ep.2 残り火

 新聞の訃報欄に、見知った名前があった。「ブルーベル・J・バーバリー」。声には出さずに、何度かその名をくり返す。

『ブルーベル・J・バーバリー/子ども向け小説の作家(1801〜1858)』

 トンネルを出ると、黒い煙が少しずつ晴れていく。蒸気機関車は、ウォリック駅を目指して順調に進んでいる。機関車を降りたら駅馬車に乗り換え、ヘイズワース療養所へ向かう手筈だと、手紙には書かれていた。

 びん底のように厚いガラス窓の向こうには、背たけの低い木々。自然に生えたものなのか、それとも誰かが植えたのか。そんなことを考えているうちに、木々は遠くへと去ってしまった。どこかから、子どものはしゃぐ声が聞こえる。戦争が終わって一年。あの子たちも、地獄を見たのだろうか。

 新聞をひざの上に置く。誰かが座席に忘れていった新聞。機関車が揺れる。その振動で、ほつれた髪が視界に入る。黄金色の髪。すぐ絡まってしまうから、私はこの髪があまり好きではなかった。

 バーバリーがどうして死んだのか、その理由は書かれていない。他の記事に押されるようにして、ひっそりとその名は記されている。タイプライタ―によって、数秒で打ち込まれたであろう彼女の名前を、何度か指でなぞる。そして、おもむろに新聞の端へ手を伸ばすと、そこからおもいきり破いた。

 質の悪い紙は、ビリ、といやな音を立てて破れると、ついに紙片となって、指と指の間におさまる。座席から立ち上がり、がたついた窓を少しだけ開ける。そして、バーバリーの名が記された紙片を、その隙間から外へと放った。

 頼りなく身をひるがえした紙片は、すぐに外の風に巻き上げられ、後ろへと流されていく。もう窓からその姿は見えない。私は一息つくと、再び同じ席に座った。向かいの客がけげんそうな顔で私を見るのに、気づかないふりをしながら……。



 療養所の副婦長は、改札で待っているという。周りは人で溢れていたけれど、彼女がどこにいるのか、私はすぐにわかった。一本のカラマツの木のようにしなやかで、それでいてどこか寂しい雰囲気の人。その姿は、手紙の筆跡とよく似ていた。

「私はコンスタンス・カルヴァン。療養所の副婦長だ」

「初めまして、副婦長。マギー・カーチスです」

 駅馬車が、ガラガラと音を立てて目の前に止まる。手を借りて馬車に乗ると、隣に座る副婦長は、鞄から出したストールを肩にかけてくれた。まだ寒さの残る頃だからだろう。そういったささやかな仕草から、彼女が看護婦であるということや、私がじきに看護婦として働くのだという実感が湧く。

 カラカラと音を立てて進む駅馬車からの退屈な景色を、ただ眠ってやり過ごす。そうしていると、あっという間にヘイズワースへ到着していた。副婦長に促されて駅馬車を降り、入り口の階段に足を駆ける。靴裏をなぞる、ざらついた石の感触。扉を抜けると漂う、消毒液の匂い。

 私は昔から、病院の匂いが好きではなかった。あまりに子どもじみた理由だ。だからといって、戦後まもなくで身寄りのない私が、やっと見つけた働き口を断るはずがない。大人になるということは、自分に残った子どもらしさを、道端の花のように踏みつぶしていく行為なのだと、私は思う。そしてそれはきっと、バーバリーが書いた本を燃やすのに似ている。

「マギー、お前にはこれから、看護婦として働いてもらう。いいね?」

 穏やかながらも鋭い声が響く。私は頷き、胸を手を当てた。

「はい、副婦長」



 昔、私が住んでいたのは郊外の町で、その東にある町には大きな通りがあった。

 立派な石畳で彩られた通りの左右に、大きな本棚のようにみっしりと店が並んでいる。いつでも賑わっている食堂、色とりどりの品が並ぶ土産物屋……。私はその通りが大のお気に入りだった。そこには、本屋や古本屋も軒を連ねていたからだ。

 幼い頃、私はそこでバーバリーの本を買っていた。新刊が出たという知らせを受けるたびに、小遣いを持って両親とともに機関車に乗り、その町へ行ったものだ。本屋自体は私が住んでいた地域にもあったが、本の数も質も高いのは、あそこだけだった。

