ファンタジー連作「残光」

市枝蒔次

ep.1 残光

 ヘイズワース療養所の玄関には三段の石階段がある。左右に草花の植えられた階段だ。段差はさほど大きくはないから、幸い患者がつまずいたことはない。ただ、朝夕の潮風によって風化しているから、上り下りするとブーツの裏がざらついた。

 階段としてはとりたてて特徴のないそれには、定期的に「贈り物」が置かれている。一番多いのが花と果物。他にも、木の枝や小瓶をちらほらと見かける。

 今月の朝の業務は、「贈り物」をバスケットに入れ、療養所の近くにある浜辺へと持っていくところから始まる。風であちこちに吹き流された「贈り物」を拾い集めると、小さなバスケットの底が埋まる。拾い残しが無いかを確認し、私はワンピースのすそを軽くはたいた。

「ライラー」

 少し遠くで、マギーの金色の髪が揺れている。そちらへ向かうと、彼女は私に向かってバスケットの中身を見せた。白い巻き貝。風にやられたのか少し欠けているけれど、形の美しさはそのままで、しばらく二人で見入る。私は白いルナリアを見せた。蝶々のように可憐な花びらだった。

 のびをして、療養所の門を出る。振り返ると、雨が降る直前の空模様に似た色をした建物。積み上がった石と石の間には、雨筋が黒々と濡れ光る。時折、ブーツの足音がかすかに聞こえた。

 気づけば空の色は、灰色がかった青色から乙女の頬に似た色へと姿を変えている。その色が、バスケットのしおれた花を照らす。日に日に冷たくなっていく風が花びらをもぎ取り、その白を藍で染めに、東へと運んでいく。

 療養所に見守られながら、しっとりと朝の露を含んだ地面と落葉を踏んで進む。小高い堤防を越えると、それが細かな砂に変わり、細い煙が見え始めた。地平線が光の糸のように輝く海の匂いはかすかに苦く、焦げ臭さと混じり合う。海には何も無い。皆がにぎやかに話す声が、乾く前のインクのように頼りなく風に流されるのを聞きながら、砂浜に足跡をつけた。

 海沿いの小道にいる用務員のジルさんに挨拶をし、バスケットを手渡す。少しだけ手を温めさせてもらう。「これは人間の手でやることに意味があるんだ」と言いながら、ジルさんは汗を太い腕で拭い、バスケットの中身を焼却炉に入れていく。小さな呟きが聞こえる。「人ならざる者の『贈り物』の葬式さね……」。

 時々、火鉢で中をかき回す。そのたびに、白み始めた静かな世界に、挑発的な火の粉が散る。花や果物、そういったものが炎の中に消えていくのを、私たちはいつも堤防に座って眺める。「贈り物」を放り込んでいくたびに炎が勢いよく上がり、ジルさんが額の汗を拭い、ほつれた私の髪を熱風が吹き上げる。



 今日の「贈り物」集めと焼却は免除だと連絡があった。代理はもう立ててあると言う。免除自体はよくある話だ。患者の容態の変化や看護婦の急用は、日常的に起こる。しかし、今回は少し違っていた。よく看護婦への伝言役をしているコルン副婦長から、「支度ができ次第婦長室まで来ること」とだけ言われたのだ。

 療養所は基本的に、中央フロアの左右に横長の大部屋がくっついた形をしている。正面玄関から見て右手には男性部屋、左手には女性部屋。男女の大部屋各一つずつと中央フロア一つで一セットになった療養棟が三つ、その奥にあり療養棟と同じ構造の職員棟が一つ、正面玄関手前の石階段とつながっており診察室のある総合棟一つで、療養所はできている。そして、総合棟および四つの中央フロアを中央廊下が貫く。そのうち、婦長室は第三療養棟の中央フロアの中にあった。

 第三中央フロアに入ると、そこではすでに何人かの看護婦が働いている。新しいシーツをもらいに、リネン室へ入っていく人。配膳室から患者の食事を運ぶ人。きびきびと動く看護婦の白いワンピース。ここで看護婦として働き始めてから五年が経つが、私にはどこか、制服がきちんと肌に馴染む感覚がない。

 ……馴染まない方がいいよ、お前は。

 看護婦を始めた頃、カルヴァン婦長がおっしゃったことを思い出す。靴紐を結び直し、スタッフルームを出る。他の看護婦の邪魔にならないよう気をつけつつ、念のため入り口から大部屋をのぞいた。

 大部屋は天井が高く、全体的に明るい。患者のベッドのそばに、人の身長を越える大きな窓が作られているからだ。そこからは十一月の乾いた光が差し込み、床に淡い影を作り出していた。

 白いリネンの上掛けがまぶしい患者のベッドは、両窓際に等間隔で並べられており、患者が日常生活の補助を受けている。今日は天気がいいからか、比較的患者の顔はほがらかだった。例えば、惚れ薬の副作用に苦しむヤングさんは、解毒鎮痛剤が効いているのか、穏やかに笑っている。例えば、雷のまじないで背中にやけどを負ったディーンさんは、包帯を巻いてもらいながら、仲の良い患者と話をしている。

