episode.2


 広いリビングの壁に掛けられた時計の秒針が、規則的な音を鳴らして時を刻む。

 暖炉の前に置かれたローテーブルを囲むいくつかの椅子の中で、アズライトは本を手に一番大きなソファの真ん中に座っていた。

 顔の前に厚みのある植物の図鑑を翳しながら、気の強そうな眉毛を悩ましげに寄せ、その視線は本ではなく壁の時計を睨んでいる。


「アズライト、本が逆さまですよ」


 背後からビオラに指摘され、集中していたアズライトは驚きに肩を跳ねさせた。


「わ、分かってる、わざとに決まってるだろ」


 慌てて逆さまの本を正しく戻し、ソファの上で居心地悪そうに胡座を組んで座り直した。バラの写真が載った本のページに目をやり、ずっと読んでいたとばかりに文字を追う。


「アズライト、ご主人様がお帰りになりましたよ」


 ビオラの言葉に、アズライトは本から顔をあげた。深夜二時を指す時計を確認したあと、開いた窓の方を見て耳をそばだてる。虫の鳴き声が聴こえるばかりで、人の気配も物音もしない。


「ビオラ、本当に帰ってきたのか?」


「ええ、もうそこまで」


 ビオラはそう言うと、廊下へと続くリビングのドアを開いた。


「お出迎えしないんですか、アズライト」


「なんで俺がそんなことするんだよ」


「待っていたじゃありませんか」


「別に待ってない」


「そうですか」


 それ以上追求することもなく、ビオラはこの屋敷の主人を出迎えるためリビングを後にする。

 残されたアズライトは持っていた本を投げ出してソファから下りると、こそこそと廊下を覗き見た。玄関ホールの方から男の低い声が聞こえ、離れていても漂う煙草の臭いに顔をしかめる。


 男の革靴の音がこちらに近付いてくるのが分かると、アズライトは急いでソファに座り直した。投げ出した本を手にして、顔を隠すように眼前に翳す。


 リビングのドアが開くと、煙草の臭いが濃くなった。この屋敷の主人であるジル・フォードが、当然のように火の付いた煙草を手に室内に入ってきたからだ。


「……臭えんだけど」


 本から目だけをあげ、アズライトは不満を男にぶつける。


「なんだ、居たのか」


 ジルは白々しい言葉でアズライトを一瞥すると、煙草を口に咥えてスーツの上着を脱いだ。夏の間も外出するときは常に真っ黒なスーツに身を包んでいたジルは、その黒ずくめな見た目と長身のせいか近寄りがたい威圧感がある。額から後ろへ撫でつけた髪も黒く、獣のように鋭い瞳は黒曜石を思わせる。左耳のピアスだけが気休めのように銀の艶めきを放っていた。


「うわ、なにすんだよ!」


 ジルが投げて寄こした上着がアズライトの視界を遮ると、苛立ち混じりにすぐさまそれを投げ返した。床に落ちた上着をビオラが拾い上げ、大事そうに腕に抱える。


「本読んでんの見れば分かるだろ。邪魔すんなよ」


「逆さまだぞ」


 無表情で一言返して、ジルはひじ掛け椅子に腰を下ろした。気怠げにネクタイを外しながら背もたれに身体を預け、煙草の煙を吐き出す。


「ビオラ、ワインを頼む」


「かしこまりました、ご主人様」


 灰皿をテーブルに置いて、ビオラは一度リビングを出て行く。

 アズライトは逆さまになっていた本を直し、赤くなった顔を本で隠しながらこの屋敷の主人を再び睨み付けた。目付きはすこぶる悪いが、顔が異様なほどに整っているこの男は吸血鬼だ。魔女が亡くなったあとに突然アズライトの前に現れ、屋敷の所有権を主張してここに住み始めたのだ。


