敗戦、惜別の後に儚く

縦縞ヨリ

帰還

 一九四六年十二月、松戸。矢切の渡しの船着場にて、男は外套をかき合わせた。

 黒々とした江戸川。こんな時間では跳ねる魚も居はしない。

 時刻は夜の九時を回り、船はとうに終わっている。朝まで待つより他あるまい。

 十二月の冷気は、まるで無数の小さな針が刺さるように男を責める。体の芯まで刺さり、そのうち心臓まで凍らせてしまうかも知れない。

 いや、いっそそれでも良い。

 もうじき年も暮れる。こんなに冷えるのに、心はまだあの蒸し暑く青い空の下にいる。

 ここまで来る道すがら、男は小さな寺に足を運んだ。夜だったが幸い門は開いており、閉じた堂に向かって、随分長い間手を合わせた。どんなに祈った所で足りる訳も無く、しかし必死に祈った。 

 申し訳ない。置いてきて申し訳ない。見殺しにして申し訳ない。


 男は星空の下で土手に座り込み、白い息を吐きながら対岸を眺めていた。下町は空襲で焼けて酷い有様であったが、それでも葛飾のあたりはまだマシな方で、人々の生活する明かりが瞬いている。

 戦時中は窓に紙を貼って光が漏れぬようにしたものだが、もうそれも必要無いのか。

 自分ばかりが未だ、あの地獄に魂を置いている気がする。

 いや、戻ってきたのだ。

 しかし、また……

「もし、兵隊さん、こんな時間に船はありませんよ」

 声をかけられ顔を上げると、背の低い中年男が一人、懐中電灯を片手に男を見下ろしていた。歳の頃は四十半ばだろか。半纏を着込み、半ば禿げた頭で、目を丸くしている。

「朝一番で乗ろうかと」

「東京に行くんですかい?」

「……お恥ずかしながら、親戚を頼るのに神奈川まで行くのです、こんなですから、仕事が無くて」

 掲げた腕には左手が無かった。

「そりゃあ難儀でしょう、良ければ一晩お泊まりになりませんか? すぐ近くですから、朝一番に出たら良い」

 男は数秒考えて、低い声で、

「……助かります」

と言った。立ち上がると上背は高く、土埃で汚れた外套の下に軍服。

 帰還兵だ。

「千葉にご親類が?」

「……いや、居たのですが、もうどこかに越してしまった様です。当てが外れました」


 矢切の渡しから土手を幾分歩いた所に男の家はあった。

 がらりと引き戸を開けると、女房であろう女が出迎えた。女は一瞬目を見開き、何かを言おうと口を開いたが、声にはならなかった。

「おい、飯の支度をしてやれ。今晩泊まってもらうんだ」

「……はい、どうぞ、お上がりください」

 女は何か言いたげだったが、早々に中に引っ込んでしまった。

「兵隊さん、狭っ苦しいですが、どうぞ」

「……どうも、……随分年の離れた奥さんですね」

「いやあ、縁談がありましてね。前の旦那は戦争で死んじまったんですわ……おっと、失敬」

 男は少し俯き、

「いいえ、お気になさらず」

と小さく呟いた。

 

 隙間風が吹き込む小さな家だったが、寒空の下よりは余程温かい。

 大根と白菜を煮た汁物に麦飯、沢庵。なんて贅沢なんだと男は思う。

 あの暑い島で、飢えと雨のような銃撃の最中、木の皮までも齧ったのが嘘のようだった。

「どちらに行かれたんですか?」

 中年の男は不躾な目線で、ジロジロと男を見る。軍服は破け所々繕いがあり、洗っても流れぬであろう染みで薄汚れていた。

「レイテに」

「そりゃあ……良く戻って来られましたね」

 ガタッと台所から音がする。女房が何か落とした様だ。

「……ええ、仲間には申し訳ない限りです……」


 女房が仏間に敷いてくれた布団で、男はじっと天井を眺めていた。明日朝一番で船に乗り、先ずは東京へ。とにかく千葉を離れて逃げねばならぬ。

 ……何処へ?