 目線を婦長室の飴色の扉に戻す。ノックの後に足を踏み入れると、静かに響く低い声。ぽちゃんと水面に雫が落ちるような予感が、胸の中に広がった。

「来たね」

 窓際には年季を帯びた文机と、よく整頓された書棚。部屋は、カーテンを引いているせいで、大部屋よりは少し薄暗い。カルヴァン婦長は、頬骨のとがった生真面目な顔で座っていた。そして、文机の手前にある来訪者用の椅子を手で示す。

 婦長は、長年この部屋に住みながら勤められている。足を悪くしているもののとてもお元気で、よく若い看護婦たちを震え上がらせていた。

「さて、お前をここに呼んだ理由だがね」

 私が座るやいなや、婦長はしわだらけの手をゆっくりと組んだ。

「お前に、魔女の看護を頼みたい」



 総合棟にあるベッド付きの診療室に入った瞬間、光の加減で青紫がかって見える黒髪が目に飛び込んだ。しばらく切っていなかったのか無造作に伸び、顔をところどころ隠している。その状態で頬杖をつき、かすかにうつむいていた。

「ヘイズワース療養所、看護婦のライラ・マースです」

 扉を閉め、鍵を抜く。部屋に入ると、魔女はゆっくりと顔を上げ、新月前夜の月のように薄く笑った。

「イザベラ・メイラーだ」

 あどけない少女、成熟した女性、穏やかな老婆、様々な声色が合わさったように複雑な声で名乗ったのは、本名なのかさえわからない。しかし、それをそうと受け入れざるを得ない、不思議な圧力を持っている。魔女たる所以だろうか。

 しかし、体中にはかすり傷があり、顔は青白かった。病院服の隙間から包帯も見える。トントンと左手でベッドを叩いているのは、おそらく葉巻を吸えないからだろう。

 魔女イザベラが夜中に突然やってきた後、カルヴァン婦長が直々に体を洗い、包帯を巻いたそうだ。婦長が淡々と報告する声は、いつもより低い。関係者以外に聞かれにくいよう気をつけているのかもしれない。

 婦長いわく、外傷は背中の火傷、全身の擦り傷。特に足がひどい。傷口に土が擦り込まれ、まるで囚人の足のようだった。お前にも心当たりがあるだろう、と婦長は言っていた。傷口を洗い消毒をしたそうだが、膿には注意する必要がある。

 黒い瞳が洞のようにぼんやりとしているのは、疲れか、鎮痛剤のせいか。私は警戒しつつも、どこか拍子抜けしながら看護を始める。

 現在は、暫定的にベッドつきの診察室が彼女の部屋として割り当てられている。婦長いわく、今夜までには療養場所が決定し、そこへ内密に移されるとのことだった。

「お食事です」

 カルヴァン婦長の指示のもと中央フロアの配膳室でもらってきた、ハムとチーズを挟んだパンと紅茶をベッド脇に置く。イザベラはパンを手でちぎり、鼻の近くへ持っていく。そして、ぽんと口に放り込んだ。

「毒は入っていないようだな」

 それには親切な返事をせず、部屋の状態をさっと確認した。診療室には、治療や看護の道具に加え、おおむね大部屋のベッド周りと同じものがある。開かれた窓、クリーム色の壁。ベッドのそばには簡易テーブルがあり、花や食事を置くことができる。大部屋ではない分部屋は静かで、すべての音が吸い込まれ消えてしまいそうにも思えた。

 ともかく、食欲はあるらしい。イザベラは食事をきれいに食べ切った。



 イザベラはひどく酔っていて、服は洗っても落ちないほど血だらけだったそうだ。その状態で真夜中に正面玄関の扉を叩き、開錠した婦長の目の前で倒れたらしい。それから、備品点検中だった診察室までイザベラを運び込み、清潔な水で洗い、治療をし、気付け薬を飲ませた。

 その際に言っていた内容、何も使わず炎を出して葉巻を吸ったこと、そして背中の特徴的な刺青から、おそらく魔女なのだろうと婦長は言う。

 魔女の体には、濃い藍色の刺青がある。それが魔力の象徴であるという説や、成人の儀式で入れるのだという説など様々な言説が飛び交っていたが、その詳細は不明だった。

「パース師長やコルン副婦長にも相談して、看護はお前に頼むことにした。おそらく長くて一か月程度だろう。業務の引き継ぎは済んでいるから、心配せずともいいさ」

 カルヴァン婦長は、時の流れのように正確に、患者の容態を告げた。そして、その流れの最後に、「質問は」とだけ加える。カーテンの隙間から、目を刺すような光がこぼれている。私は、おずおずと口を開いた。

