返却期限日

鷲羽巧

Return Day

 ブーク氏をゲイルと名付けたのは彼の伯父だった。伯父は若いころ戦闘機に乗っていたが、軍を辞めてからは故郷に帰って古本屋を開いた。白内障が悪化すると彼はブーク氏に本の朗読を頼むようになった。店のなかから彼の指定する本を持ってきて読み聞かせた。ブーク氏に指定させてくれることもあった。一冊読み終えるたび、十セント硬貨が一枚支払われた。ブーク氏十二歳の、それが唯一の収入だった。はじめの頃、硬貨はアイスキャンデーに使われた。『連合艦隊の宇宙戦士』を読んだとき伯父は退屈そうにしていたけれど、いつも通り十セントをブーク氏に渡してくれた。ブーク氏は十セントを伯父に返した。『連合艦隊の宇宙戦士』はブーク氏のものになった。うちは高級な店なんだと伯父は云った。けれども翌る週には『土星の月の種族』が棚に陳列された。同じことを一年も繰り返す頃には、店先の棚には色とりどりの本が並ぶようになっていた。




 町は小さく、平らだった。近くの湖は暖かくなると釣りびとで賑わった。ブーク氏は父親に一度だけ釣りへ連れていってもらった。大きな湖は霧が出ると向こう岸が見えなくなって海のようだった。この湖には竜がいるんだよと父親は語った。湖の底は海と繋がっている、ひとりで遊んでいた竜は親にここへ置いていかれたんだ、霧に紛れて町に獲物を探すんだよ。彼の兄から聞かされたお得意の昔話だった。ブーク氏に釣りはつまらなかった。しかし昔話はよく憶えていた。町に霧が出るたび、ブーク氏は霧を掻き分けて進む重い足音を想像した。




 朗読をはじめてから二回目の春。「好きな本を選びなさい」と伯父が云った。前日に『恐怖の惑星』を読み終えたブーク氏は伯父好みのものを選ぶことにして、何年も本が捌けていない奥の棚を探した。天井まで積み上げられた本はどれも重厚で、膝に乗せて開くだけでも疲れそうだった。つま先立ちしているうち、詰められた本と板との間に押し込まれている一冊を見つけた。引っ張り出すと小ぶりで軽く、芥子色の表紙に自動車がたくさん描かれていた。場違いに紛れ込んだような本だった。遊び紙に鉛筆で書き込みがあった。「さようなら、いままでありがとう」。本をカウンターまで持っていくと、じゃあ次はディケンズを持ってきてくれと伯父が云った、「朗読用だ」。じゃあこれは何とブーク氏は芥子色の表紙を指で叩いた。「それはお前の本だ」。伯父は云った。「お前が選んだ本だ」。その日はブーク氏の誕生日だった。十四歳。ディケンズを読む声は、すっかり低くなっていた。




 夜。ベッドのなかでブーク氏は本を開いた。芥子色の本には一年の祝祭日にちなんだ短篇が載っていた。一月一日から十二月三十一日までの十九篇を、「返却期限日」と「誕生日」が挟んでいる。ほかの短篇を差し置いて、ブーク氏はいちばん最後の「誕生日」を読みはじめた。「彼がこの本を棚から見つけ出したとき」とその小説ははじまっていた。「彼は上段に手が届くくらいに成長していた」。ブーク氏は毛布をはね除けた。辺りを見回した。誰もいない。本に戻った。「その本を彼は自分への贈りものだと思った」。本を贈り合うふたりの物語だった。美しい物語だとブーク氏は思った。眠りに落ちるとき、彼は本を抱きしめていた。




 読むのは一日に短篇ひとつ。ハロウィーンにちなんで、誰もが仮面をつけた国の物語があった。レイバー・デーにちなんで、箱の中に閉じ込められた小説家の物語があった。父の日にちなんで、夜ごと父親に記憶を奪われる少年の物語があった。バレンタイン・デーにちなんで、凍った時間に囚われた恋人たちの物語があった。楽しい物語があった。悲しい物語があった。理解できない物語があった。難しいものが大半だった。「誕生日」から順番に、ブーク氏は遡りながら読んだ。




