ep.3 初雪の日に

 カーテンの隙間から、指で窓をなぞる。すると、指先から線上に窓の曇りが消え、そこからリネンのシーツのように真っ白な世界が現れた。どうやら雪が降ったらしい。

 朝なのに薄暗いからと照明をつけてから、その景色を覗いた。個室の窓越しに伝わる冷気に、時折歓声が混じる。手のひらも使って窓ガラスをさらに拭くと、木の葉のように軽やかに舞う深緑色のコートが見えた。看護婦だろうか。実際その中には、ライラと思しき焦げ茶の髪も見受けられる。

「イザベラ」

 ふと、しわがれつつも凛と張った声が、彼女の名を呼んだ。それに従うように、窓から室内に顔を向ける。するとそこには、カップが二つ乗ったトレーを持つカルヴァン婦長が立っていた。

「おはよう。寒いだろう、温まるものを持ってきたよ」

「わざわざありがたいね」

 カタン、と銀のトレーが音を立て、ベッド脇のテーブルに置かれた。それとともに、カッブを満たす、濃い赤紫色の液体が揺れる。イザベラは、思わずそれを覗き込んだ。

「葡萄酒じゃないか。病人に酒とは、ライラに見られたら大目玉を食らいそうだ」

「これは薬だよ。良薬が必ずしも苦いとは限らないのさ」

 そう言ってのけた婦長は、ふっと口元をゆるめてイザベラにカップを手渡す。それを片手で受け取ったイザベラは、病院服越しの肩をすくめた。

「老獪だな、お前は」

「そうでないと、婦長なんざやってられんよ」

 湯気を立てる葡萄酒は、十二月の折り返しを迎え入れた部屋をじんわりと暖めていく。その熱を感じながら、イザベラは再び窓へ視線を向けた。また曇っていたから、カップと反対の手で拭う。

「ただ……、今日であれば、ライラも許すかもしれんな」

 そう呟いた部長にイザベラは無言で視線を送った。その首筋を、青紫がかった黒の髪がなぞる。婦長は一口葡萄酒を飲んでから、近くにあった木製の椅子に腰かけた。

「ヘイズワース療養所では、初めて雪が降った日の夜に、患者全員へ特製スープをふるまうんだ。患者には、雪の寒さはことさら堪えるからね」

 葡萄酒はよく温まっており、飲むたびにまろやかな酸味と、スパイスのぴりぴりとした辛みを感じる。イザベラは、下半身を覆う掛け布団を引き上げながら、婦長の話を聞いていた。

「しかし、それをやるには看護婦は一苦労さ。いつもより多くの肉や野菜を切ったりで人手も要る………」

 特製スープの想像をふくらませる。たっぷりのブイヨンで野菜を煮込み、口に含んだ瞬間にほろりと溶ける、優しい味。 婦長が一旦カップを置く。そして、黒い衣服の中から新しい包帯を取り出した。

「だから、今日はお前の看護をライラではなく私が担当する。足が悪くなってから、私にスープ作りはどうもきつくてね」

 しわだらけの細い指が、丁寧に包帯を巻いていく。イザベラの傷はすっかり良くなっていたから、これは入れ墨を隠すためのものだ。「もうじき退院できそうですね」と、少し前にライラも言っていた。

 窓の外では、看護婦たちが雪玉を投げ合っては笑っている。男性や老人も混じっているから、おそらく患者も加わっているのだろう。先程よりも随分と賑やかだった。

「 ライラたちは何をやっているんだ?」

 と聞くと、婦長は苦笑いする。

「見ての通り、看護の名目の下に遊んでいるのさ。ああしているから、午後にスープ作りを担当する子たちは毎年、調理前からへばっているよ」

 溜め息をつきつつも、婦長は窓の外を穏やかな目つきで見やっている。

「今日は忙しい日ではあるが、同時にあの子達にとっては楽しい日でもあるんだよ。雪遊びができる。多めに作れば、患者にふるまった美味しいスープの余りを食べられる」

「そうか……」

 夜の浜辺の光景が、ふとイザベラの脳裏をよぎった。十一月の終わり、ライラとともに療養 所を抜け出した時の光景。

 裸足で砂の上に立ったライラは、「人間に看護をされた人間だ」と言った。あの時見えた、硬い覚悟を芯に据えた大人の顔と、真っ白になりながら雪玉を投げ、子犬のようにはしゃぐ子供の顔。同じ少女のものなのに、それは別人のようにも見えた。

