百鬼絵巻

岩塩の粒

第1話

 「2017年10月1日/PM2:28」

 

 とある大学の一室に女がいた。名を『大禍時おおまがどきぬえ』。


 長く、一切の混じり毛無しの黒髪に、血のように濃い真紅の瞳は、狂気的に光を写す。

 大学生だというのに、セーラー服を身にまとい陶器のような白さの肌を陽光にさらす。

 そんな胡乱な彼女は、数多の本に囲まれスヤスヤと寝息を立てていた。

 午後二時、自身の専攻する史学の講義を完全にすっぽかし、建て替え予定だったところを、

 金に物を言わせて買い取った旧棟の図書館で、読書をしていたところいつの間にか寝落ちしたということだ。


 図書館とは言ったものの、本棚は全て撤去され彼女や友人が持ち込んだ蔵書に溢れる洋風なカフェ。

 聞こえはいいが、電気は止められ空調も無く、秋の爽籟が窓を通して入り込む。

 彼女以外が利用しなくなった今では、整理も掃除もする人間がいなくなり、かつての面影はまるでないゴミ屋敷と化していた。


 「寒っ……」


 ブルブルと寝起きの体を震わせ、風の入る窓を閉める。今朝コンビニに寄って買い揃えた缶ビールとカルパスを開け、

 誰もいない虚空へ向かって乾杯をした。鵺にとって不思議とその空気は心地よく、心の冷えが少し溶けた気がした。

 昔友人が同じようなことをしていたのを思い出し、影響されたか?と苦笑する。


「思えば、君も似たようなことをしていたね。なあ影臣かげおみ?」


 席の向かい、立てかけられた写真に向けて微笑みを向ける。

 周りを見渡せば机に沿うように、一枚また一枚と遺影のように写真立てが飾られている。

 ──『ボサついた黒髪の青年』『白髪の猫耳少女』『糸目の青年』『天狗面の女』『鵺と瓜二つの女』

 どれを見ても胡乱な写真を、優しげに眺め少しムッとしたように顔を顰めた。


「6人中5人が欠席とは、酷くないかい?」


 そう告げる鵺の目はどこか儚さを孕み、懐かしそうに追憶に浸り始めた。

 パラパラとノートのページが隙間風でめくれ、何枚もの絵が走馬灯のように繰り返される。独創的で子供のような絵に達筆な字で書かれた文章。いわゆる絵日記と言えるそれは、鵺にとって懐かしくそして輝きに溢れた思い出の品であった。それに描かれたのは、今年の春に終点へと至った彼女の青き思い出。たった二人から始まったオカルトサークル。



 ───『百鬼絵巻』の物語








 



 「──記録2016年2月3日『人影』」


「ふぁえおみ。ソーふぁをとってふれふぁいはい?」「そのぐらい自分でやれ。それと全部飲み込んでからしゃべったらどうだ」

 

 昼過ぎ。スモークサーモンを口一杯に頬張りながら、モゴモゴと伝えた要求はあっけなく一蹴された。

 一瞬だけ反応したものの、すぐに本に視線を戻した気怠げな青年『烏丸からすま影臣かげおみ』に

鵺は頬を膨らませ、怒りを表現し渋々サーモンを飲み込んだ。燻製の匂いが鼻いっぱいに広がっていた感覚が消え、口内には僅かな油っぽさだけが残された。


 いつもながら無愛想な彼は、本日午前の事件によりいつにも増して鵺に対して辛辣な態度をとっていた。朝、通学早々絡まれるのはいつものことだが、今日はそのレベルが度を越していた。本人に無断で全ての講義に欠席申請を出し、拒否する彼を引きずって旧棟に連れ出したのはまだ序の口で、昼飯を自分の分も買いに行かせそのお代を全て押し付けたのだ。

 普通なら絶交も当然な行いだが、影臣は鵺を普段以上に雑に扱うだけで済ましていた。結局小さな体をめいっぱい伸ばしている彼女に変わって、戸棚の上のソーダを取りいつのまにか蓋を開けていた。


『ほら、これで良いか?』影臣が手渡したボトルを鵺は嬉しそうに受け取り、破顔しながら感謝を述べた。

また叱れなかったことを後悔すると同時に、美味しそうにソーダを飲むその表情は、歳の割に幼く見えてどこか守ってやりたくなるものだった。


「ご馳走様。ゴミは捨てておくぞ?さて……」


 鵺は満足そうに飲み終え、ボトルをパキパキ握り潰す。遅めの昼食を終えた彼女の関心は別のものに向けられていた。影臣を無理に連れ出した理由。 「進捗を話そうか。確か謎の人影だったか」