 「返却期限日」までたどり着いたときブーク氏は、ページが開かないことに気づいた。扉のページと最後のページが切り離されないで袋のようになっていた。あるいは糊で縁がくっついているのかも知れない。父親は珍しい乱丁だと感心した。鋏でページを切ろうとする彼をブーク氏は止めた。製本の間違いでも誰かのいたずらでも、本のページを破り取ることはきっと、伯父さんが許さないからと。




 店を訪ねたブーク氏に伯父はまた朗読を頼んだ。「お前が選んだあの本を読んでくれ」。開かないページの開き方をブーク氏が訊くより先の頼みだった。リンカーン誕生日の物語を語り聞かせようかブーク氏は迷った。扉のページを開きさえした。カウンターの奥、ブーク氏の隣で、アームチェアに伯父は身を預け、目を瞑っていた。ブーク氏は話しはじめた。リンカーン誕生日の物語ではなかった。本のどこにも載っていない話だ。タイトルは「返却期限日」。それがはじまり。それが最初だった。




 「返却期限日」はさらにふたつ作られた。ブーク氏は伯父の誕生日に、「誕生日」と題した物語を語り聞かせた。四つ目のこの物語を聞き終えると伯父はもう一度話してくれと云った。もう憶えていないからと断ったブーク氏に、伯父は片目を開けて笑った。「書いておくことだ。そうすれば何度でも読めるし、話して聞かせることだってできる」。十セント硬貨でブーク氏はノートと鉛筆を買った。すべて一冊のノートに収めた。芥子色の本は部屋の本棚に押し込んだままやがて取り出さなくなった。




 伯父に店番を任されるようになった。渡される硬貨は紙幣に変わった。はじめてできたガールフレンドの誕生日にブーク氏は短いお話を捧げた。煙草屋の娘だった。彼女のためにブーク氏は、本を買うのを我慢しさえした。吸いもしない煙草の箱がカウンターの隅に積み上がるのを伯父は訝しんだ。




 大学へ行くために町を出た。出発の朝、恋人は駅まで見送りに来てくれた。手紙を送るからと彼女は云った。手紙を返すよとブーク氏は云った。「物語を贈るよ」。彼は約束を守り続けた。どんなに短くとも、手紙に必ずお話を添えた。




 大学では英文学を学んだ。友人たちは心からディケンズを愛していた。ブーク氏は彼らの目を盗むようにして安手の紙のサイエンス・フィクションを読んだ。恋人との手紙の往復は段々と時間がかかるようになった。最後の往復には四ヶ月かかった。あなたのお話はどれもつまらないと彼女は書いていた。「さようなら、いままでありがとう」。ブーク氏は手紙をノートに挟んで机の抽斗にしまった。以来ブーク氏は煙草を吸うようになった。ペーパーバックを処分した。話のわかるやつになったと友人たちは喜んだ。ブーク氏がノートに何も書かなくなったことにも、彼が酔うといつも語り聞かせていた物語がめったに話されなくなったことにも、級友たちは気づかなかった。




 ブーク氏は『連合艦隊の宇宙戦士』の版元に短篇小説をふたつ送った。返事はなかった。




 ブーク氏は大学を中退した。軍隊に入った。パイロットを志願したが却下された。視力が悪かったからだ。遠い大陸の戦場に歩兵として送り込まれた。更新され続ける国境の近くで、ブーク氏は夜ごと自分の身を抱くようにして眠った。夜霧に紛れて進行する竜の、重い足音を思った。半年も経つ頃に手紙が届いた。配達に時間がかかったのだろうよれて黄ばんだ便箋に、母親の筆跡が綴られていた。伯父が死んだことをブーク氏は知った。帰国を申請し、却下された。けれど三日後、右脚を負傷するとすぐに許可が下りた。勲章も与えられた。病院で臥せるブーク氏を上官が見舞った。気まぐれの訪問だったのか、あるいは最初から目をつけていたのかブーク氏は知らない。上官はブーク氏の枕元から『クリスマス・キャロル』を取り上げて、「ディケンズは好きか?」と訊ねた。ブーク氏はこたえた、「大学で勉強しました」。「クロスワードパズルは好きか?」。ブーク氏はうなずいた。嘘だった。彼は疲れていた。