「お言葉ですが婦長、どうして私なのでしょうか。他にもっとふさわしい看護婦がいたはずでは……。それに、ここに魔女をおいてもいいのですか。だって、ここは……」

 大部屋にいる患者や看護婦の姿が頭に浮かぶ。それに伴うようにして、婦長の目にかすかな影が差す。……思わず、言葉を止めた。

 しかし、婦長はすぐにその瞳をやめ、鋭く私を捉える。傍らの杖を取って立ち上がる。きつく結った白髪と黒い衣服が対照的に見えた。

「ライラ、決してお前を侮って選んだわけじゃないさ。お前を評価しているから、選んだんだ」

 古い記憶が、ふっと頭をよぎる。茶色い視界の中、大鳥のように毅然とした立ち姿。そこから伸ばされた、しわだらけの手の温かさ。ぼろぼろの私を、ためらいなく抱き上げた力の強さ。薄暗い、汚れた世界の中で、その姿が道しるべのように見えた。それは、今も変わらないことだ。

「それに、これは私の決断だ。お前が気に病むことじゃない。看護に集中しなさい」

 はい、と返事がするりとこぼれた。

 カルヴァン婦長の言葉は不思議だ。井戸の底に反響する声のように低く、よく通り、心の奥にまで沁みわたっていく。老いを感じさせないその声や、それを発するすらりと伸びた背筋が、私は好きだった。

「さあ、早く行きな」

 一礼して、扉を閉める。途端に看護婦たちのブーツの音が聞こえ、光の眩しさを感じるようになる。



「酒が飲みたい」と言う。「駄目ですよ」と返すと、イザベラは「酒は万病の薬だぞ」と呟きながら、杯を回す手つきをしてみせた。

「何、多少の酒くらいどうってことないさ。酒の一瓶は一匙と変わりない」

 なおのこと駄目ですよと言うと、退屈そうに髪をかき上げて、それをすとんと落とした。

 第三療養棟は療養棟の中で一番奥にあり、主にベッドから動けない重篤患者の療養場所として用いられている。その中央フロアにある一床の個室が、イザベラの療養場所となった。

 古い包帯を外し、傷の状態を見ていく。婦長の処置がよかったのか、悪化している様子はなかった。しかし、いびつに変色したそれは、むきだしの肌の上でひどく浮いている。……薬を塗り、新しい包帯を巻く。

 イザベラには二つの火傷があった。一つは背中の火傷。もう一つは左肩。カルヴァン婦長いわく、肩は昔の傷だと言う。すっかり痕として定着しているから、背中の傷とは少し異なっている。

 無言で包帯を見つめるイザベラは、命を吹き込まれた精巧な人形のように、不気味な美しさを放つ。

 お前は、と声が部屋に反響した。見ると、イザベラは片頬をゆがめて私を指差していた。

「私を怖がらないな」

 そうでしょうか、と言うと、黒々とした夜風が窓を叩いた。落ち葉が巻き上げられ、一瞬窓に貼りつき、そしてどこかへと去っていく。他の患者との接触を避ける必要性から入浴時間をずらしたために、イザベラの看護は通常より夜の時間が長い。必然的に、二人で夜伽のように話す時間も多かった。

「あの老いた看護婦もそうだった」

 カルヴァン婦長のことを言っているのだろう。私はどう答えるか迷いながら、包帯を巻き終えた。

「お前に怖いものはないのか? 」

「ないわけではありません」

「何だ、虫か? 夜か? 」

 虫は手で払えばどこかに行ってしまう。夜は確かに不安だけれど、皆とともに眠る夜は、どこか心地よかった。私は無言で首を振る。持ってきた紅茶を、イザベラは静かにすすった。

「別に答える義務はない。暇なだけだ」

 確かに、療養所はとても穏やかだった。魔女を匿っているという状況だから、最初のうちは警察や何かがかぎつけるのではと考えることもあったが、それもない。イザベラの顔色は、少しずつ良くなっている。入院前は、ろくな食べ物を口にしていなかったのではないかとさえ思われた。

 生まれた沈黙を持て余すように、イザベラは背中に手を伸ばす。複雑な文様の刺青と包帯が覆う背中を、羽が生えたかのように何度も指でなぞっていた。

「この傷はな、」

 低い声が楽器のように響き、顔を上げる。

「魔女がつけたんだよ。魔女は私刑をするのが好きなのさ」

「私刑……」

 小さく呟くと、イザベラは片眉を上げて首をすくめた。

「なぜかって? 当然、娯楽と、矜持のためだろうね」

 私は首をかしげて、イザベラの呟きをうながした。

「お前たちが『贈り物』と呼んでいるものも、大方同じ理由だろう。魔女は、人間を見下し、愚かだとあざ笑う。だが同時に、人間が邪悪で残酷であると決めかかり、それを疑いたくないのさ」

 幾度も届けられる「贈り物」の数々。焼却炉から立ち上る煙。一帯を焼き払う炎。背中に残る大きな火傷。夜闇に響く哄笑。四方に散らばる血痕と空薬莢。

「それは、矛盾しているんじゃ……? 」

「そう、矛盾だよ。人間は魔女と関わり合うに値しない存在であるという名目を掲げつつ、本性ではただ私刑を愉しんでいたということだ」

 イザベラが長い息をついて、静かに足をなでた。睫毛の一つ一つに細い光が差していたが、全体は湿ったように薄暗く見える。その姿は、どこまでも生々しく映り、彼女が今ここに存在していることを強く感じさせた。