 私はあの時、通りの一番端にある広場の噴水にもたれて、買ったばかりのバーバリーの新作を読んでいた。両親は二人で買い物に行った。噴水の周りには、座って休憩する親子や、日向ぼっこをしているおばあさんがいた。その時までは、いつも通りの午後だった。

 突然、通りの一角から赤黒い火柱が上がった。「魔女だ!」 誰かが叫ぶ。甲高い笑い声、人々の悲鳴、崩れ落ちる建物の音、火花、炭になった誰かの体、焼け焦げた影、入れ墨……。

 あの本屋も燃えた。その隣にあった花屋も、向かいにあったパン屋も。全てが火の中に包まれた。今でも夢に見る。壊れたバイオリンのような高笑いとともに、建物から毒々しい赤が噴き出す光景を。それが悪魔の舌なめずりのように、辺りを覆い尽くしていく姿を。

 生き残ったのは、広場にいた人々だけだったそうだ。魔女が水場を嫌ったからなのか、真相は知りようもない。ただ、整然と並んでいた美しい通りは、全てがれきの山と化した。煙の立ち昇るそこはまるで火葬場で、知らない場所のようだったことを覚えている。

 そうして、私と新作の本だけが残された。冬の、乾いた日のことだった。



 バーバリーの作品は、幼い私にとって、巨大な世界そのものに思えた。ページをめくるたびに、私には想像のつかない光景が広がっている。ドラゴンが空を飛び、不思議な力を持った者たちが、私を知らない場所へといざなってくれる。新作が出るまでの間は、本棚に並んだ彼女の作品をくり返し読んだ。そのせいで本はすり減り、背中を丸めた老賢者のようにも見えた。

 彼女はあの時代においても、精力的に活動していた。「子どもたちに希望を届けたい」という思いは、私を感動させるに十分だった。本に刷られた彼女の写真を眺めては、彼女と話をしてみたいと願い続けたものだ。

 あの時読んだ彼女の新作のことは、よく覚えている。主人公であるリックという男の子が、不思議な力を使うミーシャという女の子と出会い、冒険する話だ。ミーシャは何でもできる。空を飛んで次の場所に行くことも、何もないところからご飯を出すことも、不思議な生き物を操ってリックを助けることもできる。その力のせいで皆に怖がられているけれど、主人公はミーシャと友達になる。そして、二人は手を取り合い、冒険の旅に出る。

 物語の序盤に、印象的な場面があった。冒険の日、ミーシャがリックを迎えに行く場面だ。ミーシャは夜にこっそり飛んできて、リックの部屋の窓をたたく。そしてリックが窓を開けると、ミーシャはにっこりと笑うのだ。

「やあ、ミーシャ。来てくれたんだね」

「もちろんよ。だって、あなたはたいせつな友だちだもの。何があっても、あなたをむかえにいくと決めていたわ」

 そしてミーシャとリックは、永遠の友情を誓うように、ぎゅっと抱きしめ合うのだ。ページいっぱいに描かれた挿絵の二人は、心の底から幸せそうに笑っていた。かけがえのない宝物を見つけたかのように。その姿にぐっと心をつかまれ、私も抱きしめてもらいたいと思った瞬間、あの忌々しい火が上がったのだった。



「贈り物」を火の中に入れてもらう。海辺に煙の臭いが広がる。ここに来たばかりの頃は、この仕事だけはやりたくないと思っていたけれど、一度慣れてしまえば案外、機械的に終わってしまう。ただ、階段のそばにあるものを拾い、バスケットに入れ、ビルさんに手渡してしまえばいい。その間は、何も考えずに済んだ。人は傷を癒すのではなく、麻痺させているのではないかと、看護婦らしからぬことを考える。

「ライラー」

 そう叫んで手を振ると、ライラのこげ茶色の髪が揺れた。ライラは少しだけ、カルヴァン婦長に似ている。真面目な性格や、いつもどこか寂しい雰囲気をまとっているところや、静かな瞳が。

 私はライラの瞳が、他の人たちとは違うのを知っていた。目の前に広がる海のように凪いでいて、憎しみや怒りとは、どこか別の場所にいる。カルヴァン婦長も同じ瞳を持っていた。私はこれが、看護婦になるために生まれてきた人の目なのだと思っていた。私には持てない目だ。

