第11話 弔い(後編)
「は……はぁ? 俺に触れだと? 貴様、馬鹿にしてるのか?」
水嶋が焦り始める。
──やっぱり触りたくないんだな。
和也はさらに距離を詰め、「ん」と声をかけながらブローチを差し出す。
「心配ない。それをつけていればの話だが……」
「うぅ……」
水嶋は素っ頓狂な声を出して後退りする。
和也が水嶋の手に目をやると、ようやくその言葉の真意に気がついたのか、白い手袋をつけた両手をお椀型にして目の前に出した。和也がハンカチごとブローチを渡すと、水嶋は汚物に触れるような手つきでハンカチをめくった。
光沢のある凹凸が水嶋の目を刺激する。白く照らされる蛍光灯で蜘蛛の紋様がはっきりと浮かび上がっていた。
『カチッ』
「わ……な、何だ?」
水嶋が誤って丸い淵の隅から出っ張っていた突起に触れると、蜘蛛が描かれた面が開き中のものが姿を表した。謎の文字が彫られた乳白色の小さな石版であった。それは、ブローチ本体と一体化しているかように固定されており、外すことができない。
「これは……」
後輩の木下が、水嶋の後ろから首を伸ばし覗き込む。
「『神代文字(かみよもじ)』……ですかね?」
「何だよそれ?」
水嶋が若干キレ気味で木下に聞く。
「高校の時に習いませんでしたか? 神代文字っていうのは、まだ日本に漢字が伝わってくる前に使われていたとされる古い文字のことです。いろんな種類の文字が発見されたといわれていますが、その信憑性は定かではありません。多くの場合は御神体に記されていたり、神様に関わる神社や神事などで使われています。普通は厄除けとか良いことに使われたりするもんですが、『呪符』に使われているなんて、奇妙ですね……」
「元々人を呪うために作られたものじゃなかったんじゃないか? これ……」
水嶋は近づく木下の顔面を肩で払い除け、背中で木下の注目を遮りながらブローチをじっくりと観察していた。
「この辺りに『示名』っていう奇妙な風習があると悠子さんから聞いたことがあるが、あんたたちは知ってるか?」
和也は一時的に話題を逸らし、二人に質問する。
「あ~、確か俺の爺さんが似たような話してくれた覚えがあるな」
水嶋は何か知っているようだが、木下は全く珍紛漢のようで首を傾げる。この町の人間全員が知っているというわけではないようだ。
「俺、今五十一だけど、俺らの代ではもうそんな風習廃れてたはずだぞ。何でまだ若いはずの石嶋悠子がそんなこと知ってるんだよ?」
「調べてたみたいなんだ……神津家の示名がある神社を」
「え?」
和也の言葉に違和感を感じたのか、水嶋は目を細め険しい顔で和也を見た。木下は不思議そうに指で顎をなぞりながら何か考えていた。
神代文字というのは一般では使用されておらず、こういうものに単体の文字だけが使われているのも珍しい。悠子はそのブローチが元々神具として保管されていたという情報をあらかじめ入手していた──あの図書館で。
一緒に何十冊にも及ぶ書物を調べていた時、同じ文言が記載されていた冊子を偶然見つけていた。真悠のしおりが挟まれていた冊子だ。
國浜町には土蜘蛛の伝承があり、その妖怪に捕まると地獄に引きずり込まれるという言い伝えがあった。だが、その土蜘蛛は歴史を遡ると、生き物の『蜘蛛』という意味で使われている名称ではなかったのだ。
4世紀頃、『大和朝廷』が設立された時代。一部の村の富豪たちは朝廷の命令に背き、支配欲に溺れ勢力拡大を目論んでいた。『土蜘蛛』は、朝廷に恭順していた者たちが反抗的な豪族に対して使っていた蔑称であり、朝廷の目が行き届かない洞窟などから地上に這い上がり、反社会的行為を働く蛮族として表現されている。
神津家は、大和三冠呪術師(または大和三貴族)という、呪術を生業とする三家の豪族のうちの一族である。この大和三貴族とは、大和朝廷直々のアプローチにより高い地位を得た証明として与えられた称号である。だがその実態は、朝廷を病気や敵勢力の侵攻などから身を守る呪(まじな)いや、朝廷の未来の行く末を占う、所謂助っ人のような存在で、応酬として暮らすには不自由しない金銭を受け取るだけで、特別優遇されているわけではなかった。