 路銀はある。しかしこの先身分を隠しながら、この腕で働ける場所はあるのか。

 いや、それよりも、捕まるのを覚悟で靖国に行きたい。戦友の為に少しでも祈りたかった。


 ぼうっとしていると、破けた襖がからりと開く。見れば、寝巻きの女房が細く襖を開けて、忍び込む様に部屋に入ってきた。

「こんな夜更けに、何のつもりですか」

 女房は夫に比べて随分若かった。三十前後かも知れない。男より少し年下だろうか。

 暗闇の中で、白い肌と、うっすらと潤んだ瞳が月明かりに照らされていた。

 女房は背後を気にしながら、息を殺し、酷く小さく、蚊の鳴くような声で言った。

「……申し訳ございません、今すぐ窓からお逃げください、あの男は夫ではなく強盗なのです」


 女は言った。

 あの男は強盗で、矢切の渡しに乗り損ねた旅人を誘い込んではもてなし、女に夜這いをかけさせて、寝入った所を襲って殺してしまう。

 客が深く眠れば女が合図をして、男が忍び込み首を絞めて、路銀を奪うのだ。


「……どうして、私に教えてくださるのですか」

「私の、……私の夫もレイテで潔く玉砕されました」

 男は目を見開いた。

 閉じた仏壇。

 骨は戻ってこなかったのだろう。

 当たり前だ、殆どの戦友は砲撃と銃弾に倒れ。我々は僅か数隻の船で逃げ延びた。

 船は全く足りなかった。途方もない数の仲間が死んでいった戦火の中、何とか生き残った中でも二千人もの戦友をレイテ島に残し、我々は生き延びてしまった。

 八万人もの戦力のうち、本土に戻れたのは僅か数千人。島に取り残されたものは皆死んだ。

 そう、見殺しにしてしまったのだ。

 そして、見殺しにした仲間が上げてくれた狼煙を頼りに方角を見定め、逃げ延びたのだ。


 男は声をなるべく潜めた。まるで野戦の夜のように、静かに問う。 

「……あなたは、どうしてあの男と?」

「……強盗に入られて、そのまま居座られています。もう何人も殺しています……わたしも共犯ですから、逃げられないのです」

「そうでしたか……」

 男はゆっくりと身を起こした、一つ残った右手で、少ない荷物をゴソゴソと漁る。持っていたのは剣だった。銃剣の切っ先。片手で器用に鞘を外すと、月明かりに反射して、僅かに赤く見える。

「一人殺すも、二人殺すも違いありません。そもそも、島で何十人も殺しました」

 女は息を飲んだ。男の目は血走り、爛々と光っている。まるでここが戦場であるかのように、鋭く、獣の様な目だ。

「……一人?」

「須和田の実家に帰ったのです……年の離れた妹がね、私より先に戻った帰還兵の男に付きまとわれた挙句、乱暴されました」

 男はじっと窓の外を見ている。女も視線を辿り、空を見た。

 月は輝き、雲一つない星空だった。満天の星。その一つ一つに魂が眠っているような気がした。

 あの人もあの星空に居るのかしら。

 女はこの男を招き入れた時、夫が帰って来てくれたのだと思った。

「両親がなだめていましたが、妹は心を病んでしまって、泣きじゃくるばかりで外にも出られない。あの男が居る限り、生涯穏やかには暮らせない。だから殺しました。なに、一人くらい増えた所で私としては何も変わりなかったのです。不思議ですね、レイテではなるべく沢山殺さなきゃならなかったのに、本土では一人殺したら捕まってしまうんです」


 女は娼婦だった。

 夫が居なくなり、残してくれた小さな畑と、僅かな内職と、売春で何とか生計を立てていた。頼る親族も無く、女一人で生きる為にはそうするしか無かった。

 いつか夫が帰ってきて、私が男を取っていたと知ったらどんなに怒るだろうか、悲しむだろうか、怒り狂って私を叩き出すだろうか。

 それとも、済まなかったと抱きしめてくれるだろうか。

 訃報はとうに届いていたのに、そんな事を夢に見ながら、矢切の渡しに乗り損ねた旅人を手招き、一晩泊めて色を売った。仏壇は閉じたきり絶対に開けなかった。夫が中に居るようで、開けられなかった。