 帰国すると、ブーク氏は暗号解読の部署に配属された。彼は生まれてはじめてコンピュータと云うものを見た。明かり取りに窓があるだけの小さな部屋に閉じ籠もり、日々吐き出されてくる数字と流れてくる通信を彼は英語へと変換し続けた。どこかでこんな話を読んだような気がした。ノートを一日で一冊使い潰した。朝に解読をはじめて夜中に解読をやめることの繰り返し。自分の仕事を誰かに話すことは禁じられた。もとより友人との交流は途絶えていた。伯父の墓に花を手向けに行った一度きり以外、家族とも会っていなかった。黙々とした仕事ぶりが上司に評価された。「こんな熱心に解読する者は見たことがない」。与えられた文章を原型のわからないほどに書き換えるそれが解読に過ぎない作業だと、ブーク氏には信じられなかった。あくまで翻訳者だとブーク氏は思った。手に入れた言葉の断片から彼は遠い戦場のいまを推測した。推測するにとどめた。想像することはなかった。毎日ノートを一冊埋め尽くして表紙を閉じる一瞬、その一瞬だけ、彼は昔のことを思い出した。あの芥子色の本はどこにしまったろう。




 軍に新型のコンピュータが導入された。新しい手法が採用された。ブーク氏はお払い箱になった。故郷に戻ろうとブーク氏は決めた。帰路の荷物は軽かった。駅のキオスクで新聞を買った。列車のなかで記事をひとつひとつ読んでも、自分の国がどこの国とどうして戦争していたのかわからなかった。日付だけが確かだった。町を出てから十年経っていた。




 列車は混み合っていた。みんな湖を訪ねるのだと云う。湖面から顔を出す首長竜の写真が新聞に載っていた。向かいの席から男の子がブーク氏に話しかけた。「恐竜を探しに来たんだ!」。ブーク氏は頬笑んだ。「おじさんもだよ」。




 伯父の店は主人を失って以来誰にも使われていなかった。シャッターが下ろされてなかが窺えない。店先にはワゴンが放置されていた。長い間雨ざらしにされ、詰め込まれてある本もぼろぼろだった。手に取るだけで塵になり消えてしまいそうだった。すべてペーパーバックだった。『太陽のオデッセイ』。『滅びゆく赤い星』。『最後の砦』。ブーク氏が町を出てから発売された本もあった。町を出てからはじめてブーク氏は泣いた。




 両親は快くブーク氏を迎えた。彼らは歳こそ取っていたが老け込んではいなかった。部屋は少年の頃のまま残されていた。ブーク氏は自分だけが大人になってしまったような気がした。本棚の下から三段目に芥子色の本を見つけた。こんどはそれをひと晩で読み終えた。馬鹿馬鹿しい物語があった。痛ましい物語があった。数篇については、何が書かれているのかようやく理解できた。「返却期限日」は相変わらず開かなかったが、ページの端を少しだけ剥がすことができた。無理にめくろうとはしなかった。そこに何が書かれているのかをブーク氏は想像した。想像するのは久しぶりだった。翌朝リビングに降りると彼は両親に、伯父の店を継ぎたいと申し出た。




 店の名前は変えなかった。伯父の遺したものを親族の誰も手を付けていなかった。棚のコレクションがどれだけ豊富なのかブーク氏はいまになって知った。うちは高級な店なんだと呟いた。店に新しく増えたのはひとつだけ、新式のタイプライターが一台、カウンターに乗せられた。客の応対をしていないときブーク氏は両手のひとさし指でそれを叩いた。。タイプするのは日々の憶え書きのこともあれば、「返却期限日」であることもあった。店頭のショーウインドウにはディケンズとチェスタトン(同じ本が何冊も揃っていた)を並べた。そのわきに芥子色の本を置いた。張り紙を一枚添えた。「同じ本を探しています」。