しかし、神津家は一定の地位を得たために為体(ていたらく)になり、朝廷以外の依頼を受けるようになる。そこで反朝廷の燐族(りんぞく)と呼ばれる勢力と関わりを持つようになり、そこで新たな呪術を学び、不特定多数の命を奪うことができるほどの威力を持つ呪いを生み出したという。
そのようなことが、昔のおとぎ話のように書物では説明されていた。
その呪術の名称は『煉醒術(れんせいじゅつ)』。それを成功させるには、肉体的な害を伴うと云われている。人間の血肉を細切りにし、それを黒くなるまで炙って炭を造る。その炭を利用して書くことで強力な呪力を得た札が完成する。その材料として狙われたのは、幼子を誘拐する山賊や奴隷、または障害などの何らかの理由で親から捨てられた子供であった。神津家の家宝であるブローチに描かれていた蜘蛛は、その狡猾さと強欲を意味するものであった。
何世紀にも渡った後、その呪符の力を恐れた後代の子孫たちが人目につかないように複数回に及ぶ浄化の儀式を経て神社に隠したという。
その呪符というものが数百年後ブローチとしてカモフラージュし、自分の代でそれが渡ってきたと悠子は推察していたのだ。悠子が探していたのは、その『呪符が封印されている神社』であった。
義母である志也真紀江は、同じ三貴族の別の一族・志也家の末裔であり、専門知識が高かったため、手短にこの存在を探り当てたと考えられる。どのように呪い返しを行ったのかは定かではないが、和也の理解に及ばない情報を義母が握っていることは確かであった。悠子は後一歩のところで、この正体不明の力に負けてしまったのだ。
──悠子はこの中身を知っていたのか?
しばらく考え込んでいる間、水嶋の携帯が鳴り響く。
「ん、水嶋だ。……分かった、すぐに送り返す。おい、岩井。神津真紀江さんが病院に到着したようだ。お前はもう戻ったほうがいい。霊安室で待っているようだぞ」
「お義母さんが?」
「お前が何を考えているか分からんが、少なくとも深入りするとろくなことにならん。あくまでもまだ未解決事件なんだ」
水嶋はそう言いながら慎重にブローチを返す。
警察の通報後、連絡できる身内として義母の連絡先を教えていた。実家で一悶着あり、まさか来るとは思わなかったが、最後に悠子に謝りたいと言ってきたようだ。
──義母がこんなことをしなければ、悠子は助かったのに……。
悲観に暮れ、説明できない痛みが胸の奥から込み上げてくる。
──真悠と悠子の未練を晴らしてあげないと……。
和也は勢いよく資料室を出ると、虚無の廊下を駆け抜けた。
「岩井さん、こちらです」
担当医が和也を案内し霊安室に通される。頭上には線香が炊かれ、白い布から顔だけ出した冷たくなった悠子が横たわっていた。感情が抑えきれず、目の奥に溜まっていた涙が溢れ流れ出す。義母は部屋の隅に置かれた椅子に呆然と座り、何も言葉を発さなかった。
和也はゆっくりと悠子の側に歩み寄り、腰を曲げて悠子の額を撫でる。この光景を見るのは初めてではない。真悠が亡くなった後も、冷たくなった彼女の顔を優しく撫でてあげたことがある。死んでいるという事実は変わらないし、分かっているつもりだった。だが、まだ眠っているだけのような、現実感のなさが心のどこかに残ってしまう。ファミレスで初めて見た、頬をふっくらとさせた子供のような笑顔が頭から離れない。
「悠子さん、あとは僕に任せてください。あなたがやりたかったことがようやく分かったんです。あなたがこのブローチで苦しんでいる救われない魂があることを見透かしていた。あなたが恐れていたあの『傷』が、全てを教えてくれたんです」
和也はポケットからブローチを取り出し、包められていたハンカチをそっと外す。
「和也さん!」
今まで話さなかった義母が声を上げて立ちあがろうとした。和也は素手でそれを触り、出っ張りを押して本体の呪符を見た。その瞬間、和也の死のカウントダウンが始まったのだ。
「これでお互い様だ、悠子さん。次は俺の番だ」