 ライラは私の声に答え、小走りでこちらに向かう。遠くで、焼却炉の細い煙が見える。私は目を細めながら、ライラの靴が砂の粒できらきらと光るのを眺めていた。

 ライラが目の前に到着すると、私は早速バスケットの中身を見せる。白い巻き貝。すると、ライラは白いルナリアをつまんで見せた。今にも風に飛ばされていってしまいそうな、まるでちぎった新聞の一片のような、頼りない花びらだった。

 私よりも一年早くここで看護婦をしている彼女は、私の先輩であり、友達でもあった。彼女も本が好きなのだという。ベッドが隣だったということもあり、ライラとはよく好きな本の話をした。だからおそらく、バーバリーの本のことも知っていたのだろう。



「その本、本当に燃やしていいの?」

 ある冬の日のことだった。皆がコートの前を合わせながら先を行く中、ライラは私の隣でバスケットの中を見た。

「バーバリー先生の本でしょう?」

 しかも、私とともに生き残った、唯一の存在だ。私は表情が変わらないように気をつけながら、つんと上を向く。

「いいのよ。だってこれは、魔女からの『贈り物』なんだから」

 ライラは、「魔女が本を贈るかしら」なんて馬鹿げた返しをしなかった。その代わりに、澄んだ沈黙をもって、私をじっと見た。その瞳は何よりも雄弁で、私は思わず目をそらす。すると、バスケットの中で微笑むリックと目が合った。

「……今日、夢を見たのよ。この本を開いたせいで、私の部屋にはミーシャじゃなくて魔女がやってくるの。窓を叩いて、にいっと不気味に笑って、私たちの家を皆焼いてしまうの。だから、この本を燃やすのよ。そうしたら、災厄は絶たれる。 こんな本、燃やしてしまった方がいいでしょう……?」

 朝、目が覚めてすぐに、ベッド脇の荷物から本を手に取った。あの時と変わらず、表紙のリックは窓辺で幸せそうに微笑んでいて、私は急に、リックなんか燃えてしまえばいい、と思った。ミーシャがやって来れないように、全て焼き尽くしてしまえばいいと。

「マギー」

「止めないで」

 私はバスケットから本を掴み取ると、そのまま焼却炉の中に投げ入れた。ボン、と勢いよく火が上がり、あっという間に真っ黒になって消えていく。煙が上がり、私の影を砂の上に焼きつける。チリチリと音を立ててページが消え、ざらついた灰に変わる。それをしばらく呆然と眺めていたジルさんが「危ないじゃないか」と叱り始める。その声を生半可に聞きながら、私は本の最後の欠片が燃え切るまで見送った。パチン、と火花が爆ぜる。ワンピースが揺れ、ブーツに熱い砂がまとわりつく。

 そして火が元の大きさに戻った瞬間、私は砂の上に崩れ落ちた。

「お母さん、お父さん……」

 バスケットの中に、あの本はもう無い。そう実感した瞬間、さっきまで私を駆り立てた激情は、干潮のように引いてしまった。手の平が震える。取り返しのつかないことをしてしまった。両親が買ってくれた本を燃やしてしまった。遺品ともいえるものを、燃やしてしまった。全部、全部、燃やしてしまった……。

「……マギー」

 ライラが静かに私の側にしゃがみ、穏やかに背中をさすってくれる。それを、ぼんやりと感じる。それは両親の手つきとよく似ていて、気づけば冷たい雫が私の頬を伝っていた。


* 


 ライラは魔女の看病をしているという噂を聞いた時、そんなことが許されるわけがないという思いより先に、「私にはできない」という言葉が浮かんだ。

 本を燃やしてしまってから、私は随分と精力的に働いた。ライラには敵わないけれど、一人前の看護婦として、ある程度周りからも認められるようになったと思う。患者から名指しで感謝の言葉をもらうこともある。それでも、私には魔女の看護などできない。

 魔女を許すことなどできない。私の大切な両親を奪った、憎くて仕方ない存在だ。どうしてそんな存在を赦せるだろう。私たちの大切な人たちを奪った火で、焼かれてしまえばいい。そうしたら、私たちの苦しみを理解するだろうか。そもそも、苦しみや憎しみを理解するだけの感情を、持ち合わせているのか。心優しいミーシャはファンタジーであって、現実世界の住人ではないと、いつからか私は知ってしまっていた。

