酔い闇に秘密をひとつ
宵月碧
episode.1
長く伸びる狼の遠吠えが、夏の夜の静寂を裂いて小高い丘の上に響き渡った。人工的な明かりのない丘の上の墓地を照らすのは、夜空にぽっかりと浮かぶ丸い月だけだ。
平板状の墓石の前で、一匹の狼が遠吠えを繰り返す。遥か遠くの仲間にまで届きそうなその声が、主人を喪った悲しみの遠吠えであると気付けるものは近くにいない。涙の代わりに叫ぶ悲痛な鳴き声に、応えてくれる声はない。
気が済むまで繰り返された遠吠えはいつしかぴたりと止み、いつもと変わらぬ静かな夜が戻ってくる。灰色の毛に覆われた狼は項垂れるように頭を下げ、とぼとぼと丘を下りはじめた。
見渡す限りを牧草の緑に埋め尽くされた田舎道は、狼にとって慣れ親しんだ自宅へと続く道だ。日中は牛や羊が草を食む姿を確認できるので、狼の遠吠えを聞いた近くの住人は驚いているかもしれない。
過去には水道橋であったかのような古い石造りのアーチを抜け、大きな屋敷にたどり着く。年季の入った古い屋敷は壁にいくつもの蔦が伸び、くすんだ赤い屋根には所々苔が張り付いている。
明かりの灯る敷地内に狼は当然のように足を踏み入れると、玄関扉の前で座り込んだ。扉を見つめて吠え声ひとつあげずに数秒待てば、内側から玄関の扉が開かれる。
「おかえりなさい、アズライト」
室内の明かりを背に狼を出迎えたのは、メイド服姿の少女だ。足首まである黒のワンピースに白いフリルエプロンを身に着け、肩にかからない艶やかな黒髪を綺麗に切り揃えている。
彼女の名はビオラ。まだ十代後半ぐらいの見た目をしているが、この屋敷のたった一人の使用人であり、屋敷の管理のすべてを担っている。
彼女に名前を呼ばれた狼のアズライトは尻尾を数回横に振って室内に入り、ビオラが扉を閉めている間にその姿を変貌させた。
「少しは気分が晴れましたか、アズライト」
振り返ったビオラの前には、狼と入れ替わるように全裸の青年が一人その場に立っていた。狼の毛によく似た灰色の短い髪は少し癖があり、同じ色の眉毛が眉間に皺を作る。
「……まあ、少しは」
素っ気なく返した青年の琥珀色の瞳には、涙を堪えた痕が僅かに残っていた。彼が月夜に繰り返した遠吠えを、ビオラは屋敷から聞いていたのかもしれない。
アズライトは人狼だ。彼は自らの意思で狼の姿にもヒトの姿にもなり替わることができる、人ならざる者。三ヶ月ほど前まで魔女の使い魔だったアズライトは、屋敷の持ち主であった魔女が亡くなってからもこの場所に留まり、今は屋敷の新しい主人と共に暮らしている。
魔女を本当の家族のように愛していたアズライトにとって、彼女を喪った悲しみは計り知れない。普段通りに生活していても、時々荒波のように苦しみが押し寄せ、会いたくて堪らなくなるのだ。
今日はまさにそういう日だったので、魔女の墓石の前で叫ばずにはいられなかった。
「ご主人様はまだ戻られていませんよ」
ビオラはそう言って、手にしていた衣服をアズライトに渡した。シルバーのネックレスしか身に着けていない裸のアズライトを気にするでもなく、平然とした様子だ。
「……なにも訊いてないだろ。どうでもいいよ、あんな奴」
「いつもご主人様のお帰りを気にしているではありませんか」
「はあ? 気にしてるわけないだろ」
事実だけを述べる口調のビオラにアズライトは顔を赤くすると、素早く服を着て逃げるように廊下を歩き出した。
「ビオラ、腹減った。肉食べたい」
後ろを付いてくるビオラを振り返り、誤魔化すように夜食を要求する。アズライトは食欲旺盛だ。夕食はすでに食べていたが、数時間もすればあっという間に腹が減る。
「すぐに用意しますよ、アズライト」
面倒臭がる素振りなど一切見せず、ビオラは頷いた。玄関ホールに置かれた振り子時計が、ちょうど十二時を報せる音を屋敷内に響かせていた。
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