「なんで……そんなことを……」
義母が椅子から滑り落ち、項垂れる。
「俺は逃げない。どうせ立ち向かわなきゃいけないなら、俺もその呪いにかかってやる。あなたは呪いから逃げようとした……だけど俺は違います。悠子はあなたに助けて欲しかったのに、あなたは真悠だけじゃなく、悠子も救えなかった! 見殺しにしたんだ! ……出て行ってくれ……。今は二人だけにさせてください」
和也は義母を鋭い形相で睨みつけ、その恐怖に慄いた彼女は腰が砕けそうになりながら霊安室から出ていった。
入れ替わりになるような形で見知らぬ男性が入ってきた。直前まで泣いていたのか、目の下を腫らした状態で部屋を見回す。
「悠子? ……悠子!」
和也の背後の悠子の存在に気がつくと、和也を突き飛ばして駆け寄り亡骸の肩を揺さぶる。
「おい、悠子……。また、そんなふうにふざけてさぁ……。冗談だよな? おい! 起きろよ……なぁ……。起きろよぉぉぉぉっ!」
男の嘆き声が部屋の隅まで響き渡る。
男の見た目は、和也と比べると大凡十幾つも若い青年に見えた。呼び捨てにするのだから、恐らく悠子と年が近いのであろう。
「あんた、何だよ……知り合いか?」
和也の存在にやっと気がついたようで、悠子の肩から手を離すとゆっくりと近づいてきた。まるで獰猛な肉食獣が獲物を狩る直前のような攻撃的な態度であった。
「ああ、そんなとこだ……。悠子さんは、妻の腹違いの妹だ。あなたは──」
和也が名前を聞こうとしたその時、男は一気に飛びつき胸ぐらを掴み上げる。
「お前か? 悠子をおかしくさせたのは……」
「何のことだ……放せ!」
和也は胸ぐらを掴む男の腕を離そうとするが、細身の体型に反して物凄い握力があったため、やむを得ず男の赤茶に染まった頭髪を鷲掴みにし、手を離した隙に床に叩きつけた。
「おい! 初対面の人間に対してよくそんな乱暴ができるな? 警察に突き出されたいのか? お前こそ悠子と何の関係があるんだ! あ?」
「俺は悠子の婚約者だよ!」
男は頭を抱えて立ち上がると、怒鳴り散らかす。
「頼むから落ち着けよ。こんなところで不謹慎だ。悠子さんもこんなこと望んでない」
「チッ……お前に何がわかんだよ……」
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻したのか、側にあった丸椅子に崩れるように座り口を開いた。
「突然いなくなったんだ。電話で宮城に行くとか言ったっきり連絡も来なかったから心配したんだよ。あいつ、親もいねぇのに強がってさ……。弱虫で、寂しがり屋でいつもくっついてくるような奴なのに。あの日は何か違った……。人が変わったっていうか……。心配しなくていいからって俺には何も話してくれなくて……。で、次の日警察から連絡が来て、死んだって……。何なんだよ……どうしてだよ!」
男は泣きながら足で床を強く蹴った。
「いきなりのことだったんだよ。突然出血して、抑えられなくて……。妻の墓参りの時に会った。声をかけられてね。それまで腹違いの妹の存在すら知らなかった」
「出血だと? あいつ、昔からお腹が弱くて不安になったり緊張すると吐いてたりしてたんだ。でも、変な病気したとか聞いてなかったし……。本当にいきなりなのか?」
「ああ……。何か心当たりがあるのか?」
和也が質問すると、男はしばらく沈黙した後思い出したように真っ白になった悠子の顔を見た。
「あいつ……鏡見て泣いてた……。いつも綺麗好きで、出かける時はメイクもバッチリしていくのに。いつからかしなくなったんだよ……。なんか嫌なことあったのかって心配になったけど、泣くばっかりで何も言ってくれないんだ。またいじめられたのかな……親に……。それできっと、体がおかしくなっちまったんだ」
「親に?」
和也が眉間に皺を寄せ男に尋ねた。悠子は食事をしていた時に、両親のことを教えてくれていた。習い事や学校の時はいつも送り迎えをしており、常に身の回りの世話をしてくれていたという。和也はそれを聞き、てっきり母親から溺愛されているものだと思い込んでいた。
