クローバー
A子舐め舐め夢芝居
クローバー
瞳ちゃんは少し空想癖のある小学四年生の女の子。いつものようにトーストの耳をぐるっと一回りかじり取ってから本体にとりかかる。瞳ちゃんのお母さんはパートに出かける準備をしながら、お皿は各自で洗ってね、と念押しをするがみんな牛のような声を出して聞き流す。瞳ちゃんのお父さんは貧乏ゆすりに精を出している。瞳ちゃんの弟は海外のアクション映画のCMに釘付けになっている。今日もきれいな顔のヒーローがきれいな顔のヒロインとの恋愛をこなしつつ、かっこよく世界を救っている。
インターフォンがお友達の到着を知らせた。瞳ちゃんは手足の伸びきったカエルのキャラクターのキーホルダーをぶらさげたランドセルを背負って玄関を出た。家の前に麗奈ちゃんと綾香ちゃんが立っていた。麗奈ちゃんは学年で一番かわいい。最近初めての「カレシ」ができてずっとご機嫌だ。麗奈ちゃんのカレシは麗奈ちゃんと付き合いだしてから他の男の子とケンカすることが増えて、麗奈ちゃんはいつも満足気にケンカ騒ぎを眺めているのだった。綾香ちゃんは少し変わったところのある子でクラスの中で浮いている。瞳ちゃんのお母さんは出っ歯で垂れ目でずんぐりしているところが似ているといって、綾香ちゃんのことを「あちゃぴん」と呼んでいる。初めて瞳ちゃんが綾香ちゃんのことを「あちゃぴん」と呼んだとき、綾香ちゃんは「やめて」と言ったけれど、瞳ちゃんが綾香ちゃんの気持ちに気付いて反省するのは二人が会わなくなって五、六年くらいしてからのこと。それはさておき、今の瞳ちゃんはお母さんお墨付きの「あちゃぴん」を気に入っていて、麗奈ちゃんや周りの子も「あちゃぴん」呼びをしている。あちゃぴんは一度「やめて」と言ったきり、あだ名については何も言わないでいる。三人はあいさつを交わして歩き出した。
「レーナねー、今なやんでることがあってねー」
「うん」
「明後日ねー、ケンちゃんと一週間なのお。それでね、ケンちゃんの机に手紙とおかしを入れておこうと思うんだけどお」
「うん」
「ケンちゃんの好きなおかしってチョコボールとフーセンガムなんだけどお、チョコって一日置きっぱなしだ、とけそうだしい。でもフーセンガムはダメだしい」
「あれ、本当?」
健ちゃんは冬でも半袖半ズボンで走り回っている元気な男の子だけれど、以前「風船ガムの食べ過ぎ」で風邪をひいて学校を休んだことがあった。
「ガムの食べ過ぎでかぜなんてひくのかな」
「ガムってねえ、アスパルテームとかテンカブツが多くふくまれててえ、健康に悪いから、食べすぎたらかぜひくんだってママが言ってた。だからレーナもガム食べちゃダメだってえ」
「きびしいね。チョコはいいの?」
「レーナの家のチョコはねえ、ムテンカだから大丈夫なの。アスパルテームもスクラロースもニュウカザイも使ってなくてえ、カカオとサトウキビだけで作られているの。だから食べてもいいんだってえ」
「材料すくないの。安そう」
「ううん、ムテンカチョコの方が高いんだって。でも値段より健康の方が大事なんだよ。でもおいしいよお。レーナ、チョコはなんでもすき。それよりさあ、ねえ、どうしようかなあ」
「別にお菓子じゃなくてもいいんじゃない?」
「えー、じゃあ、何がいいかなあ」
「んー」
三人は近所の池の前を通り過ぎた。そのとき、瞳ちゃんは池の近くの公園で弟と四つ葉のクローバー探しをして五十本くらい見つけたことがあったのを思い出した。
「四つ葉のクローバーとか」
「は?そんなの持ってないんだけど」
瞳ちゃんは弟と五十本くらい見つけたことがある話をした。麗奈ちゃんは
「じゃあ、今日学校おわったら、ホノカちゃんと探しに行ってみるうー」と言った。
麗奈ちゃんが笑って瞳ちゃんも嬉しくなっていたときに、背の高い男の子が麗奈ちゃんにわざとぶつかっていった。麗奈ちゃんのお兄ちゃんだった。鞄を逆手に持っていた。隣のお友達は寝ぐせなのか何なのかよくわからない、ぐしゃぐしゃとした髪型をしていた.