 バーバリーは、戦火に飲まれて死んだのだろう。人間と魔女の戦闘の末に。患者の一人が、彼女の住んでいた地域について教えてくれた。ハシェットさんという患者だった。あの地域は、あの地域では戦闘が泥沼化し、最終的には魔女がまじない薬を使ったらしい。それをを取り込んでしまった者は人間は錯乱し、ひどい時には人間同士の戦闘にもなったのだそうだ。だから、魔女全滅を主張する過激派の多くは、あの辺りの生き残りなのだと……。

 ハシェットさんはそれ以上、詳しい話をしようとしなかった。できなかったのかもしれない。しかし、彼の瞳にはその時に感じたのであろう感情が、激流のようにほとばしっていた。

 彼の体は、軽度ではあるもののまじない薬の影響を受けており、症状は日に日に悪化していた。それがついに取り返しもつかないほどひどくなった夜、彼が遺した言葉を、私は今も忘れることができない。

「全ての魔女に死を、我が同胞に救いを……」

 焼却炉に放り投げた本のことを思い出す。美しい融和の物語は、火の中に消えた。ハシェットさんの命の灯が消え、傷だらけの腕がだらりと垂れ下がる。

 ……思わず口を抑えた。薄暗がりの中にうずくまり、手の平に込める力を強くする。

 あの本はまるでわかっていない。ハッピーエンドなどあるわけがない。リックとミーシャは友達になどなれない。だって、人間と魔女の戦闘で、作者でありバーバリーは死に、よりにもよって彼女の生きた場所で、魔女に対する憎悪は膨れ上がったのだから!



「ライラ……まさか、魔女の看護なんて、してないでしょう?」

 ハシェットさんが亡くなった夜、私は駆り立てられるようにライラの元へ向かった。例の噂について聞けるのは今しかないと、直感的に思ったからだった。

「夜遅くに看護をしているから……そういう噂が立ってるの。それは本当なの?」

 ハシェットさんの死に顔が頭をよぎる。言葉が掠れて、ばらばらになりそうなのを必死で寄せ集めるようにして、私はなおも尋ねた。ライラは何も答えない。瞳をかすかに揺らしながら、私を見返していた。

「私たちが……私たちがどうしてここに住んでいるか、ライラは知っているでしょ? 魔女よ? 人ならざる者よ? どうして……どうしてそんなことができるの?」

 こんな時にあっても、ライラの目は私とそれとは違う。いつもよりさざめいてはいるけれど、それでも海のような静けさは、完全には消えていない。血走った私の目とは、まるで大違いなのだろう。どうしてそんな目ができるのか、そう思うだけで、血がふつふつ沸く感覚に襲われる。どうして私たちの苦しみがわからないの。魔女に虐げられ、大切な人々を奪われた憎しみが、どうして理解できないの。

 どうしてあなたは、私とこんなにも違うの。

 ぐらりと体が揺さぶられた気がして、私は思わず胸を押さえた。今しがた心の中に響いた言葉が途端に頭を冷えつかせる。ライラと私が、違う。そんなことはとうにわかっていた。瞳の違いは、人のありようの違い。私には、魔女の看護などできない。それでも、私と違う瞳を持ったライラには、きっとそれができてしまう。

 私はリックになれない。なぜなら、ライラがリックだから。ミーシャと友達になれる、リックだから。

「マギー、私、そうとは一言も」

「嘘つかないでよ!」

 瞬間、手の平に熱いものが走って、私は思わずびくりと震えた。彼女の頬が赤く擦れている。それに気づいた瞬間、目の前のライラの瞳が大きく震えた。

「……痛いよ、マギー」

 細く掠れた、ライラの声。彼女をぶってしまったのだと悟った瞬間、まるで責め立てるように、手の平がじくじくと痛み始めた。

「ごめ、ごめんなさい、私……」

 そう言いつのったところで手の痛みは消えず、むしろ全身に広がっていく。唇を噛みしめると、醜い血の味がした。

 ライラをぶってしまったあの瞬間、私はハシェットさんのことを忘れてしまっていた。彼の魂が天に還った時に私を焦がした黒い感情は、二の次になってしまった。私はあの時、私のことしか考えていなかった。