「……いや、忘れてくれ。どうも弱っているようだ」

「魔法では、治療ができないのですか」

 包帯の切れ間から見える刺青に目をやりながら問うと、細い肩がすくめられ、ぱさりと髪が音を立てた。

「そんな夢のようなものではないさ」



 冷たい水を桶に入れ、そこに布を浸す。しっかりと絞ってイザベラの額に乗せると、「気持ちいいな」と返事があった。

 入院から数日、イザベラの微熱が続いている。疲労が出たのだろう。足の切り傷は膝あたりまで及んでいた。剃刀状の葉で切れたような、細かな傷だ。それだけの背丈の草はこのあたりでは見かけないことから、彼女はかなりの距離を来たと思われた。

 熱を帯びた体はずっしりとベッドに沈み、先ほど回収したシーツは湿っていた。リネン室で新しいシーツをもらった時、交換担当のアンナは私をちらりと不満げに見た。患者の都合でリネンを交換する時間に遅れることはよくある。しかし、そのような顔で見られるとあまり良い気はしない上に、今の状況では心臓をつつかれたようにひやりとした。

 風の音に重なるようにして、寝息が響いている。私は彼女の汗を拭い、上掛けを直し、そっと窓辺にもたれかかった。背中や首筋を細い光が刺し、ちりちりと焦がす。その一方で窓の外は雨がぱらぱらと降り、その粒が虹色を閉じ込めては地面に消えていく。上掛けにその影が淡く映り、元からそういう模様であったように馴染んでいた。私は、黙ってそれを見つめた。掛け時計の音が響く。まだ赤い頬に、一房の黒髪が貼りついている。なでるように払う。

 十三歳で初めてヘイズワース療養所に来た時、私はずいぶんと拍子抜けしたものだった。幽霊屋敷のような、恐ろしい場所だと思い込んでいたからだ。

 駅馬車に乗り、港湾都市ウォリックを離れると、蒸気機関車や船の汽笛、大勢の人のざわめき、市中のいたるところから届く生活音が嘘のように静まり、馬車のガラガラという音だけが響いていた。同じように、ひとところに収まることができないかのようにあふれていた色彩は、初夏の郊外に出ると緑と茶色と灰色がかった青に統一された。小石を踏んだ馬車が跳ねる。座り心地の悪い椅子の上で、上下左右に揺れる不安定な景色を眺めていた。

 海沿いに住む魔女はほとんどいないと言う。療養所の医師たちによると、海の浄化作用が魔女には都合が悪いのではないか、という案が最も有力だった。しかし、人間、特に療養を必要としている者にとっては、その力は役に立つ。ちなみに魔女の多くは内陸、例えば郊外の森や廃墟となった別宅跡に住みついているらしい。

 どこか淀んでいたウォリックの空気から少しずつ毒気が抜かれてゆき、雪解け水のように澄んでゆく。近づくにつれて純度を高めていく緊張と似ていた。一面畑だった景色の向こうに青くかすんだ海が見え始めると、やがてヘイズワースに到着する。

 荷物を両手で受け取った瞬間、鞄の重さと、それが今までの人生のすべてだと考えた時の軽さを同時に感じた。先を行く、当時は副婦長だったカルヴァン婦長の骨ばった背中。ウォリックへと戻る駅馬車の乾いた音。石階段の感触。開け放たれた扉の先にこだます、看護婦たちのブーツの音に、少し肩身の狭い思いをした。

「今日からここがお前の仕事場となり、住処となるんだ、ライラ」

 渡り廊下を抜けて副婦長室に通された後に出された、茜色の紅茶の美しさと甘みを、今も忘れることはない。

 療養所に勤める人たちに挨拶をしてからシャワーを浴び、ベッドに横になった時、わけもなく涙があふれてたまらなかった。きゅっと握りしめた手のひらは柔らかく、しかし突き刺さる爪は冷たく硬い。……ふと私は、生きているのだと感じた。そして同時に、私を慈しんでくれた人たちはとうにいないのだと、故郷はもうないのだということを、身に迫るほどに感じた。

 誰かが頭をなでてくれた。優しく背中を叩いてくれた。その心地よいリズムが時折、破壊の音と重なっては、引く波のように離れる。透明にゆがんだ視界の中で、私はベッド沿いに差し込む月光の美しさを知る。



 職員棟にブーツの音が響く。患者が一人、亡くなったのだと言う。今日中、第三療養棟は多忙だった。亡くなったハシェットさんの両隣にいる患者や、親しくしていた患者のメンタルケアに、かかりきりになっていたからだった。

 深夜看護の前にベッドの整頓をしていると、そばにやってきたのはマギーだった。

「マギー、ハシェットさんのこと……」

「ありがとう……ライラ」

 ハシェットさんはマギーが担当していた患者だった。まじない薬の中毒症状で療養していたが、容体が急変したのだそうだ。うつむいているマギーは、いつもよりずっと線が細く見えた。