「お兄ちゃんねー、最近ハンコ―キでレーナのこと嫌いなの」麗奈ちゃんはまるで「お兄ちゃんねー、チュウガクセーなの」とでも言うように、あっさりと言った。瞳ちゃんは自分がくノ一のように麗奈ちゃんのお兄ちゃんに飛びかかって刀で背中をブスリと突き刺しやっつけるところを想像した。
今日は短縮授業だからお昼には学校が終わった。家に帰ると、ナンバおじさんとナンバおばさんがいた。ナンバに住んでいるからナンバおじさんとナンバおばさんだ。ナンバおじさんは瞳ちゃんのお父さんの弟だ。ナンバおじさんとナンバおばさんは結婚していないが、ずっと一緒に暮らしている。ナンバおじさんは「サルトルとボーヴォワールみたいなものさ」と言い、ナンバおばさんは「結婚というのは男が女を搾取するための制度にすぎないのよ」と言い、瞳ちゃんのお母さんは「事実婚でしょ。お金がないから」と言い、お父さんは「昔から責任感のない奴だった。いい歳してみっともない。身内として恥ずかしい」と言っていた。瞳ちゃんはお父さんお母さんがおじさんたちのことを言うときの表情を見て、ナンバおじさんとナンバおばさんは「ちがう世界の人たち」なのだと思っていた。実際に「ナンバ」は瞳ちゃんにとって外国と同じだった。行ったことがないし、これから先行くことがあるかもしれないと想像することさえなかった。瞳ちゃんの世界は家族のいる家、麗奈ちゃんたちと行く学校、近所の池と公園だけでなっていた。「ナンバ」はただ三つ文字が並んだものでしかなく、何の意味も持っていなかった。
「おかえり、学校どうだった?」ナンバおじさんが言った。
「楽しかった」瞳ちゃんは特に何も言うことがないとき、こう言えばいいと知っていた。
お昼はみんなで近くのファミレスに行った。瞳ちゃんのお父さんは午後休をとってやってきた。瞳ちゃんはメニュー表を手にしたお母さんに「何がいい?」と聞かれて困った。買い物や外でごはんを食べるとき、瞳ちゃんは「これがほしい」と思ったことが一度もなかった。お母さんは遠慮して何も言わないのだと思っているみたいだけれど、欲しいものが本当にないのだった。瞳ちゃんは、どうして何かが欲しいと思えないのか自分でも不思議に感じていた。瞳ちゃんは一番安いメニューを選んだ。
「また一番安いやつ。本当にお金のかからない子ね」お母さんが笑って瞳ちゃんはうれしくなった。
注文を終えて料理を待っているあいだにお父さんが話しはじめた。
「家のことだけど、俺はやっぱり立て壊してしまうのがいいと思うんだ。もう古いし所得税だって馬鹿にならない―。この前見舞いに行ったとき向こうもそれでいいって言ってたんだ。もし退院できたとしても一人暮らしはできないだろうしって。今だって園田さんに任せっきりだからな。退院したらうちに来てもらうか、施設にいれるとして、そしたらあの家にはもう誰も―」
「だからそのときは僕が住むって前にも言ったじゃないか。どうしていつも僕抜きで話を進めようとするの?」ナンバおじさんはテーブルの上で指を組んで前のめりになった。
「古いって築三〇年も経っていないじゃないか。リフォームして残す方がいいよ。もし住む人がいなくても売ればいい」
「費用はこっちが出すんだろ」
「僕らだってなるべく負担するよ」
「ちょっと待ってよ。あたしは住むわけじゃないのに、なんであたしまで出すことになるの」ナンバおばさんがおじさんを睨んだ。お父さんとお母さんは視線を交わした。
「言い間違えただけだよ、順子は出さなくていい」
「おまえ、一軒家に一人暮らしするつもりだったのか?」と眉をひそめたお父さん。