「ごめんなさい……」

 新聞を破り、本を焼き捨て、描かれた内容が甘い幻想だとなじったところで、私の思いは幼い頃から変わっていなかったらしい。……ああ、むしろ遠ざかるような行為をしてしまったというのに、今更私は気づいてしまった。

 私は、リックになりたかったのだ。



 その夜、私はいつもの夢を見た。何度も何度も見た夢。毒々しいまでの火が全てを飲み込んでいく。飲み込んで、全てを灰にしていく。魔女の高笑い、血と肉の焼ける臭い、熱を持ち赤く光る石畳……。

 ふと、それがすっと色を失い、急速に消えていく。意識が浮かび上がっていく。心地よく澄んだ冷たさが体に広がり、私はふと、目の上に何かが置かれているのに気づいた。

「……ライラ?」

 その手は柔らかく滑らかで、肌理の細かい布のように繊細だった。ライラの手とは違う。看護婦の手は、もっと硬くて、少し荒れているはずだ。私の手もそうだ。では、これは誰の手だろう。水面で浮かんでいる時のように、ゆるやかな思考を回す。お母さんだろうか、まさか……。

「すまなかったな」

 あどけない少女、成熟した女性、穏やかな老婆、様々な声色が合わさったような、複雑な声だった。ライラの声ではない。カルヴァン婦長の声でも、看護婦たちでも、患者でも、両親の声でもない。会ったこともない、知らない誰かの声。それでも、ずっと聞いていたいような、胸に抱えて大切にしたいような、そんな、優しい声。

 そう考えているうちに、彼女の手は静かに目元から離れ、同時に気配も遠ざかっていく。それに伴って押し寄せるのは、青が支配する真夜中の空気。ぐ、と拳を握りしめる。会ったこともないけれど、心当たりはひとりしかいない。……私は飛び起きて、ベッドの上でその姿を探し求めた。

「待って! 行かないで!」

 私にはそう言う資格なんてないとわかってはいても、叫ばずにはいられなかった。声がぼわんと反響し、消える。その瞬間に悟る。彼女は戻らない。声が届いたところで、戻ってはこないだろう。

 ミーシャは私の窓を叩き、行ってしまった。彼女を友としてくれる、リックの元へ。一方の私は、リックをぶってしまうような、ひどい子だ。優しいミーシャが、私の友達になってくれるはずがない。窓を親しげに叩くこともせず、私をひどくなじって、問答無用に火をつけてしまってもよかったはずなのに。

 どうして彼女は、私の元に来て、謝ったのだろう……。

 窓辺から差し込む、透き通った白銀の光。その中で、私は子どものようにうずくまって泣いた。



 ヘイズワース療養所の玄関には三段の石階段がある。その左右には草花が植えられていて、それを定期的に世話しているのがカルヴァン婦長だった。

「婦長、お体に障りますよ」

「何、大丈夫さ」

 ざあ、と庭の木々が揺れる。すっかり葉が落ち、随分寂しくなってしまった療養所だったが、私はこの時期が嫌いではなかった。落木のしなやかな立ち姿は、婦長やライラのそれに似ているからだ。私の髪の色は、少しだけくすんでしまうけれど。

 婦長はどこからか持ってきた椅子に座り、手袋をつけて土いじりをしている。私は、病棟に向かおうとしていた足を止めて、空のバスケットとともに婦長の元へ駆け寄った。婦長の足元には、ハンカチの上に置かれた粒状の種や球根。それを、手に持ったスコップで土の中に埋めていた。

「そのバスケットにハンカチを敷いて、種を乗せてくれ。それを持っていてくれるかい」

 言う通りにして、婦長の手が届きやすい場所にバスケットを持つと、婦長はふっと口元を緩めた。土いじりをする時の婦長は、いつもより雰囲気が柔らかくなる。しわだらけの手がバスケットに伸び、器用に種をつまんだ。