「虐待でもされてたのか?」
「いや……虐待っていうか……。あの子の親、おかしいんだよ。突然取り憑かれたようにおかしくなる時があるんだ」
「それは……どういう?」
男は横たわる悠子の頭を優しく撫でながら、子供の頃に起きた出来事を話し出した。
「幼馴染でよく遊びに行ったことがあったんだ。あの日もいつもと変わらず遊んで帰ろうとしてたんだよ。そしたら……いきなりスゲー音がしたから見に行ったら、悠子が……手を切って血流して倒れててさ……。母親が包丁を持って目の前に立ってた。俺もどうすればいいか分からなくて、母親も何も覚えてなかった。どうして悠子を傷つけたのかも……。あれから悠子は嫌な記憶を頭から抹消しようとしてた。でも、そんな簡単に消えるもんじゃないだろ? あんなことされたらさ……。何をされても、母親をいい人だと思い込んでたんだよ。優しい子だったから……。俺は強く問い糺すことはしたくないから、ただあの子の側にいてやらなくちゃいけない気がしたんだ……。ああ、悠子……何で死んじまうんだよ……クソ……」
男は悠子の顔を撫でながら啜り泣いた。
『お母さんって呼んでいいですか?』
生前悠子が義母に投げかけた言葉が脳裏から甦る。悠子は実の母を失ったことに対してひどく塞ぎ込んでいるように見えた。だが、悠子が本当に欲していたのは、恐れる必要がない本当の『愛』を持った母親だったのではないだろうか。自分の人生を陥れようとした義母の本心を知ってしまい、またひとり寂しい思いをさせてしまったのだろうか。
「さっきは掴みかかったりしてすまない……。急すぎて気が動転してて。俺は相模 晃(さがみ あきら)こう見えても一応ルポライターだよ」
「岩井和也だ。プロの写真家をしてる。ライターなら少し聞きたいことがあるんだが、後日また会えないか?」
和也はブローチが入ってた反対側のジーンズのポケットから名刺入れを出し、その一枚を相模に差し出す。相模はそれを黒い革ジャンの内ポケットに突っ込み、浮かんでくる涙を手で拭う。
「取材みたいなものか?」
「ああ、一応そのつもりでいてくれていいが……。こいつについて色々調べて欲しいんだよ」
和也はそう言うと、素手でブローチを持ち相模に見せる。相模がそれを手に取ろうとしたので反射的に腕を引っ込めた。
「ああ……そういうこと……。曰くつきってやつか……。そういうもんは俺の十八番(おはこ)なんだ」
相模は何か納得した表情でそのブローチを見つめていた。
「なら話が早い……。これを悠子が持ってたんだ」
「えっ、一体どうして……」
相模は目玉が飛び出るほど驚いた表情を見せ、目線が泳ぐ。
「悠子はそっち系苦手なんだぞ。遊園地のお化け屋敷でもチビってたぐらいなのに、何でそんなもの持ってるんだよ?」
「彼女の先祖のものだ。父親が持ってた。こいつの正体については一通り調べたんだ。だが、何かパッとしないんだよ」
「はぁ……。パッとしないって、何が?」
「亡くなった俺の妻も悠子さんと同じ先祖を持ってる。そして、間接的にこれに関わって鏡を見れなくなった。それに、この写真……」
和也は新聞に折りたたまれた血だらけの写真をポケットから取り出す。
「うっ……何見せるんだよ……」
「この写真から溢れてきた。そんなこと言っても信じられないかもしれないが……。顔だよ……」
「顔?」
相模はゆっくりとその写真に歩み寄る。血が固まり黒くなっているが、首が曲がり左半分が崩壊した真悠の顔がうっすらと確認できる。
「ど、どうなってやがんだ?」
「これは妻の真悠の写真だ。俺が撮った写真はこんなものじゃないんだ。彼女は真後ろを向いてた。でも、突然変わったんだよ、映像が。百年近く前、これと同じ傷を負って殺された女性がいたんだ。その人は彼女たちの先祖、神津孝盛によって殺害されている。亡くなった女性の近くにこのブローチがあったんだ。なんか関係があるんじゃないかと思って」
相模は写真から目を逸らし、しばらく俯いて考え込んだ。