「ライラ、最近『贈り物』集めに来ないね」

「それは、免除されていて……」

「個室看護でしょう? 」

 間違いではない。私は、こくりとうなずいた。窓の外をちらりと見ると、重たい雲が広がり、白い霧のような雨がさらさらと降り注いでいた。

「それで、ライラに、聞きたいことがあるんだけど……もし違っていたら、気にしないで」

 胸の前で手を何度も組み替えながら、マギーは話を切り出すことをためらっているようにも見える。彼女の細い指の爪には、傾き始めた陽が装飾のようにしつらえられていた。私は緊張しつつも、つとめて自然に「何? 」と尋ねた。

「ライラ……まさか、魔女の看護なんて、してないでしょう? 」

 窓の間から熱された風が強く吹いて、私たちの髪をなぶった。それに乗じてうつむいた私は、動揺しているのか、それとも想定通りと思っているのか、自分でもわからなかった。マギーの視線を感じる。それにつられてか、心臓がばくばくと揺れ、婦長やイザベラの顔がぐるぐると頭を回った。

「夜遅くに看護をしているから……そういう噂が立ってるの。それは本当なの? 」

 私は答えられなかった。

「私たちが……私たちがどうしてここに住んでいるか、ライラは知っているでしょ? 魔女よ? 人ならざる者よ? どうして……どうしてそんなことができるの? 」

 葉が落ち、雨に打たれる木々。洗われるのを待っているリネン。紐の切れたブーツ。燃やされる「贈り物」。職員棟で暮らす私たち。

「マギー、私、そうとは一言も」

「嘘つかないでよ! 」

 パン、と銃声のような音が響いて、遅れて頬に熱が走る。手を添えると、じくじくと血の通った痛みが伝わった。

「……痛いよ、マギー」

 金の髪が、ひきつれたように揺れる。だんだんと大きくなっていたマギーの呼吸が切り裂かれるようにして途切れ、震える瞳で、口を半開きにしたまま、私を見ていた。

「ごめ、……ごめんなさい、私……」

 紙をくしゃっと丸めたように、マギーの顔がゆがんだ。私は、その場から一歩も動けないまま、ただマギーのことを見返していた。

「マギー。貴方や、療養所の患者に、私が同じことを言っていいと思う? 」

 そう言うと、マギーはぐっとこぶしを握りしめ、肩をぶるぶると震わせた。遠巻きに私たちのことを見ている皆も、私がいたたまれなくなるような表情をしていた。

「……そう、そうよね、ごめんなさい。ごめんなさい、ライラ」

 マギーは私の隣のベッドで眠る。眠っている時、うわごとのように寝言を言うことがある。「ごめんなさいママ、パパ」「わたしのせいよ」「あの時、出かけようなんて言わなければ……」。それを聞くたび、私はいつも上掛けをかぶってやりすごす。きつく唇を噛み、耳を押さえて、うずくまるのだ。

「マギー、私は大丈夫よ。どうかもう謝らないで」

 その日私は、マギーが眠りにつくまでベッドのそばで話をした。姉妹がいたならきっとこうだったろうという思いは、ランプのように温かいけれど、ランプの火を消す冷たい雨風のように切ない。



 上ろうとしたがれきが崩れて、新たな土煙が上がる。一瞬宙に投げ出されて、硬い地面にぶつかる。血の匂い。誰のものかわからない。人の声がする。何を話しているのかもわからない。続けて、ものが倒れていく音がする。子どもの悲鳴が聞こえる。それもいつしか消える。耳鳴りがする。ドラムロールのような銃声が響く。銃弾が入り乱れる。人影が、土煙に焼きついて見える。近くで爆発が起きて、どっと人の群れがあふれ出す。飲み込まれる。隣の人が倒れる。銃を構えた人が、遠くへと走っていく。爆発から勢いよく炎が上がり、崩れ落ちた建物を焼いていく。黒炭になって落ちていく。声を出そうとしたけれど、声が出ない。水がほしい。水なんてどこにもない。あるのは黒い塊ばかりで、灰色の煙を上げながら地面の端を埋めていた。

 炎を背中で感じながら、暗い草原の中を走る。夜は冷たく体力を奪うと同時に、カーテンのように身を隠してくれる。土けらが飛び散って、頬にまとわりつく。手を、腕を、足を、草がなぶっていく。根が足に絡みついて、どしゃっと音を立てて転んだ。手のひらを見る。血まめができている。傷口が黒ずんでいる。治療などできるはずがない。手あたりしだい草をつかんで、立ち上がる。お腹がすいた。お母さんも、お父さんも、どこかに行ってしまった。足音が聞こえる。靴はどこかにいってしまった。ひりひりする傷口に泥が滲み込んで、熱いのか、冷たいのか、わからない。頭ががくんと揺れ、その先にあった足の爪がはがれていたことに気づく。

 ……ぼろぼろの足。

 目を覚ますと、職員棟の私のベッドの上にいる。天井が遠くから見下ろしている。その清潔さで、あれが遠くの記憶であるということを実感した。遠いけれど、未だ近くにある記憶。イザベラはもう眠っただろうか。

――魔女よ? 人ならざる者よ? どうして……どうしてそんなことができるの?