「二人で住まないの?今も同棲してるわけじゃなかったっけ?」とお母さん。
「出さなくていいってなんであなたに決定権があるような言い方してるの?それはあたしの自由意志が決めることでしょ。そもそもこんな家族会議に連れてこられて変だと思ってたのよ。巻き込んでお金を出させるつもりだったわけ?あたしたちは―あなたは自由結婚の意味をはき違えてる。もう付き合いき」
「シーフードパエリアでございます」
ナンバおばさんの頼んだメニューだった。おばさんはバッグに伸ばしかけた手を方向転換させてスプーンをつかむと、ライスとエビをせっせと口に運び始めた。
それから続々とごはんが運ばれた。瞳ちゃんは皿の縁にこびりついたミートソースを剝がす遊びに夢中になったが、お母さんに注意されてなんとなく食べ始めた。
大人たちはまた瞳ちゃんにはよく分からない会話を始めた。瞳ちゃんの弟は大人がピリピリとした会話を交わすのを見せられるのが大嫌いなので、最初はファミレスに来たことに大はしゃぎしていたのが、今ではむっつりと黙りこんでいた。瞳ちゃんは最初からずっとウサギ小屋のウサギのように大人しくしていた。大人たちの話は「家」からナンバおじさんとナンバおばさんの話に変わっていったようだった。
「こんなこと聞くのはどうかと思うけど、二人は結婚しないの?」
「しません」ナンバおばさんはきっぱりと言い切った。
「勇人さんのことは好きだし関係を継続させたいと考えていますが、男女関係の帰結が結婚であるという考え方に私は賛同できませんし、従うつもりもありません。勇人さんともそのことに関しては何度も話し合ってお互い承知の上です」
「子どもが出来たらどうするの?」
「作りません。ほしいと思いませんから」
テーブルは水を打ったように静まり返った。音のないうつろな空間が瞳ちゃんの座っているテーブルの周りにだけ出現したようだった。みんなショーウィンドウの向こうのマネキンのように見られていることを意識した硬直を体現していた。新しい客の来店を知らせるベルの音がみんなを固めている目に見えないセメントを砕いていき、みんなは隠れ処から恐る恐る光の下に出てこようとするネコのようにゆっくりと日常空間に戻っていき、ナンバおばさんは席を立ってどこかに行ってしまった。
「なんでまたあんな面倒くさそうなのを捕まえたんだ……」お父さんが言った。
「僕はいいんだよ」
「順子さん自身が子どもなのよ。自分が子どもなもんだから、自分のことばっかり優先で楽しくてやりたいことしかしようとせずに、子どもを育てる苦労を負いたくないのよ。大人としての責任を果たしたくないんだわ」
瞳ちゃんの弟は居心地悪そうに体をもぞもぞとさせた。瞳ちゃんは相変わらずウサギのように大人しくしていた。どこか遠くの別の場所を見ているようでいて、同時に瞳ちゃんの体の中心に埋もれているものまで見透かしているような優しい目をナンバおじさんが向けてきているのに気づいても鼻をひくひくさせるだけだった。
ファミレスの後、ナンバおじさんとナンバおばさんが瞳ちゃんと弟を池の近くの公園に連れていってくれた。ナンバおじさんが瞳ちゃんの両親に提案したのだった。瞳ちゃんとそのころには機嫌を直していた弟は木造の遊具の周りを走り回り、おじさんが二人を追いかけて、おばさんは三人を少し離れたところから眺めていた。瞳ちゃんの弟が四つ葉のクローバーを五十本くらい見つけたことがある話をして、みんなでその場所へ行った。そこは公園の中を走る歩道と池に続く小さな水路にかかった橋とに挟まれた扇状の芝生で、クローバーの他にもタンポポやカヤツリグサ、スズメノカタビラなどが生えていた。四人はしゃがみこんで四つ葉のクローバーを探しはじめたが、まったく見つからなかった。瞳ちゃんの弟はすぐに飽きてしまってカタバミの葉のくぼんでいる部分を全て裂いて「六つ葉のクローバー!」と言い出した。瞳ちゃんは同じことをずっと続けていられるたちなので、弟が別の遊びをおじさんと始めてもまだクローバーを探していた。おばさんも瞳ちゃんのそばで草を触る素振りを見せていた。
