第13話 喫茶店⑧
冷え切った珈琲をすする後輩ちゃん、柊はふかくため息をついた。ちいさく「やるせないですね」とこぼす。
「人が死ぬ話に、言いも悪いもないと思うけども」
「私はせんぱいとミステリを語り合いたかったのです」
こうまで悪意が絡まることなんて、せんぱいと話したくはなかった。そう苦笑をこぼして、後悔しているような笑みを浮かべた。
「せんぱいさん」
「どうしたの、柊くん」
僕は自然と彼女から視線を外して、隣席へと向ける。いまだ灰色の繭はそこにあった。当然と言わんばかりに存在する遺体は弟の美春だと今の僕ではどうでもいいぐらいにわかっていた。
柊は静かにソーサーへとカップを置く。
「兄が死んでもいいと思うぐらいに、愛が強いと思うのなら」
たとえ僕に聞こえなくたっていいと思えるぐらいの音量で、彼女は苦々しく表情でつぶやく。僕はそれを聞こえない物として「後悔はしているよ」と言った。
弟の遺体状況と兄の遺体状況はせきららだ。少なくとも、弟は兄より先に死ぬつもりだったことはどうでもいいぐらいにわかっていること。
灰色の繭。湿った液体をしたたらせる、顔の見えない遺体。
「どういうことですか?」
「低体温症を低減させるにはまず、乾かすことだ。体力を戻すよりも意識をしっかり保つことよりも、最初になによりも保温することが望ましい」
彼はすでに放棄していた。ぬれた衣服で包まり、まるで繭のように包まれた天野は明らかに不自然だ。この現状まで持って行った彼がやるべき手段じゃない。より計画自殺を正確にするべき段取りとしては的確だが、兄に荷物を捨てさせる時点で叶っている。
「彼は兄より先に死んで、そして、かつ兄には死んでほしくはなかったと思う」
柊は何も言わなかった。せがむような視線が僕に突き刺さっているのがわかった。
「それじゃあないと、あんな苦しんだ表情で死んだりはしないさ」
僕ははっきりと灰色の繭にくるまれた彼の表情を見た。苦痛にゆがむ彼の表情は、ただひとりすべてをやりきった男がみせる顔じゃない。命を削って愛する家族のために保険金を残す覚悟を決めた人間にしてはどうでもよすぎるものだった。
「いい話ができたかな」
「せんぱいさん」
僕は静かに呼び鈴を鳴らす。会計のお時間だ。柊がおすすめする珈琲を堪能し、やるせないお話を聞き遂げた今は自然と店のドアへと身体が向かう。
「どこに行くんですか」
「今日は帰るよ。また明日ね」
「また、お話しできますか」
「もちろん。君のことを、いつでも僕は待っているよ」
僕はいつもどおり、どうでもいい返事を返した。
※※※
ガラス張りのドアが閉まってしばらく。柊まことは立ち上がれなかった。はじめは追いかけようと逡巡したのだが、すぐに腰を下ろした。今の柊の姿で彼を追いかけ回してしまえば、あとで問題となりかねないからだ。彼とこんな近場で出会えた今をただ好機だと捉えようと精神を沈静化させる。
肩を落としてため息をつく。卓上に大雑把に並べられたスクラップを眺め、唐突に思い出して慌てて回収する。秘匿性の高い書類だ、こんな公共の場所で気軽にさらけ出していいものじゃないことを今の今まで忘れてしまっていた。綺麗になったテーブルを喫茶店のマスターが近寄ってきて、布巾で拭いていく。昔から見知った相手だ、私の個人的事情も把握しているから深くは追求してこない。
今の柊の格好である警察の制服にだって気にもとめず、ただ目を合わせるだけでマスターは去って行く。私はその背中に小さく頭を下げた
胸元のスマートフォンが震えた。私はすばやく手慣れた動作で通話に出る。
「柊です」
相手は私の直属の上司の課長だった。その声は、静かに怒りを称えていて背筋が自然と伸びる。私の報告なしの勤務時間を問い詰めたいようだった。たしかに昼食時間はゆうに過ぎていた。私は言い訳のように今日の予定を口にする。今日は同僚の葬式に出るために、普段は着用しない警察制服を身につけていた。普段は制服姿で公共施設を使用しない、けれど今日はコートを羽織っていたから昔なじみの喫茶店へとこれたのだ。
「ええ。はい、申し訳ありません。しかしひとつ進展がありまして――――」
いいわけついでに言葉を紡ぐ。それはあの神出鬼没のせんぱいさんの一つ特技でもあった、狙い澄ましたかのようないいわけ術。
「どうでもいいのですが、『T山遭難事件』の被害者の一人、ええ、私の同僚の空野です。課長、ずっと気になっていましたよね。なんで山に熟知していた彼奴が低体温症でやられたのかって」
電話先の空気が一瞬、静寂に染まる。私はどこかで手応えを感じた。あの有名なT山遭難事故はここ最近でニュースを騒がせた。特に『現役の警察官が山で遭難事故死』は多くの注目を集めてしまっている。世間を騒がせている登山ブームも相まって非常に致命的な問題を起こしていた。
それがもし、誰かが起こした計画だったら?
おいそれと見逃していい予測ではない。世間を揺るがす一大事となり得る一手だ。
電話先の課長は覚悟を決めたような声で戻ってこいと促し、私は通話を切る。安堵の息を漏らし私は肩をすくめる。
もう一度、振り返るともうせんぱいさんの姿は見えなかった。制服に染まった彼の学生服姿を思い返す。しっかりと柊の記憶には、彼の姿を思い描くことができるのだが、それでも、なぜかはっきりと自分の中で『彼の姿』を確信が持てない。
すべてが曖昧だった。どうでもいい人、なんて嘯いてしまってもいい。
雑踏の中の視界の端に写った顔見知りの人、その程度まで認識が低下しているかのような違和感。幻想、そして思い出の中の先輩が目の前に居た。
そんな夢物語。
彼とまた会える日はいつなのだろうか、柊まことはしずかにその日を望んだ。
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