愛の証明のショウシツ

第15話 電車内①

 ぐるぐると同じところを回り続ける環状運転は、いつになったら休めるのだろう。


 一時だけ駅が止まり、そのたびに録音された女性の声で駅の名前が告げられている。軽快な効果音が流れて電車のドアが閉まった。その音を何度も耳にしながら、平田はさっさと最寄りの駅についてくれと願った。胸の奥底からため息を吐く。ため息をすると幸せを逃す、なんてと言われるがそんなの迷信だ。だって、ため息を吐くことで多少は落ち着いたからだ。


 車内のどこかで着信音が鳴り響いていた。気に障る音は不快そのものだった。やはり山手線だとマナーの鳴っていない輩が集っていくものだと諦めようともするが、何度だって着信音は鳴り響いて眠気を阻害する。


 教師の仕事はとても疲れる。いつもこの時間帯に電車に登場するのは、もはやルーチンワークとなっていた。座席に張り付いた腰は重くなって席から離れなかった。車内に流れる無機質な駅名のアナウンスをまどろみながら耳に入れ、まぶたをきつく閉じた。心地よい一定の振動と、静かな闇を感じる。正午から雨が降っており、この夏場の蒸し暑さにひっつく肌は、車内の適度に効いた冷房がひんやりと冷えていく。


 はやく駅に着いてくれ。


 このぐるぐると回る回線に乗っていると、自分がこの場所から一生出られないのでは無いかと錯覚してしまう。このままとらわれていつまでも同じ所に捕らわれ続けてしまうのだと、特にこの日は強く思った。疲れていると、終わりの無いことを考えてしまう。終わりのない答え。そうだ、あの日も今日と同じように蒸し暑い日だった。


 しとしとと、べたついた雨が降った放課後のこと。その後ろ姿を憶えている。フェンスの向こう側でつよい雨風に髪をゆらし、学校の屋上の淵から足の裏を半分ほど前進させて立っていた。闇に染まった空の下で、ふわふわとした雨をまとわせて不安定に突っ立っている。彼女は順当に倒れていく見えないドミノに、背中を押し出されたかのように自然と傾倒する。


「やめ───」


 濡れた髪は彼女の表情を覆い隠す。倒れ込む彼女が、夏が生み出す濃い闇に一瞬にして吸い込んでいく。どしんと肉が固いものに速度を上げてぶつかった音を耳にした。彼女は目の前で飛び降りたのだ。雨に流されていく血の幻想が目の前で刻々と流れていく。


 今から数年前、とある生徒一人が飛び降り自殺をした。そんな事実を、平田の同僚である教師達は忘れようとしている。吐き気をする考え方だ。あんなことがあったのに誰一人として闇を抱えないよう気丈に振る舞っている姿が、滑稽などころか邪悪な存在に見えてしかたない。


 平田は周りの人たちのように彼女のことを忘れることなどできなかった。

 どこかで未だに着信音が鳴り響いている。


「先生?」


 ぴりりと、鳴っていたスマートフォンの音が止まった。平田が声がした方へと視線を向ければ、どこか見覚えのある懐かしい少年が隣の席に座っていた。大人らしくない声だと平田は思った。少年から大人に変わる前の、わずかな儚げを含んだ声色は中学生教師の平田にとってずいぶんと聞き慣れた声だった。


「大丈夫ですか? 顔色がずいぶんと悪いようですが」


 少年が手に持った携帯を胸ポケットに仕舞い、心配そうに顔色を伺う。冷たい雨にずっと触れていたせいか、リンゴ色に染まる頬がまぶしかった。


 今の今まで、私はなにをしていたのか記憶が曖昧だった。まるでごっそり過去の一部が、だれかに手づかみで取り除かれたかのような違和感だった。そんな奇妙な感覚に、唐突に押し黙ってしまった私に「急に黙ってしまったので焦りました」と微笑む彼に、平田は素直に謝った。


「すみません。教え子にこんな姿を見せるつもりなんて、なかったのですが」


 口にしてから、今更ながらに記憶から掘り起こした彼の名前を言う。彼は平田の元教え子。中学では担任を務めていたのが平田だった。

 彼の名前を呼んだことに、少年は嬉しそうにはにかむ。


「先ほども言いましたが、影の薄い僕のことを憶えててくれて嬉しいです」

「教え子と会うことも、教師にとって喜ばしいことですので」


 ありがとうございます、と彼はいう。しかしすぐさま顔色を変えた。


「お疲れですか」


 切り込まれたかのような言い方に戸惑い、しかし平田は大きくため息をはく。今度のは心の奥底からくる観念からの吐き出しだった。


「少し疲れてはいますね。やはり、今日という日は特に」


 今日がそう、あの飛び降り自殺した生徒の月命日だと考えてしまえば、いつも以上に疲れを自覚してしまう。より明確な答えがあるとなれば、倦怠感を無視などできない。


「今日という日ですか?」

「ええ。憶えていませんか? あの事件のことを」


 当時は生徒と教師とではあの事件の内容の詳細に差異が生じていたことを思い出す。それでも今日は一人の生徒がなくなった日なのだ、「宮野愛という生徒に聞き覚えはありませんか」と平田が尋ねると、彼はああ、あの事件ですね。と苦笑を浮かべた。

 その表情を不思議に思っていると彼は、


「当時はクラスメイト全員が騒いでいましたよ。確か……」


 その後に続いた言葉に、息が止まった。


「たしか行方不明事件ですよね」

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