 芥子色の本について、ブーク氏は作者の名前も本のタイトルも聞いたことがなかった。図書館に訊ねても蔵書はなかった。幾つもの書店からカタログを取り寄せ、つぶさに調べた。どこにも、芥子色の表紙に記された名前は見つからなかった。知人にだけ配られた少部数の私家版ではないかとブーク氏は考えた。だとすれば近い場所を探した方が、かえって見つかりやすいかも知れない。長い時間をかければいずれ出会うこともあるだろう。二ヶ月も経つとブーク氏は、積極的に探すことを諦めた。もちろん「返却期限日」は読んでみたかった。けれどタイプライターを使えば幾らでも、同じタイトルの物語を生み出すことができた。




 店で最初の春を迎えた。常連が十一人できた。伯父を憶えてくれている客はたくさんいた。タイプライターはすでに本三冊分を書いていた。出来上がった物語をひとに読ませようとは思わなかった。ブーク氏は自分のために打鍵した。自分のためだと思わなければキーを打てなかった。カシャカシャと小気味良い音に客たちはやがて慣れた。慣れた者が常連になった。




 派手な色使いをしたペーパーバックをブーク氏は取りそろえた。常連の少年は、硬貨を握りしめて店を訪ねるたび、そんな本をワゴンから一冊買っていった。少年はカウンター越しにいつもタイプライターを見つめた。もの欲しそうな目にブーク氏は折れた。少年がタイプライターを打つようになった。給料は十セント硬貨一枚。はじめはブーク氏が原稿を読み上げてやっていたけれど、少年の打鍵が追いつかないとわかってからは、家から持ってきた古いノートを清書させた。ノートの内容はつまらないとブーク氏は思った。少年は黙々と打鍵した。そんなに楽しいかと少年に訊ねた。彼は頷いて破顔した。「書くのって楽しいね」。ノートから手紙が滑り落ちた。拾い上げて読んでみても、ブーク氏には何とも思えなかった。その夜、煙草屋の娘は結婚して隣町に越したことを母親から聞いた。




 一年も経てばタイピスト見習いの少年は店に通わなくなった。そう云うものだろうとブーク氏は思った。落胆はしなかった。広く感じられるようになったカウンターを整理していると、抽斗にしまったきりのカタログを見つけた。試みに小説のタイトルだけでクロスワードパズルをつくった。新聞社に送ると次の週の日曜版に載った。同じ趣向のものをつくってみる気はないかと求められ、ブーク氏は応じた。今度は芥子色の本を混ぜた。反応を待った。寄せられたのは苦情だけだった。常連のひとりは直接訊ねに来さえした。新聞社との付き合いもそれきりになった。「クロスワードはお嫌いですか」と新聞社は訊いてきた。「どうしてこんな仕打ちをしたのですか」。ちょっとしたいたずらだったとブーク氏は返信した。上官の言葉を思い出した。暗号が解けるようになったからクロスワードが得意になったとブーク氏は笑った。客の訝しむ目にも構わずひとしきり笑ったあとで顔を上げた。タイプライターが新しい紙の装填を待っていた。




 芥子色の本はショーウインドーからさげられた。ブーク氏はわきにその本を置いてタイプライターを打鍵した。「彼がこの本を棚から見つけ出したとき、彼は上段に手が届くくらいに成長していた」。一行の空白。「魔物が現われた日、彼は壁に提げられた斧をなんなく握ることができるようになっていた」。一行の空白。「故郷に帰ってきたとき、ぼくは町がずっと小さくなったように思えた」。三つの行を数分じっと見較べたあと、ブーク氏は最後の文の続きを書きはじめた。夕暮れには小説が完成した。タイトルは「ぼくが生まれた日」。青年が自分の出自を追う際に登場する両親の馴れそめとして、彼らの文通を設定した。「誕生日」を読んだことのある人間ならここで、本と手紙が置き換えられているとわかるだろう。読者はきっと見つけるはずだとブーク氏は考えた。その手紙はあなたへ宛てられている。