 そうして、あの中年男が来てしまったのだ。男に脅されるまま、強盗殺人に加担する様になった。

 女は咎人だった。

 もしも夫が帰ってきても、もう抱きしめては貰えないだろう。

 そう思っていた。


「私は須和田には帰っていない事にして、妹に付きまとっていた男を刺殺しました。なんとも思わなかった。今も何の罪悪感もありません。それよりも、あなたの旦那さんをレイテに残して来てしまったのがよほど悔しい。本当に申し訳ございません」

 男は一息に言い振り返ると、深々とこうべを垂れた。

 女はふるふると首を振った。ここまで話して、自分が娼婦だとはどうしても言えないのが心苦しかった。

「お名前を、教えてくださいますか?」

「……松崎宗一と申します」

 女は声を殺し、必死に懇願した。

「松崎様、助けてくださいとは言いません、私も強盗殺人に加担した女です……でも、一つだけお願いがございます」

 夫は帰ってこないのだ。この人を逃がしたら私もきっと口封じに殺して、あの男は逃げるだろう。もう明日死んでも良いから、一つだけ叶えて欲しいことがあった。

 夜の闇は静謐で、窓を背に佇む松崎の顔は影が差している。

「……少しだけ、ほんの少しだけじっとしていてください」

 か細い腕が、松崎の背に回る。

 恐る恐る抱きしめた身体は細く固く筋肉がついていて、服からは微かに血の匂いがした。匂いまでもが、きっと玉砕した夫に似ている。

「あなた、お帰りなさい、お帰りなさい……」

 力強い腕が、ぎゅっと抱き締め返してくれた。

 涙が溢れて、汚れた軍服を濡らした。

 明日じゃなくてもいい。今死んでしまってもいいくらいだ。

 

「……ただいま。苦労をかけたね……もう大丈夫だ」

 

 耐えられず、女はわっと声を上げて泣いた。途端、がらりと襖が開く。

「この糞女クソアマが! 何を騒いでやがる!」

 一瞬だった。

 松崎は女をとんと突き飛ばすと、次の一呼吸で間合いを詰め、中年男の持っていた包丁を剣で一閃した。カーンと高い音が響き、暗闇に小さな火花を上げながら、包丁が月明かりを反射して宙を舞う。

 それが畳に落ちる前に、松崎はなんの迷いも無く、切っ先で男の喉を突いていた。

 ゴボゴボと血の泡を吹きながら中年男が倒れるのを、女は悲鳴を上げる事も出来ずに見ていた。

 松崎は吹き出す返り血を浴びながらも、強盗が事切れる様をじっと見下ろしていた。


 一体どれだけ時間が経っただろう。ほんの少しかもしれないし、何十分も見ていたようにも感じる。

 息を飲んでいた女に、松崎がゆっくりと振り返る。その目は思いの外穏やかで、先程までの爛々とした輝きが嘘のように静かだった。

「……荷物の中に幾らかある。一食一晩の礼だ、好きに使ってください」


 松崎はその後、早朝土手を血塗れで歩いている所を、通報で駆けつけた警官に逮捕された。

 女は松崎が転がり込んでいた強盗を殺してくれたのだと必死に証言したが、肝心の松崎がそれを認めなかった。むしろ自分自身が強盗の目的で民家に入ったと言い切った。

 女の証言で中年男の被害者の遺体も探されたが、夜のうちに江戸川に捨てられたそれはとうに海に流されてしまったのか、結局一人も見つからなかった。

 松崎については、後に須和田の事件も明るみに出て、その後二件の殺人で起訴され死刑判決となった。

 家族も恩赦を願ったが叶わなかった。

 松崎宗一は独房の中、死刑執行のその日まで、共に戦い死んでいった戦友の為に、一つきり残った右手で写経を続けたと言う。


 首に縄がかかる。

 妻を助けていただいて、ありがとうございました。

 いいえ、あなたの奥様の心に触れた事で、私の心も本土に帰って来れたのです。真に救われたのは、私の方なのです。




 松崎軍曹がいらした!

 良く気張りおったなあ!

 ようやった、ようやった。

 さあさあ、積もる話もある!

 今夜は皆で呑もうじゃないか!

 

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