 ふと、カサッと音がして、直後何かが頭にぶつかる。痛みはないが思わず辺りを見回すと、掛け布団の上には、くしゃくしゃになった白い紙があった。

「何だこれは」

「何って……雪玉だよ」

「もう酔ったか」

 そう言いながら、イザベラはボール状の紙を拾い上げる。そして、ちらりとライラたちの方を見やった。

「雪で遊んだことはあるか?」

 婦長が聞く。少し冷めた葡萄酒をすすって、イザベラは首を振った。

「遊ぶという発想が無かったよ。雪は火をかき消すから、むしろ嫌っていた」

 黒い瞳が、静かな憂いに濡れ光る。イザベラは、しばらく眉をしかめたまま紙の玉を見つめていたが、やがてそれを投げ返した。婦長はかすかに口角を上げると、すぐに玉を放り投げる。

 しばし続く、雪玉の応酬。その音は、外で響く歓声とゆるやかに混ざり合っていく。

「意外と、狙い通りに当てるのは、難しい……」

「 ああ……そんなところに投げるな。全く、私の足を労ってほしいね」

「始めたのはお前だろう」

 双方がじわじわと疲れたところで、休憩代わりに葡萄酒を飲む。ゆっくりと染みていく風味を舌で味わうと、ふっと口元がほころびて、「美味い」と独り言が漏れた。

「雪とともに楽しむ酒は、案外悪くないな」

「 そうだろう?」

 婦長がどこか自慢げに返し、目を細める。二人ともちびちびと飲んでいたが、ついにカップの底が見え始めていた。 窓からは、やっと高度を上げた太陽の光が入り込んでいる。

「もう一杯くらいなら、構わないか?」

「やめておけ。適量でなければ、薬は毒に変わるからな」

「……仰せのままに、婦長」

 不満は残りつつも、それを飲み込んで返答するイザベラ。二人分のカップをトレーに戻しながら、婦長は思わず苦笑した。

「だだっ子のような顔をするな」

 イザベラは、白い雪玉を手でこねくり回しながら婦長を見上げた。

「わかったよ」

 窓の外を見る。外の気温が少しずつ上がっているらしい 。窓ガラスの曇りは数粒の雫と化し、線状の痕を残しながら流れていた。

「何かあれば呼んでくれ。私はこれから病棟に行く」

 年季の入った黒い衣服が遠ざかる。それをぼんやり見送っていると、ふと婦長は足を止め、扉の前でくるりと振り返った。きちんと結われた白髪に、照明の色が淡く投影されていた。

「酒の代わりとは言わんが、スープをライラに運んでもらうよう、既に頼んである。夜を楽しみにするといい」

 鳶色の瞳が、まっすぐイザベラを見据える。それから、婦長は体の向きを元に戻した。

「お前も、ヘイズワース療養所の患者の一人だからね」

 扉が開く。婦長は素早く室外に出ると、冷たい風が入らぬうちにさっと閉めた。滑らかな動きだった。

 しんと静まり返る部屋。ブーツの音が遠ざかっていくのを感じながら、イザベラはベッドに身を倒した。ぼす、と音を立てて、その体を受け止めるリネンのシーツ。婦長を照らしていた明かりが、視界の真正面に現れた。

「あたたかいな……」

 血潮が体の中でゆっくりと巡るのを感じながら、イザベラは呟く。

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ファンタジー連作「残光」 市枝蒔次 @ich-ed_1156

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