episode.3
ソファの肘掛けに突っ伏していたアズライトは、呻きながら真っ赤に染まった顔をあげた。
「おい……なんでお前は平気なんだよ」
顔色ひとつ変えずにワインを飲んでいるジルを虚ろな目で睨むと、不満げに唇を尖らせる。
テーブルの上には空のワインボトルが三本並んでいるが、アズライトは一本目の時点でもう目が据わっていた。もともと酒には弱く、すぐ顔が赤くなって頭がふわふわしてしまう体質のことを忘れていた。
「俺は酒に酔ったことはない」
「お前……ほんとムカつくなあ……」
競う気のないジルはただゆっくりとワインを嗜んでいるだけなのだから、その余裕な態度が余計に腹立たしい。解いたネクタイを首にかけたまま、襟元のシャツのボタンがいくつか外れている。常に一切の隙もない姿で外出する男が、僅かに肌を露出して寛ぐ様子は妙に色気がある。
酒も煙草も似合うと思えてしまうのは、ジルが年齢不詳の大人の男だからだろうか。どちらの
アズライトはソファから身体を起こすと、危なげな足取りでジルの前に立った。普段ジルを見るときは上に向く視線が、今は眠たげに下を向いている。
「なんだよ、酔っ払い」
「……酔ってねえよ」
説得力のない声で返すと、アズライトはジルが座る椅子の肘掛けに両手を置いた。自分からジルに近付くのは、喧嘩腰の時以外では初めてのことだ。
腰を屈めるようにしてジルの首に顔を近付け、肌の匂いを嗅ぐ。最早嗅ぎ慣れた煙草の香りと、アズライトの知らない匂い。
ジルは身じろぎひとつせずその行為を受け入れ、ふっと鼻先で笑った。
「なにか分かったか、犬っころ」
アズライトは首から顔を離すと、至近距離でジルと視線を合わせた。すべてを見透かすような漆黒の瞳に見つめられ、無意識に一度唇を噛む。
「……いつも、どこ行ってんの」
「そんなことが気になるのか」
「俺は……置いて行かれるの、好きじゃない」
酒に飲まれた戯れ言か、はたまた本音か、アズライトはアルコールで麻痺した思考を無視して、胸の奥に溜め込んでいた言葉を吐き出した。
ジルから香るアズライトの知らない匂いには、微かに血の匂いが混じっている。外で渇きを満たしているのか。それであれば、アズライトにとっては都合がいいはずだ。自分の血を吸われる心配がないのだから。
なぜこんなにも不快な気持ちになるのか、アズライトには分からなかった。
暗い闇の瞳から視線を逸らすと、ジルの手がアズライトの後頭部の髪を撫でた。
「なるほど……可愛いとこあるじゃねえか」
「馬鹿にしてんのか、ガキ扱いすんな」
「ガキだろ、お前は」
言い返す前に、後頭部を撫でていたジルの手によって頭を引き寄せられ、アズライトは言葉を飲み込まざる得なくなった。
「っ……」
喰むように塞がれた唇に、ジルの牙がそっと突き立てられる。痛みに眉を寄せている間に下唇から滲み出た血を吸われ、思わず息が漏れた。ジルの舌がアズライトの唇を割り入り、ワインの香りが鼻を抜けると、くらくらとした熱で舌が溶けそうになる。
「ちょっと、待てっ……舌は、噛むな」
絡めとられた舌をジルの牙にやんわり挟まれ、アズライトは怯えたように声をあげた。舌を噛まれると食事をするときに痛くて不便だということを、アズライトはよく知っていた。
慌ててジルから離れようと一歩足を引くと、眩暈に身体がふらつく。慣れないワインの酔いが回って、思うように立っていられない。
アズライトはよろよろと後退ると床に座り込み、ソファに頭を乗せて寄り掛かった。
「目がまわる……」
「本当に世話が焼ける奴だな」
呆れたような溜め息を吐き出してジルは立ち上がると、赤く変色した瞳でアズライトを見下ろした。
「女のように抱えられるのと、自分の足で歩くの、どちらがいい」
「はあ? ふざけんな……自分で歩くに決まってんだろ」
「……そうか」
ジルは満足そうに頷くとアズライトの腕を掴んで立ち上がらせ、そのまま樽を運ぶかのように肩に担ぎ上げた。
「ちょ、おいっ……! なんだよこれ、下ろせ……!」
「姫のように優しく運ばれたいなら、そうしてやってもいい」
「舐めてんのか、このクソ吸血鬼……!」
「暴れると落とすぞ」
身長175センチを超えるアズライトを軽々と持ち上げ、ジルは二階にあるアズライトの部屋へと向かった。階段さえもなんの苦もない足取りで上がり、部屋に入るなり優しさの欠片もなく乱暴にアズライトをベッドに落とした。
「うえ、吐くかと思った……」
「吐いてたら階段から落としてたぞ」
冷酷なことを言いながらベッドに腰掛けるジルを見て、アズライトは苦しげに仰向けに寝転んだ。どうやらすぐに部屋を出て行く気はないらしいジルの様子に、安堵の息を漏らす。