 枕元の本を手繰り寄せた。しかし、いくらページをめくっても、頭に内容が染み込んでこない。ついに、明日もあるのにベッドから体を起こした。そして窓際までそっと歩く。皆はカーテンを引いて眠っている。歩いても歩いても同じ景色が続いているように錯覚するけれど、もちろん大部屋の果てはあり、先にあるバルコニーが見えていた。

 職員棟は、住み込みで働く職員のための棟だ。多くは身寄りがない。だから、ここは家のようなもの。そんな皆を欺いているのは確かに心苦しいけれど、カルヴァン婦長の意志を無視することもできない。隣のマギーからは、規則正しい寝息が聞こえる。皆を起こさないように、爪先立ちになる。私は最近免除されているけれど、住み込みの看護婦には、早朝に配膳や「贈り物」集めの当番があるのだから。

 窓に触れると、溜め込まれた冷たさが指先をつついて、思わず指を離した。窓についた白い痕を拭うと、そこからは第三療養棟が見える。明かりは消えており、皆が寝静まっているはずだったけれど、ひとつ例外があった。第三中央フロアの右から二番目の部屋、婦長室に明かりが灯っている。旅人を導く星のように、ぽつんと輝いていた。

 大部屋の扉をゆっくりと閉める。月明かりがあるのか、扉には薄い影が付き従っていた。そのままそろそろと中央廊下を通り、第三中央フロアへと向かう。ひんやりとした風が頬をなぞる。体に少しこたえはしたけれど、自然の柔らかさを持っていたから、夢のほとぼりを覚ましてくれるのにちょうどよかった。

 扉をノックするのは、イザベラの看護を引き受けて以来だった。いけないことをしている気持ちになる。しかしもう引き返せない。「本をお借りしに来ました」と、一応は嘘にならない言い訳でもしようか。身を固くしていると、扉の向こうから「おはいり」と声が聞こえた。いつもと声は同じだったけれど、どことなく違和感がある。首をかしげながら扉を開けた。

 部屋に入ってまず思ったのは、婦長が小さくなった、ということだった。しかし時間を空けてみると、婦長は小さくなったのではなく、背筋を伸ばしていなかったのだった。体調が悪いのだろうか、と職業柄観察をしていると、目はうつろで、頬が赤い。はっとして文机の周りを見ると、そこには量の半分ほどが消えた酒瓶があった。



「お前と初めて会ったのは、六年前――私が臨時で軍の看護婦をしていた時だったな。覚えているか」

 忘れるはずがない。がれきと人の山から、私を救い出してくれた手だ。

「あれよりずいぶん昔のことだ。私は夫とともに、郊外で暮らしていた……」

 婦長は今まで、昔話をすることがなかった。私は、驚いて婦長を見つめる。婦長は私に見つめられていることをわかっているのかいないのか、鋭いながらもとろんとした目で私を見返した。見てはいけないものを見ているようで、私は思わず目をそらす。

「つつましやかで幸せな生活だったよ。毎朝、一緒に食事をする時間が好きだった。これ以上ないと思っていたよ」

 グラスに手が伸び、ぐいっとあおる。

「でも、それはすぐに終わった」

 グラスにはもう、酒は残っていない。婦長は音を立ててグラスを置いたが、酒を足すことはしなかった。

「魔女が一帯の家を焼いたのさ。やつら、愉しそうに笑っていたよ。……私は夫に生かされた。あの時背中を突き飛ばした力を、私は一生忘れんだろう」

 語る中で、酔いの回っていた婦長からほとぼりが冷めていくように見えた。それにつれ、凍りついた刃を少しずつ引き抜いていくような恐怖が、私の頭を走る。婦長の目は、虚空の一点を見据えていた。

「マギーやティナたちの家族が亡くなったのも、同じ理由さ。だから、私にはあの子らの気持ちもよくわかる。わかりすぎるくらいだ」

 マギーの涙に濡れた瞳や、小さなうわごとが頭に浮かぶ。婦長やマギーたちの夢の中には、今も、愛する者たちを焼いた炎が燃え続けている。その炎は、マギーが看取ったハシェットさんを焼く炎と重なる。遺体は火葬場へと運ばれるから、私たち看護婦がその炎を見ることはない。それでも、想像せずにはいられなかった。

「あの子たちはね、復讐のために看護をしているのさ。魔女によって行き場を失った哀しみ、大切な者を奪われた憎しみの力を、魔女に傷つけられた者への癒しに使っている。お前は、ああなっちゃいけないよ。私が言えた口じゃ、ないがね」

 婦長は変わらずどこかを見ていた。私は足下を見る。ぼんやりとした影が、足を動かすたびについて回る。さびしい影だった。

「でも、」

 かすれた声にはっと顔を上げる。婦長は今にも沈んでしまいそうな体に抵抗するように、手のひらを顔に押し当てていた。

「あの魔女を見た時、頭に浮かんだんだ。炎に包まれた我が家から生きのび、親戚の家まで駆けた足さ。ぼろぼろで、傷だらけの足さ。囚人のような足さ」

 私は、そっと自分の足に触れた。婦長が治療してくれた足だ。痕はところどころ残っているものの、歩くことに支障はない。あのまま死んでいたらどうなっていただろう。雨の日や寒い日に、よく古傷が痛む。少しでも癒えればいいと手でさすっていると、あの日のことを思い出す。

