な塔ができていた。天を衝くほどの高さという表現があるが、その先端は本当に雲を貫いている。

 あれは一体、と考えること数秒。昨晩の巨人がひっくり返って犬神家と化しているのだと気が付いた。気分的には冗談ではなく布団が吹っ飛んだといったところか。

 ぴくぴくと震える巨人の尻をぼんやりと眺めていたら空からゆっくりと二人の目の前にバイクが降りてきた。

 このままエンジンをかければ滑り落ちるように気持ちいいスピードで発進できそうだ。


「……へー。ゴン太もやっぱりバイク好きなんだね」


「お前結構自己主張強いよな……」

 自分からサイドカーの中に入ったゴン太を見てなんとなく溜息が出る。

 そういえば最初からこの場所を気に入っていたっけか。きっと妖怪だとて風を感じて走るのは気持ちがいいのだろう。


「……よし! 次はどこだっけ」


「中国の……四川省かな」

 霊九守家の記録を元に、日本中の神社仏閣を訪ねて作った地図を広げる。徹底的に世界を壊すならこの場所だけでは足りない。

 日本以外でも過去に似たようなことをしていた場所を見つけて解放するのだ。今や二人でこの世界を完全にぶっ壊すために旅をしている。


「うんうん。本場の肉まん食べたいね」


「店のはダメになってるだろうけど……道具見つけて一緒に作ろうか」

 ここから北陸まで走り、船を見つけて海を行くことになるだろう。

 食料や飲料水の心配はいらないが遭難したらどうしよう────なんてのは無用な心配だ。

 自分たちは生き延びるために生きているんじゃない。今この一瞬の青春を楽しむために生きているのだ。だから、そろそろ誘ってみたっていいはずだ。


「あのさ、逆方向に行くことになっちゃうんだけど……。国道16号線走ってみないか?」


「16号線……? …………! 竣の言っていた駅を探しに、ってこと?」


「うん。華怜と一緒に夜明けを見たいんだ」

 華怜の笑顔にぱぁっと渚に描いた夢が咲く。答えを聞く前からもうその辺を跳ねまわりたい気分だ。


「行こう行こう! ゴン太、海だって! 今度は泳ごう!」

 両方の頬を華怜にむぎゅっと押されて潰れまんじゅう顔になったゴン太は、勇気を振り絞って華怜を誘った竣をニヤニヤしているような表情で見ていた。


(ゴン太も楽しいから俺たちと一緒にいるってことなのかなぁ)

 見届ける義務とか、そんな堅苦しいことは特に考えてなくて、数百年ぶりの自由を満喫する旅の道連れに二人を選んだのではなかろうか。それこそ神の気まぐれのように。


「その後はグリニッジだっけ。ついでに天文台も、望遠鏡も見てみたいなぁ」


「そうそう。イギリスだな」

 中国に辿り着いて目的を達成したら今度はシルクロードを渡りつつ徐々にロシア方面に逸れなければならない。

 そしてフランスまで無事に辿り着くことができたなら、また船を拾って海の上を行く。

 長い長い世界崩壊ツアーだ。ロンドンに着くまでに2、3年はかかるかもしれない。

 その間に自分たちはどれだけ成長するだろう。この関係はどれだけ進展するだろう。


「でももう少し日本にいたいね。あの旅館ももう一度行ってみたいし」


「そうだな。行っておいた方がいい場所、まだたくさんあると思う」

 旅の行程を書いた地図を挟んで華怜と視線がぶつかる。

 きらきらと輝くその目は、将来の夢をこれから発表する子供のように、大きな未来への希望と小さな勇気を湛えていた。


「そしたらね、どっか……それこそ、あたしですら見たことないような綺麗な場所を見つけてそこでしよう」


「…………? なにを?」

 何をしたいというのだろう。だが、二人ならきっとなんだってできる。

 なんせ二人は人類をも滅ぼしてしまったのだから────やましいことなんかじゃないんだ、と身体中で表すように腕を広げて天を仰ぎ、華怜はあらん限りの声で叫んだ。


「セックスしよう!」

 17歳の女の子が、こんな太陽が真上にある時間から街のど真ん中でそんな言葉を叫んでいる姿に、竣は腰が抜けてバイクに寄りかかってしまった。

 こだましたその言葉の感覚が嬉しかったのか、華怜はけたけたと笑っている。


「そんな、開けっぴろげに言うようなことじゃ」

 認め合い惹かれ合っている若い二人なんだから、いつかはするだろう。

 だけど、こういうことはもっと夜に静かに、二人だけの秘密みたいに────


「だからなんだってんだ! この世界には! 華怜と竣しかいないんだぞ! まいったか! 世界なんかクソくらえ‼」

 お嬢様然とした服装とは程遠い、ツーリングに適したライダースジャケットと煙草でポケットの膨らんだジーパンを身に着けて、華怜はこの世界にはもうない社会とやらにどこまでも中指を立てるように叫ぶ。


「セックスしよう‼」

 青空を突き抜けて太陽にまで届くような声が魑魅魍魎が跋扈する世界にこだまする。

 華怜の背徳の叫びは地の底から出てきた巨人の尻に当たり、完全に目覚めさせてしまった。

 お前はどうなんだ、と太陽に輝く赤い目が言っている。

 助けを求めてゴン太に目を向けると全部聴いているくせに知らんぷりをしていた。

 そうだ、助けなんか求めてどうする。これから前に進むんだ。他でもない自分自身が華怜の心と身体を手に入れるんだ。


「華怜とセックスするぞ‼」

 普通の世界なら絶対に叫べない言葉を朽ち果てた街に向かって叫ぶ。

 霊九守の支配下にあった街で、お前んとこの娘を犯してやるんだぞと宣言することの爽快感は晴天貫く霹靂よりも真っ白だ。

 言ってはいけない言葉がなんだってんだ。そんなもん全て消えてなくなった。

 すっ、と胸の内側に滑り込むように勇気が出てきた。きっと今日の夜こそ俺は、自分から華怜にキスができるだろう。

 もう一つの太陽のように笑う華怜もきっとその瞬間を待っている。


「……! うわ! うわうわ! やばい‼」

 立ち上がった巨人が明らかに二人に向かって歩き出した。それと同時に周囲からこちらに向かってくる破壊音が聞こえてくる。

 支配者の娘を俺のものにしてやるんだ、という叫びは早速激怒したあれこれそれを呼び寄せてしまったようだ。


「逃げろ──‼」

 二人でバイクのエンジンをフルスロットルにし、爆音を立てながら急発進する。

 この街を飛び出そう、永遠の旅に出よう。

 二人でぶっ壊した世界の果てまでも。

















 全てを捨てたことを一瞬たりとも後悔したことはない。 

 何もかも、全てを陳腐にする単純な答えがそこにあった。


(だって俺は君のことが────)


 この世界よりも好きだから。









────

おわり

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