「マギー、お前がここに来て、もうすぐ四年になるね」

「覚えていてくださったのですか」

「当たり前だろう?」

 婦長はこともなげに言って、また一つ種をつまんだ。そしてそれをそっと埋め、茶色い土を被せていく。

「マーガレット」

「はい」

 ふと、きちんと名前を呼ばれて顔を上げた。

「お前も一つ、種を植えてみな」

 おずおずと種を受け取り、それを地面の上に乗せる。土はしっとりと冷たく、濡れた綿に触れているようだった。

「どうしてここに花を植えるか、わかるかね」

「患者の皆さんの心を癒すため、でしょうか?」

 階段を、仕事中の看護婦たちが上り下りする。スカートがふわりと広がり、石の段に影を落とす。私が答えると、婦長は静かに首を振った。

「それもあるがね。……これは、私の謝罪であり、祈りなんだよ。天国への階段がせめて、花で埋められているようにと……」

 はっとして、思わず婦長を見る。婦長は、目の前の種ではなく、どこか遠くを見るような目をしていた。その時の目は、私がもう戻らない、忘れられない過去を考える時と同じ目だと思った。その思いに引っ張られるように、婦長の肩にそっと手を添えると、彼女は手袋を取り、私の髪を静かに撫でてくれる。絡まった髪を、丁寧に梳いてくれる。

「悔いや憎しみを忘れなくていいんだよ、マーガレット。忘れることなどできやしないさ。だがお前は、看護婦として、傷ついた者の希望となって生きる道を選んだ。それを、胸に留めておいてくれ」

 亡くなってから数年が経つ、両親のことを思う。そして、真夜中に聞いた、「すまなかったな」という言葉を思う。それらの思いはゆっくりと溶け合い、やがては一つになっていく。

「はい、婦長」

 私は大きく頷いた。それを見た婦長は、もう一度私の髪を撫でた。

「……さあ、新しい種をおくれ。春になったら、きっと美しい花が咲くよ」

 ぱん、と手を叩く音が響く。婦長の目は、いつも通り穏やかに凪いだそれに戻っている。その目に映り込む私は、改めて記念の日を覚えてもらえていた幸せを噛みしめる。



 この海辺で魔女の死体が発見されたのは、あれから数か月後のことだった。

 ライラは本当に魔女の看護をしていたのか、死んだのはその魔女だったのか。波が引いていくように新聞社の足が遠のき、人々がその話をしなくなった頃になっても、ライラは頑なに沈黙を貫いていた。私には、それが彼女なりの悼みのように思えた。

 バスケットを持って、海と療養所とを隔てる堤防の上を歩く。潮風が髪を撫で、ワンピースを揺らす。朝日に照らされて、蜂蜜のような黄金色に染まる。バスケットの中には、いつものように『贈り物』が入っている。しおれてしまった、小さな花。

 なぜ、どんな思いで、この花を置いていったのだろう。今までは考えなかった疑問がふっと浮かぶ。「人ならざる者よ」、かつてライラにぶつけた、他でもない自分の言葉を思い出す。花弁の色は既に褪せている。私はしばらく無言でその花と見つめ合った後、その花を元のようにバスケットに戻した。

 ジルさんが、いつものように焼却炉を掻き回す。煙が立ち、火花が広がる。私は結局、あの花ごとバスケットを手渡した。赤く燃え盛る焼却炉の中で、花はたちまち燃えていく。飲み込まれていく。

 両親を奪った火は今、小さな花を燃やしている。矛盾の中で生きている。矛盾の中で、私は看護婦として生きている。

「ライラ」

「……何?」

 燃えていく「贈り物」に視線をやりながら名前を呼ぶと、ライラの静かな声が返ってきた。その声は、インクのように頼りなく流されていきはしなかった。

「今日、バーバリー先生の命日なのよ」

 ライラは振り返らない。それでも、彼女が息を飲むのがわかった。

 機関車の中で新聞を破った日を思い出す。あの紙切れはどこかへと飛んでいき、今はもうなくなってしまっただろう。

 人間と不思議な力を持つ存在の融和を描いたあの作家は、もうこの世にはいない。あの本も燃やしてしまった。ミーシャもこの世にはもういない。

「出版社に、追悼の手紙を送ってみようと、そう思うの」

 全てのものは、いつか燃え去る。遺されたリックも、私たちも、いずれ等しく灰になるのだろう。

 焼却炉の煙をじっと見つめる。永遠にも近い沈黙の後、ライラがやわらかに振り向いた。

「良い考えだと思うよ、マギー」

 朝日が少しずつ世界を照らす。海を、堤防を、療養所を。そして、真っ白な光が髪を照らし、私たちを優しく抱きしめる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る