「それ、『因果』がどうのとかいうやつじゃないか? オカルト的な言い方で説明すると、今起きてることが前に起きたことの結果になってる。過去に起きた出来事が新たな現象を呼び寄せるんだよ。物の記憶と言うか……その前に触った人間の記憶を追走するのが因果っていう概念だ。俺、今まで不可解な事件があった現場に立ち入ったことは何回もあるが、『物』を調べるのは初めてだね。火葬が済んだら悠子の部屋を片付けに行く。俺、仕事もあるし一人じゃ片付けられないから、もし時間あるなら手伝ってくれると嬉しい。詳しい話はその時にしよう」
「ああ、そうする……」
相模は霊安室のドアノブに手をかけた。動作が一瞬止まり後ろを振り返る。震える声で和也に話しかけた。
「今まで悠子の面倒見てくれてありがとうな。礼を言うよ……」
「ああ……」
そう言うと、悠子との別れを惜しむようにゆっくりと扉を開き、和也は感情が抜け落ちたような相模の背中を目で追った。
暑さが和らぎ秋の兆しが見える。木々が生い茂る山道にはどんぐりが無数に転がっていた。和也は花束を持ち、その道をゆっくりと歩んでいく。しばらくして見えてきた寺門のすぐ側に見慣れた人影がいる。
「おお、相模……早かったな」
「大して待ってねぇよ。ほら、入るぞ」
相模の後を着いて行き、一つの小さな墓石の前に腰を下ろした。
「なけなしの金を注ぎ込んで買ってあげたんだ。どっちの家の墓に入るのも気が引けるだろうからな。寂しいだろうけど、俺もそのうち入るからさ」
小さな墓石の隣は人が一人ぐらい入れるスペースが残っていた。相模はその新品の墓石を真っ白なタオルで優しく拭いてあげていた。そして、ビニール袋から可愛くトッピングされたカステラのような焼き菓子を取り出すと、にこやかに笑って話し出した。
「ほら、悠子。楽しみにしてた新作のお菓子だぞ。……悠子と一緒に食べたかったな……」
相模はその焼き菓子と、楽しそうにカメラ目線で微笑む悠子の遺影を墓の近くに置いた。和也が出会った悠子の顔とほとんど変わらないが、メイクで目元がよりぱっちりしているのが印象的だった。
この写真には特に何も異変がない。この時はまだ幸せな日々を送っていたのだろう。それが、ブローチ触れたその日から一気に地獄と化したのだ。
真悠を失いどん底だと思っていた自分がまだ幸せに思えてしまうほど、悠子が歩んだ人生は悲惨なものだった。
「お菓子作るのか?」
「あ、まぁ……昔から趣味で。コイツ大食いだから、こんな大きさあっという間だよ。食べ過ぎて次の日はよくお腹壊してたけどな……。おてんば娘だったんだ」
相模は照れ臭そうに笑い、和也もその光景を想像してしまい吹き出した。相模はしばらく悠子が眠る墓石を見つめていた。
和也は持ってきた花を挿し、手を合わせる。目を閉じている間、肩にふんわりと何かが乗っかる感触が伝わった。そして、鼻の穴に通ってくる甘い香水の香り。その香りの主は忘れもしない。
悠子がまだ近くにいるような気がする。真悠と一緒に、ずっと見守ってくれているのだろうか。
「一緒に行ってあげれば良かったな。俺、少し後悔してんだ。そうすればもっと悠子は俺を信用してたかもしれないな。最近ギスギスしてて距離があったんだ。喧嘩したことは数え切れないくらいあるけど、最後にはちゃんと仲直りした。今回を除いてな……。きっと今も生きてたら、良い夫婦になれたかな? 俺たち」
和也は大きく頷く。
「必ず……。信用してたはずだよ。悠子さんも良い奥さんになろうと必死だったと思う」
『真悠さんみたくなれるかな?』
真悠の墓石の前で悠子が独り言を呟いた時、最初は奇妙に感じたが、それは真悠の容姿だけではなく、妻として真っ当な役目を果たすことができるか気にしていたのかもしれない。
「っと……。思い出話に耽ってる場合じゃないな。まだやることがあったな。悠子がやり残したことをやってあげようぜ……行くか」
相模が立ち上がったその瞬間だった。
「……ないで……」
和也のすぐ右隣から声が聞こえた。どこかで聞き覚えのある声だ。その直後、全身が金縛りに遭ったように硬直し、身動きが取れなくなった。
「お……かないで……」
──悠子か?