 煙の臭いのする草原を抜けた先にあったのは、がれきと人の山だった。

 そして振り返ると、草原は焦土と化していた。私は何から思えばいいのか、ついにわからなかった。

 朝焼けは、炎に赤を奪われたようにむなしい色をしていた。人の影はほとんどなく、響き渡るのは建物の破片が落ちる音だけ。そこに、ひどく痩せた犬がうろついていた。あたりをのろのろと嗅いでは離れていく。……生きている。餌を探していると気づいた瞬間、傷だらけの足に、かすかな、ほんのかすかな力が灯った。それにすがるようにして、私は野戦病院へとたどり着いたのだった。

 あの時、婦長はどんな気持ちで治療していたのだろうか。熱にうかされた中で見た婦長の顔はぼんやりと曇っていて、私にはわからなかったから。

 でも、今ならなんとなくわかる。

「患者たちや、あの子らには、申し訳ないと思っているよ。でも、あれを見ると、どうも駄目さ……。昔の自分を重ねてしまう。あれを見ると、どんな復讐も、憎しみも、吹き飛んでしまう……」

 きっとあの時婦長は、イザベラの看護をする私と同じ顔をしていた。

 温かな明かりの中、婦長の体は昔よりも小さく見えた。それにぐっと胸を絞られるような気持ちがして、私は窓の外を眺める。先ほどまで私がいた職員棟の窓が、かすかに見えていた。

「赦しておくれ、ピート。私には、お前の無念を晴らすことができない」

 婦長の声が、夜に取り残されるように響く。



 療養所の東にある浜辺は、夜になると淡く光る。砂粒が月光を受けるからだ。切れかけのランプのように、ぼうっと闇の中に浮かび上がる白銀の光。その中を歩くと、まるで舞台の上にいるような気持ちになった。

「いい場所だな」

 病院服を風にはためかせながら、イザベラが呟く。その声は乾く前のインクのように風に流され、波の音に飲み込まれていった。天上は濃い藍に包まれ、描ききれないほどの星がまたたく。それが常に海の上へと降り注ぎ、世界中がきらきらと輝いていた。その中心に、ぽっかりと白銀の月が浮かぶ。こんな夜更けに外に出たことのなかった私は、朝の海よりも夜の方がずっと美しいことを初めて知る。

 患者棟の一番端にある浴室へイザベラを連れていった後に、そのまま海へ行ってみようと、ふと思い至った。正面玄関の先にある門の鍵は婦長が持っており、一帯は柵に囲われている。しかし、イザベラが私の手を取った瞬間、春の綿毛のようにふわりと体が浮いていた。驚いて隣を見つめると、月光にきらめくイザベラは、笑っているような泣いているような不思議な顔で、唇に指を当ててみせた。

 そのまま柵を越え、水中のように舞い上がるワンピースを押さえながら、海へと続く小道を歩く。普段焼却炉に行く時に使っている小道が、今夜は別人のように私たちを迎えた。

「砂が気持ちいいな。はは、夜の浜辺は冷たい」

 靴を脱ぎ、裸足になったイザベラが浜辺へと踊り出していく。白い砂の上で、黒い影がくるくると回った。足はすっかり良くなっていて、どうやら痛みも特に感じていないらしい。背中の火傷も、完治は難しいものの、ずいぶんと回復していた。

「……ひとつ、お前に聞いていいか」

 ひとしきり砂で遊んでいたイザベラは、ふとこちらに向き直り、静かに尋ねた。小鳥の羽ばたきのように揺れていた髪の動きは静まり、波の音が一転大きく耳に届く。

「お前は何を恐れている? 何が恐ろしい? 」

 いつかの問いの再現だった。

 少し視線をそらすと、月は静かに私を見返している。なぜか、涙が出そうになった。とうに昔の傷が痛んで、ブーツの紐を解く。傷跡のかすかに残ったふくらはぎが現れる。夜闇に包まれて薄暗く染まった肌を、夜風がなでた。空気は美しく澄んでいた。

「私は……」

 涙を流すように強く輝く星々。星を葉に見立てる落木。行き先を見失った落ち葉。絶え間なく周期を繰り返す波。波に運ばれ浜辺に折り重なる砂粒の群れ。消えることのない記憶の累積。

「人間が、恐ろしい」

 するりと答えた自分に驚くと同時に、やはりそうだったのかとどこか冷静に再認識している自分もいた。足元に転がるブーツを持って、白波が立つ方へと歩く。冬の訪れを閉じ込めた海は足指に冷え冷えとぶつかり、やがては遠くへと去る。ふと近くに気配を感じて顔を上げると、髪を吹きさらしにしたイザベラが立っていた。その横顔の輪郭は白く輝き、力強くも儚くも見えた。

「貴方は、魔女が私刑をすると言ったけれど、それは魔女だけのことではありません」

 イザベラは黙って、月明かりに打たれていた。

「昔聞いた、忘れられない話があります。私が暮らしていた街の近くで、魔女の村へと向かう道をふさいだ者たちがいました。そこに軍隊が来て、バリケードもろとも彼らを撃ち殺し、燃やしていったそうです。その先にある村も崩壊し、辺り一帯は焼け野原になったと言います。その後、被害を受けた地域が増えたから、今となってはその街がどこにあったのかもわかりません」