 目付きも口の悪さも最悪だが性根はそこまで悪くないようなので、アズライトはしぶしぶ男をこの屋敷の主人と認め、一緒に暮らしている。夏が始まる前に出会ったが、そろそろひとつの季節が終わるころだ。それなのにアズライトは、この男が夜毎よごとどこに出掛け、何をしているのか未だに知らない。


 口を開けば腹立たしいことしか言わない男のことなど気になってはいないと、アズライトは自分に言い聞かせている。


「俺がいない間少しは利口にしてるのか、犬っころ」


「お前がどこかで野垂れ死んでることを毎晩神に祈ってるよ、クソ吸血鬼」


 ふんと鼻を鳴らして笑うと、ジルの冷ややかな視線がアズライトに向く。吸血鬼のジル・フォードは、教会だの神だのというものが嫌いなのだ。


「祈るのは勝手だが、墓の前でぴーぴー鳴くのはいつになったらやめられるんだ?」


 お返しとばかりにジルが口にした言葉に、アズライトは目を丸くした。


「なんだよそれ、ビオラに聞いたのか」


「いや? カラスが噂していたぞ。狩りの相棒に馬鹿にされて、恥ずかしくないのか」


 ジルは狼とカラスの相互関係を知っていて揶揄しているのだ。怒りと羞恥に任せて言い返そうとアズライトが口を開いたところで、いつの間にか戻ってきていたビオラが氷の入ったバケツ型のワインクーラーをテーブルに置いた。


「こちらでよろしいですか、ご主人様」


「ああ」


 ビオラはワイングラスをジルの前に置くと、アズライトの前にはオレンジジュースの瓶とグラスを置いた。


「アズライトはこちらでよろしいですね」


「うん。ありがとう、ビオラ」


 出かかっていたジルへの暴言を飲み込み、アズライトはビオラに礼を言う。するとそれを見ていたジルが、くくっと喉を鳴らした。


「……ガキだな、ほんと」


「あ? なんだよ、悪いかよ」


「別に悪くない。乳離れしたばかりのお前にはちょうどいい」


「乳離れって……俺はもう二十年生きてるぞ!」


「だから、ガキだろ」


「そういうてめぇはいくつなんだよ!」


 喚くアズライトを無視してジルは短くなった煙草を灰皿に押し付けると、ワインクーラーからワインを取り出した。ビオラからソムリエナイフを受け取り、慣れた手付きでワインを開ける。


「ガキじゃないなら、お前も飲んでみるか?」


 ジルからの思わぬ誘いに、アズライトはワインを見た。


「ご主人様、アズライトはお酒を飲めません」


「ビオラ、余計なこと言うなよ。酒ぐらい飲める」


 ビオラは困ったように肩を竦めて見せたが、それでもアズライトの言葉に応えるようにもうひとつワイングラスを用意した。


 ジルにワインを注いでもらい、グラスの中の真紅の液体を眺める。アズライトはワインを飲んだことが一度もなかった。魔女が生きていたころにジュースのような酒を飲ませて貰ったことはあるが、「もうお酒はやめなさい」とたしなめられてからは一度も飲んでいない。実のところ、ずっと飲んでみたいと思っていた。ブドウジュースのようで美味しそうだからだ。


 すんすんとワインの匂いを嗅ぎ、グラスを口に傾ける。恐る恐るほんの少しだけ口に含み、アズライトはすぐにうえっと顔を歪めた。ジュースでないことは間違いない。


「ガキにはまだ早かったか」


「俺はガキじゃねえ」


 言い返すなりアズライトは一瞬の躊躇いののちグラスを呷ると、中身を一気に飲み干した。


「どうだ、まだまだ飲めるぞ」


 得意げに空になったワイングラスを突き出しておかわりを要求するアズライトを見て、ジルは眉をひそめる。端正な顔に呆れの色を滲ませ、深い溜め息を吐き出した。


「……お前に高価なワインはもったいないな」


 呟きながらもアズライトの差し出したグラスに再び真紅のワインを注ぎ入れると、ジルは自らのグラスも赤で満たした。

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