ジルの存在に安心していること自体がおかしいとは思っていたが、その理由を考えるのも億劫でやめた。
「なあ……ワインで満足してんの? それとも、外で血吸ってるから充分なのか?」
「……今日はやけに知りたがりだな」
「だって俺、お前のことなにも知らねえし。女の血って、そんなに美味い? 俺の血は不味いんだっけ」
ベッドに座るジルの背中に問いかけると、短い溜め息で返された。酔っ払いの相手をするのが面倒で出て行ってしまうのではないかと、アズライトは咄嗟にジルの上着を掴む。
「眠るまで傍にいてほしいなんて、まるで子犬だな」
振り返ったジルがベッドを軋ませ、アズライトの顔を跨ぐように片手を付いた。愉快そうに細めた目に見下ろされ、アズライトは全身を熱くする。
「俺は子犬じゃねぇ!」
「じゃあ、なんだよ。誘ってんのか?」
ジルの筋張った手がアズライトの首に触れると、ひやりと冷たい指先が滑る。熱くなった肌には刺激的なその体温に、アズライトは息を呑んだ。
「お前の血より、女の血の方が美味いに決まってるだろ」
「……だったら吸うなよ」
眉間に皺を寄せて睨むアズライトにはお構いなしに、ジルの手は首から服の中に忍び込み、アズライトの肩を撫でた。
「そうしてやりたいが……今はお前の血が欲しい」
低い声に耳元で囁かれ、アズライトはぴくりと身体を反応させた。逃げるように顔を背ければ、ジルの唇が血脈にそって肌を這う。どくどくと脈打つ鼓動はアルコールによるものか、やけに頭に響いてアズライトを困惑させた。
熱い息が首筋を擽ると、鋭く尖った牙の先が、アズライトの皮膚をゆっくりと突き破る。深く埋まる牙は痛みと熱を引き連れ、血を啜る生々しい音が鼓膜を揺らす。
何度経験しても慣れることのない感覚に、アズライトは小さく呻いた。肌を貫く痛みを抜けると、残るのは抗うことのできない熱だけだ。身を委ねたくなるような酩酊感が押し寄せ、すべての思考を奪い去っていく。
これが本来のジルの吸血なのだと気付いたのは、つい最近のことだ。痛みと恐怖だけを与える獣のような捕食とは、まるで違う。
牙が抜ける瞬間すら名残惜しいと感じさせる行為を、アズライトは悔しく思う。その感情が顔に出ていたのか、アズライトの首から顔を離したジルは蠱惑的な笑みを浮かべた。
「なんだよ、なにが不満だ?」
「……っ、は、待てって……今、触んなっ……」
「じゃあ勃たせんなよ、気になるだろ」
平然と言いながらジルは唇に付着した血を指先で拭い、アズライトの膨らんだ下腹部をズボンの上から撫であげた。
性への興味も経験もない
漏れる吐息を堪えようと唇を噛んだアズライトの顔を、ジルは赤い瞳で覗き込む。
「……アズライト。ひとつ、質問に答えてやる」
どこか甘やかすような声音に、アズライトは目をあげた。ジルに初めて名前を呼ばれたのだと気付いて、身体の中心が無意識に疼く。
「俺はお前と違って暇じゃない。俺が留守の時は、仕事をしていると思って我慢しろ」
「……仕事? 女のとこじゃねーの?」
「俺が毎晩女を貪りに行ってるとでも思ってたのか」
「思ってたよ、女の匂いさせてりゃ思うだろ普通」
「妬いてるのか? 犬は嫉妬深いな」
「妬いてねえよ! 自惚れんな!」
顔を真っ赤にして否定すると、アズライトは疲れたように大きく息を吐いた。興奮すると酔いが回って、視界がぼやける。
どのみちジルとやり合ったところで、口でも力でも敵わないのだ。すべてが面倒になって、強張っていた全身の力を抜く。
「もう、なんでもいいから……触ってくれよ。お前に触られんの、気持ちいい」
睫毛を伏せて吐息混じりに声を漏らせば、ジルの乾いた笑いが降ってきた。顎を掴まれ、煌々と妖しく光る赤い瞳に射抜かれる。それが捕食者の目だと気付いたところで、すべてが遅い。
「言ったよな、仕事だって。渇くんだよ、そういう夜は」
ジルの手がズボンの中に滑り込むと、アズライトは
「ワインじゃ満足できない分は、お前が満たしてくれるんだろ。アズライト」
乱れた呼吸を飲み込むと、アズライトはぎゅっと瞼を閉じた。ジルの捕食の本能が、再びアズライトの首筋に熱く冷たい牙を剥く。
普段とは少し違う、珍しく余裕のない吸血鬼の捕食は、痛みを伴いながらも意外なほどにアズライトの心を満たしていった。
──酒のせいだ、なにもかも。
酔いが醒めるほどの痛みと快感を味わいながら、アズライトは初めて抱いた感情を慣れない酒のせいにして、この夜の中に閉じ込めることにした。
酔い闇に秘密をひとつ 宵月碧 @harukoya2
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