 規則的な動きを送り込む海に向けて、ぽんと石を放る。それは水音を立てて沈んでゆき、やがて見えなくなった。石が息絶える瞬間を、きっと私が見ることはない。いつかその石のことも、忘れてしまうのだろうか。

「人間は……そういう存在です」

 ワンピースのすそがはためく。潮の匂いをした風が通り抜けていく。振り返ると、療養所が暗闇にぼんやりと浮かび上がっていた。イザベラも、追いかけるようにして視線を向ける。

「だったら、看護婦など辞めてしまえばいいじゃないか」

 私は、黙って首を振る。ほつれた髪が、夜風で小舟のようにゆらゆら揺れていた。カルヴァン婦長や、療養所の同僚たち、笑顔で退院していった患者たちの顔が、次々と頭に浮かんだ。

「それでも……それでも、私は、人間ですから。人間に看護をされた、人間ですから」

 イザベラは私の少し先を歩きながら、黒い髪を闇に溶かす。ワンピースのすそが足をなぞる。波が三巡するほどの間の後、彼女は「そうか」とだけ小さく返した。

 月明かりの浜辺は、時を止めたかのように穏やかだった。すべてが闇と月光の中に溶ける。私とイザベラは、いつまでも終わることのない波の動きを、ともに眺めていた。



 イザベラは数日後に療養所を退院し、数か月後に死んだ。

 あの浜辺に倒れているのが発見されたそうだ。発見したのは、「贈り物」集めの当番をしていた看護婦だった。その時にはすでにこと切れており、漏れ聞いた話によると、死んでから数時間は経っていたと言う。私はその日、職員棟の配膳担当をしていた。配膳室の中でささやき合う看護婦たちによって、一報を知ったのだった。

 犯人はついに見つからなかったそうだ。魔女に恨みを持つ者だと言う者も、患者が真犯人だと疑う者も、魔女同士の争いの果てだと力説する者もいたが、結局有力な証拠は何も見つからなかったらしい。警察の調査は終わり、浜辺の血は取り除かれた。あの憶測をあてにして私にあれこれ聞いてきた看護婦たちには、私にはわからないし、わかるよしもないと告げた。カルヴァン婦長も、何も言わなかった。

 一時期、療養所は新聞社の取材でてんやわんやになったが、今はそれもすっかり落ち着き、元の静けさを取り戻している。ただ、いくらか患者は減ってしまった。完治前に療養所を去った患者のことが心残りだが、今は残っている患者の看護に専念しなければならないだろう。

 療養所の玄関には三段の石階段がある。左右に草花の植えられた階段だ。段差はさほど大きくはないから、幸い患者がつまずいたことはない。ただ、朝夕の潮風によって風化しているから、上り下りするとブーツの裏がざらついた。

 階段としてはとりたてて特徴のないそれには、今日も贈り物が置かれている。一番多いのが花と果物。他にも、木の枝や小瓶をちらほらと見かける。

 今日の業務は、贈り物をバスケットに入れ、療養所の近くにある浜辺へと持っていくところから始まる。風であちこちに吹き流された贈り物を拾い集めると、小さなバスケットの底が埋まる。拾い残しが無いかを確認し、私はワンピースのすそを軽くはたいた。

「贈り物」が魔女の謝罪か、それとも謝罪に見せかけた嘲笑か、私にはわからない。ただ、今日も焼却炉に流し込む。煙が上がる。あの中に彼女からの「贈り物」は無いはずなのに、その煙が葬式のようにも見える。

 あの月の夜、イザベラは私に言った。

「私も昔は人間を憎んでいたさ。しかしある時、人間に助けられてね」

 私は、療養所へと続く小道を歩きながら、彼女の話を聞いていた。

「軍人だった。彼の味方は私らの集落を焼き払っていったが、その男は肩にけがを負っていた私を逃がしてくれたのさ。今でも思い出すね。魔女たちを焼いた炎で、その男からもらったパンをあぶった」

 乾いた笑いが風に消えていく。あおられる髪をなでつけながら、イザベラは私に向かって手を差しのべた。そして柵の頂上にそっと爪先を下ろし、祈りをささげるように月を仰ぐ。青黒い髪が、しなやかな翼のように広がっていた。

「……その男が言ったんだよ。『苦しい時には、ヘイズワース療養所に行け』とね」

 堤防から世界を見渡す。空の景色をくすませて映す海は、使いようを持て余した巨大な鏡のようだった。そこを冷たい風が渡り、表面を波立たせる。滑るように、薄黒い雨雲が通っていく。その間を縫うように光の柱が差し込み、海中の石を照らす。

 ヘイズワースには、よく通り雨が降る。療養所や浜辺を平等に湿らせ、その水は海へと還る。そしていつかは雲になり、大地に雨を降らせる。

「ライラー」

 私はバスケットを持ち直し、ゆっくりときびすを返した。


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