「全然見つからないね」ナンバおばさんが話しかけてきた。瞳ちゃんは首を縦に動かした。
「瞳ちゃんたちが五十本もとっちゃったから、もうこのあたりには無いのかもね」
瞳ちゃんは何も言うことが思いつかないので鼻をひくひくさせた。
「でも、今日はなくてもそのうち生えてくる。クローバーだって生き物なんだから。わたしたちに踏みつけられて引き抜かれても繫殖して数を増やしていく。そうして新しいクローバーが生み出されているうちに、その中にまた四つ葉のクローバーが出てくるわ」ナンバおばさんは口を閉ざして形を完全に覚えようとしているかのように三つ葉のクローバーの葉の輪郭を指でなぞりはじめた。瞳ちゃんには見えも聞こえもしない別世界に引っこんでいってしまったようだった。瞳ちゃんは気にせず四つ葉のクローバーを探しつづけた。最後まで一本も見つからなかった。
それからもナンバおじさんとナンバおばさんはたまに遊びにやって来たが、徐々に回数が減っていき、気づいたときには全く会わなくなっていた。瞳ちゃんはおじさんおばさんに会えなくても何も感じなかった。元々「ちがう世界の人たち」だったから。瞳ちゃんは学年が上がるうちに外で遊ぶより中で本を読むことが増えた。池の近くの公園で五十本くらいの四つ葉のクローバーを見つけたときに持ち帰った一本を押し花にしたものをしおりに使っていた。茶色に変色したクローバーを見ると、瞳ちゃんはいつもピラミッドの地下深くに眠るファラオのミイラを連想した。ある日、ミイラのクローバーの子どもがあの芝生で悠々と風に吹かれて過ごしているかもしれないのに、親クローバーを本に閉じ込めているのが急にひどく悪いことのような気がして、瞳ちゃんはミイラのクローバーを庭に埋めた。目印に三角の土饅頭を作ったが、夕方には瞳ちゃんのお母さんが庭掃除したばかりなのに変なもの作らないでと踏みつぶしてしまった。
瞳ちゃんが小学校を卒業するころには麗奈ちゃんと健ちゃんはとっくに別れていて、麗奈ちゃんは別の男の子と付き合っていた。あちゃぴんはますますクラスの中で浮いた存在になっていたが、瞳ちゃんも麗奈ちゃんも小学校の次は中学校だという事実と同程度にしかそのことを受け止めていなかった。中学校に上がってからも三人は小学校のときと同じように一緒に登校した。瞳ちゃんの朝も変わらず、瞳ちゃんは食パンを縁からかじり、お母さんは出かける前に従われることのほとんどない皿洗いの指示を虚しく発し、お父さんは脚とついでに机も揺らし、弟はテレビに釘付けになっていた。瞳ちゃんのランドセルは中学のボストンバッグに変わってカエルのキーホルダーもお引っ越しをしていた。瞳ちゃんはだらりと手足を伸ばしきったカエルを見て、たまに踏みつけられてぐんにゃりとしおれたクローバーを連想し、それからナンバおじさんとナンバおばさんのことを思い出して、今二人がどう暮らしているかちょっぴり想像してみるのだった。
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