 雑誌との契約は呆気なく、掲載は迅速だった。筆名は使わなかった。たいした反響はなく、問い合わせもなかった。お話が高級すぎたかも知れないと編集者が云った。「きみは技量がある。だから次はもう少し読みやすくしてほしい」。ブーク氏は「魔物が現われた日、彼は壁に提げられた斧をなんなく握ることができるようになっていた」とはじまる小説を書いた。編集者は驚いていた。「まるで作風が変わったね」。同じ話だとブーク氏は返した。




 その通り。本当に同じ話だった。芥子色の本からひとつ話を選んでいちから書き直す。ひと目では原型がわからないほど徹底して。ときにはブーク氏の空想が、物語の空白を埋めて枝葉を伸ばした。複数の物語を重ね合わせもした。それでも読めばきっとわかるはずだとブーク氏は信じた。同じ鍵を手に入れていれば複雑な暗号も容易く復元される。同じことを語っているならどれだけ翻訳しても通じるはずだ。メッセージはいつも同じだった。「わたしはあなたを知っている」。




 メッセージを送るのに「返却期限日」は役に立った。様々に想像した幾つもの「返却期限日」を、別の日付の話の鋳型に流し込んでやればすぐに話を作ることができた。常連のひとりに話しかけられた、「あなたの小説は面白い」。まったくつまらないよとブーク氏はこたえた。「ただ、書くことは楽しいね」。常連は口許をほころばせた。かつて少年だった常連は、ひとのタイプライターで小遣い稼ぎする必要もないくらい、精悍な青年になっていた。




 一年間の物語を書き直してふた巡りもする頃、ブーク氏には原稿を送る前に依頼が来るようになった。長篇を書いてくれないかとも云われた。躊躇うブーク氏に、かつて常連だった店員が云った、「いつもと同じように書けば良いじゃありませんか」。長いだけ、想像を巡らせる余地も膨らむんですから。だからいつもと同じようにブーク氏はまず小説をひとつ書き、それをいつもと同じようにまったく別の物語に書き換えた。そうして完成した三つの物語をひとつに束ねた。三つの物語は同じことを読者に訊いていた。わたしは誰か? その頃にはもう、芥子色の本はカウンターのわきに置かれたまま、何週間も開かれないことが当たり前になっていた。




 町は変わらず小さかったが、平らでなくなりつつあった。湖の竜を探す客はいなくなった。釣りに訪れる客も姿を消した。湖畔に新しく建った工場が水面を汚していた。何度か抗議運動が起こって、青年はそのすべてに参加した。それでも工場の吐く煙は町を潤した。反対の声もやがて静かになった。運動の同志のなかから青年は恋人を得た。ひと月経って婚約した。ブーク氏は短篇を贈ってふたりを祝った。タイトルは「結婚記念日」。止まった時間に囚われて、幸せな一日を何度も繰り返す恋人たちの物語だった。こんなものは幸せじゃないと青年は口を尖らせた。それはどうかなとブーク氏は、いたずらっぽく頬笑んだ。




 遠い異国の戦争が、いつしか烈しさを増していた。青年も出兵させられた。ブーク氏がかつて戦った場所ではなかったが、きっと似たような戦いだろうとブーク氏は思った。大きな竜と大きな怪獣とが深い霧のなかで互いの影に食らいつくような。暗号解読をするんだとブーク氏は云った。「それなら戦場に行かなくて済む」。? 青年は苦笑した。「ノートとペンの時代は終わったんだよ、おじさん」。すぐに帰ってくると青年は云った。見送りさえ求めなかった。婚約者との手紙の往復は徐々にペースを遅らせながらも最後まで続いた。最後まで。