よく聞いてみると、悠子の声と似ていることに気がついた。
だが、何か違うのだ。甘ったるい高い声音ではなかった。女の声であるものの、低く、情に訴えてくるような叫びのようにも聞こえる。
その異変を感じ取った直後、今まで感じていた仄かな甘い香りが消え去り、血生臭い、瘴気に満ちた気配を感じた。その声が聞こえる方向に首を動かすこともできず、その存在が近づいてくるのをただ何もできず待っているしかなかった。
「うっ……うぁ……」
その瞬間、頭の中を抉られるような激痛が走り、鼻の奥から鮮血がこぼれ落ちカステラの包装の上に滴り落ちた。意識が朦朧とする。
「おい、大丈夫かよ! 鼻血出てんじゃねぇか」
相模の心配する声が反対側から聞こえてくる。それと重なるように今度ははっきりとその声を聞いた。
「おいていかないで」
『ビチャビチャ、ビチャビチャビチャ』
一メートルもない距離から、ドロっとしたようなものが零れ落ちる音が聞こえてきた。それとほぼ同時に、しゃがむ和也の足元を赤い液体が伝う。真っ赤な水溜まりは、やがて和也が座っている位置を取り囲むようにして広がっていく。
──これは、幻覚なんだ……
波打つような頭痛に耐えながら目を固く閉じ、なんとかやり過ごそうとしていた。
瞼の裏に、チラチラと何かの映像が浮かび上がる。鏡に写っている誰かを見ている光景である。髪の長い女性のようにも見えた。やがて映像は鮮明になっていき、その素顔を見ることができた。
それは悠子だった。鏡の向こうにいた悠子は、今にも叫び出しそうな顔で口をパクパクさせながらパニックになっていた。彼女の顔にいくつもの深い切り傷があったのだ。その傷口から血が吹き出し、ベチベチと音を立てながら洗面台に流れていく。
「わぁぁっ!!」
彼女の顔を見て戦慄した和也は、尻餅をつき仰け反った。目を開けると既にその映像は途切れ、目の前には鮮やかな花に囲まれた悠子の遺影が佇んでいただけであった。赤い水溜りも綺麗に消え去っている。
「おい……何があったたんだよ?」
相模が慌てた様子で和也の肩を支える。
「悠子!」
和也は相模の手を払い除け、声がした方向を勢いよく振り向く。
「え、何だよ? 悠子がどうかしたのか?」
「筒宮さんのところに行くぞ」
「お、おい! 待てよ」
和也は頭を抱えながら小走りで門へ向かった。状況をよく判断できなかった相模は、和也の言われるがままに着いて行くしかなかった。
悠子は死んでもなお、このブローチの呪縛から解放されてはいなかった。真悠も同様に。だからあの時、唯一の望みであった悠子の夢に現れた。
彼らの知らないところで、まだその『因果』は見知らぬ誰かに猛威を振るっているのかもしれない。
呪符に触れて呪いを受けた和也には、いつ訪れるかわからない死の宣告をされているようなものだった。だが、必ず何か予兆が現れるはずだ。和也があえてそれに触ったのは、呪われた者にしか知り得ない情報が隠されている可能性があったからだ。
この呪いの本当の姿は、呪われた時でないと分からない。
──本当の『地獄』はこれからだ。
和也は自分の目の中でシャッターを切った。
それが、これから果てしなく続いていく恐怖の記録となることを、彼以外は誰も知らないのであった。
写真 風丘春稀 @kazaokaharuki
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