1-2.開祖トンスル、その台頭

小さな遊牧部族の長に過ぎなかったトンスルが草原の雄として歴史の舞台に躍り出たのは20代半ばのことであると思われている。

若年の頃のトンスルは同胞の他部族としきりに交戦し、それらをことごとく下していった。

正史叉弥斯爾志によると、トンスルは18の歳に盟友モョモトを得、西の部族をトンスルが平定し、東の部族をモョモトが平定し、先に中央部のナンターラ平原に凱旋したほうが王となる約束をした。

最初はモョモトが優勢であり、わずか2年で20の部族を従えたが、モョモトの勢いを案じたトンスルは大事に育てていた金の仔鹿をモョモトに贈り、これをたいそう気に入ったモョモトは仔鹿を自らの女とし、夜な夜なその肉に耽溺したために侵攻の速度は遅くなったという。

これにより、更に4年の後、先にナンターラ平原に凱旋したのはトンスルの方であった。

半年遅れて凱旋したモョモトは素直に負けを認め、以降トンスルの麾下として活躍することになる。

これから先、正史でのモョモトの立場がトンスルの義弟となっていることから、上述の仔鹿とはトンスルの妹、もしくはそれに準ずる一族のものであったことが分かる。

一方、魏志臀死児単于伝の方はこの辺の記述が希薄である。

トンスルは少壮の身で東西の部族を従え、初めてチャミスル部を統一した。

これによりチャミスル部全体の治安が保たれるようになり、魏との交易が始まった。

魏は外交使節団をチャミスル部に派遣しその国情を探り、チャミスル部に朝貢することをを勧めたが、これに対しトンスルは「未だ礼褥を知らずして無礼のことがあってはならないから」と一先ずの朝貢を拒絶した、とある。

その態度があまりに恭しかったため、魏の使節団もこれを許し、礼を学ぶために留学生を洛陽に寄越すように言い残して帰国した。

以降、毎年数人が魏を訪れ魏公式の歴史書である魏書にチャミスルの歴史が記録されていくことになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

チャミスル王朝史 遠藤伊紀 @endoukorenori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