 古びたタイプライターがブーク氏に渡された。茹だるような夏の日だった。遺品だと云われた。若い未亡人はブーク氏の前で涙を見せなかった。「彼は小説家に憧れていたんです」と彼女は云った。咎める口調はどこにもなかった。むしろ感謝しているようだった。「子供の頃にお金を貯めて買って以来、ずっと使っていたものです」。




 未亡人を見送ってから、インクと原稿を古びたタイプライターにセットした。ブーク氏は一文のみ打鍵した。「さようなら、いままでありがとう」。キーはうまく押し込むことができず、タイプされた文字はずれていた。どうして自分がこれを使っているのだろうとブーク氏は思った。どうしてあの子ではないのだろう。タイプライターをケースにしまった。自分のタイプライターも棚の奥に隠した。もうこれで何かを書くことはできないと思った。




 霧が出ていた。本当は霧ではないとブーク氏は知っていた。遠くに煙突の影を見た。恐竜のようだとブーク氏は思った。




 もう何も書かないと思っていたのに、一週間経つとブーク氏は、ノートと鉛筆を買い揃えた。けっきょくはここに戻ってくるのだ。日がな一日ノートに鉛筆を走らせた。店は前よりも静かになった。店は前よりもずっと広くなった。違う。すべては元に戻っただけだ。




 長い物語にブーク氏は取りかかった。少年が故郷を離れ、旅の果てにまだ戻ってくる。ただそれだけの話をブーク氏は可能な限り複雑に書いた。現実を歪めて虚構をつくった。虚構を現実によって歪ませた。語り手の記す言葉を原型が留まらないほどに書き直した。原稿を送られた編集者は電話口で興奮していた、「こんな物語、見たことありません」。よく知っている話だよとブーク氏は云った、「きみたちもよく知っているはずだ」。行って、帰ってくる。本当にそれだけの話だった。しかしそれがどんなに難しいことか、ブーク氏はよく知っていた。




 新しい小説は高く評価され、よく売れた。ブーク氏は続きを書いた。さらに長い続きをものした。短い脇道も伸ばした。そうして書くことに明け暮れるうち、遠い国との戦争はいつしか終わって、新しい戦争がはじまっていた。母が亡くなった。久しぶりに過ごした実家でブーク氏は「葬儀の日」と云う中篇を書いた。父親はノートを取り上げて怒った。「涙も流さないで!」。ブーク氏がはじめて聞いた、父のどなり声だった。




 ブーク氏に町を離れるつもりはなかったが、出版社が、読者がそれを許さなかった。国の西から東まで彼は旅した。書店や大学で小説について語った。暗号解読していた若い頃のことを話すと聴衆は好奇心に眼を輝かせた。「あなたの小説は一種の暗号なのですね」。間違いではなかった。聴衆の視線はこう語っていた。わたしはあなたを知っている。それは間違いだった。自分を知っている人間たちはもういないのだとブーク氏は思った。自分について話すとき彼はいつも、わたしは翻訳者なのですと語って締めくくった。本心だった。




 いつの日か青年が云った、「あなたの小説は、ずっと昔からぼくのことを知っているみたいに思えたんです」。故郷に帰る列車のなかでブーク氏はいつもその言葉を思い出した。列車が駅へ無事に着くまで彼は決して眠らなかった。薄く曇った車窓を眺めた。大地が水のように砕けて後ろへと流れていった。たくさんの聴衆を前に何か訊ねなければならない気がしたが、思い出すことができなかった。




 昔怪我をした右脚は段々と自由がきかなくなった。重いものを持ち上げることができなくなる前に、店の天井近くから本を下ろした。途端に店内はがらんとした。仕入れる回数を減らした。本は減っていくばかりだった。芥子色の表紙に描かれた自動車の絵が本の山から姿を見せたとき、ブーク氏はつかの間それを売りものだと思った。そのことに自分で驚いた。本はまだ新しかった。日焼けも擦れもなく、伯父の棚から抜き出したときそのままだった。古くなっているのはページをめくる自分の手だけだった。




 小説を書くよりも身辺の雑記を書くことの方が多くなった。目がかすんで文字を読むこともひと苦労になった。子供の頃に読んだ本を最近は読み返すばかりだ。内容を知っているからよく見えなくても思い出せる。小説は読み返すたびに物語が戻ってきてくれる。手に取れば彼らはいつだって帰ってきた。雑貨品も食糧品も、近ごろは値上がりするばかりだ。店の客足が途絶えてから長い。工場が潰れた。スモッグも霧も消えた。竜の影も消えた。父親が倒れた。彼の脳には腫瘍が見つかった。




 病院で顔を合わせた父親はブーク氏を憶えていなかった。お兄ちゃんご本読んでと彼はブーク氏にねだった。ブーク氏は頷いた。ベッドわきのパイプ椅子に腰掛けてポケットを探った。本はなかった。父親は期待に頬を緩ませながら、瞼を閉じてベッドに横たわっていた。ブーク氏は話しはじめた。「湖には竜がいるんだ」。夜ごと記憶のなかの物語を語り聞かせた。父親は一年後に死んだ。冬のよく晴れた日だった。墓は母と伯父との間につくられた。




 小説は売れなくなった。品切れになったまま重版されず本は店頭から姿を消した。まだ付き合いのある編集者は律儀に憤ってくれた。「あなたは忘れられていい作家じゃない」。ブーク氏は呟いた、「本が残るならそれで構わない」。本が残りさえすれば、いつでも物語は読まれる。いつでも物語は帰ってくる。本当だった。ときおり熱心なファンが店を訪れてブーク氏にサインを求めた。ときには海を越えた来客もあった。あなたの本は読まれ続けていますよと彼女は云った。棚が半分も空になった店を見回して、「ここでたくさんの物語が生まれたんですね」と嘆息した。ブーク氏は頷いた。そしてたくさんのものが彼から去っていった。




 長いキャリアと功績を称えられ、ブーク氏は表彰された。勲章をもらったのは二度目です、一度目は戦場でと云うスピーチはパーティの席上で思いのほか受けた。新作の予定はあるかと訊かれた。ブーク氏はつい肯定した。それから取り繕うように慌てて云った、「小説が人間になるお話です」。司会者が興味深げにタイトルを訊ねた。今度は慌てることなくこたえることができた。「返却期限日」。




 授賞式から帰って来た頃には陽が落ちていた。店のシャッターを上げると、ショーウインドウの隅に紙片を見つけた。「同じ本を探しています」。ずっと置いたままになっていることを気づいていなかったのだ。呆れ半ばに笑った。店に足を踏み入れた。明かりをつけた。ここはこんなに空っぽだったろうかと思った。彼は疲れていた。迎える客もいないのにカウンターの奥に座った。芥子色の本はカウンターに置かれていた。本を手に取った。手に取るだけですべてを思い出すことができた。いまならすべての物語を理解できると思った。「誕生日」から読みはじめた。きらびやかな物語があった。残酷な物語があった。しかしそれ以上にすべて、懐かしい物語だった。ページを遡りながらブーク氏は、もしこうでなければと思った。もしこの町に帰ってこなければ。もしこの町を離れなければ。もしノートと鉛筆を買わなければ。もしこの本を手に取らなければ。もし伯父に朗読を頼まれなければ。暦は遡る。よく晴れた冬の日。茹だるような夏の日。何度目かの春の日。「返却期限日」。それは開くことができた。ページは接着されていなかった。糊もついていなかった。だから剥がす必要もなかった。扉は抵抗なく開いた。読むことができるのは当然だと思った。はじめて読んだとは思わなかった。ずっとこの物語を知っていたような気がした。ブーク氏はそれを二回読んだ。「」とその小説ははじまっていた。




 わたしはあなたを知っている。




 遺体は三日後に発見された。店の鍵は開いていた。ブーク氏の表情は曖昧だった。恐怖に引き攣っているように見えた。悦びに満たされているようにも見えた。瞼を閉じて、彼は床に身を横たえていた。空っぽの腕は、けれども何かを抱きしめているようだった。


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返却期限日 鷲羽巧 @WashoeTakumi

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