 先月、正月明け早々百鬼絵巻に持ち込まれた依頼『人影について』そう書かれた書類を広げながら、興味深そうに文章を紐解いていく。『一週間前友達と撮った写真が変になってしまったので調査してください』同じ大学の一年生から届いた5枚の画像ファイル。まあよくある心霊写真の調査依頼なため、鵺も最初は断ろうとしていたが、そこに写り込んだ影について興味が湧いたため調査を引き受けたのだ。


 「にしても文字通りの”人影”とは。大したものだね」


 人影とは言っても"シルエット"ではない。都市伝説のシャドーマンかのような黒く焼きついた人間が写真に二人写っていた。言葉だけでは焼死体という感想を抱きそうになるが、その表現はまるで適切では無いだろう。なにせそれは宙に開いた虚空。加工にしても不自然で異様なほどに黒かった。そもそもこのサークルにガセネタというものは入ってこない。不自然なほどに異常性のあるものだけが吸い寄せられるのだ


「幽霊か宇宙人か、はたまたUMAだったりするのか、君はどう思う。影臣?」


 ニンマリとした笑顔で疑問を口にする。実のところ影臣はあまりオカルト話が得意ではない。怖いのではなく、現実主義の彼に取って理解のできない超常の存在に対しての関心がかなり薄かったのだ。鵺に関わってしまったからには、一概に嘘とも切り捨てられないこういう質問を彼は一番苦手としていた。


「俺には……穴にしか見えない。そこに写った二人が"切り取られた"みたいに」


「ふむ……」


 意外にも、一行の余地があるそんな反応をした鵺に影臣は内心驚いていた。普段自分の意見は聞いても否定するか、別の理論を持ち出す彼女にしてはあまりにも正直で純粋な受け取り方だった。そして嫌な予感が過ぎる。こういう時は大抵次の行動は決まっていることが多い。


「よし試しに行こうか」


 部屋の鏡は、影臣の心底げんなりした表情を写した。



キャンパスの南部。正門から少し離れた並木広場。依頼者の女子生徒が実際に写真を撮った現場に鵺、影臣、そしてもう一人鵺よりもさらに小柄の少女が集まっていた。帽子を被り元気に走り回る、名を『三宮さんのみや三毛みけ』自由気ままで神出鬼没な二人の後輩である。鵺の目的は実にシンプルで当時の状況を完全に再現すること。撮影が行われた際の人数は3人。時間帯は夕暮れ。丁度並木をバックにポーズを変えて五枚の写真を撮影した。


「で、なんでフィルムカメラなんか持ってるんだ……」「簡単なことだよ。仮説その一、被写体側に問題がある。仮説その二、"カメラ側"に問題がある。私の推理が正しければ………これでわかる筈だ。ほら並んで並んで」


 おそらく依頼者から借りたフィルムカメラと私用のスマホを両手に持ち、影臣と三毛を大講堂を背景に並ばせた。うまい具合に夕日がかかり、芸術的な逆光が生まれている。まずはスマホで5枚、同じ画角同じポーズで撮影をする。推測通り異変は起こらず、普通の写真が撮れただけだった。間髪入れずにフィルムカメラで全く同じ写真を撮る。スマホほど高解像度ではなくとも、撮れた写真は同じく 『何の変哲もない普通の写真』だった。


 「外れか?」「鵺先輩……私帰ってもいいかにゃ?」目に見えて落胆する冷ややかな視線を意に介さず、鵺は"フィルムカメラ"を見つめていた。(やっぱり原因はこれかな?)そう内心で思いながらカメラの電源を落とし、二人にどんな説明をしようかとスマホを開いた。


 写真のフォルダに目を移す。その一瞬、鵺の顔が凍り付いたのを影臣は見逃さなかった。


 何かが動いたような気がした。目の淵、一瞬だけ視界を掠めた何かに、鵺は反射的に抑えられない感嘆に支配された。心霊写真の原因はフィルムのほうにあるという"確信"は別の異変から無意識に彼女を遠ざけていたのだ。じりじりと背中を走る感覚に、興奮した体は汗を流し、ぽたりと雫が落ちる。それは塩気の混じるものではなく、


 ───液晶を濁らす赤い液体だった。


 だがその変化に動揺する間もなく、体から芯が抜かれ足がもつれバランスを崩す。意識がまとまらなくなり視点がぼやけ、景色が二重に分かれ始める。耳は何か音を拾っている。影臣と三毛の捉えようのない叫びが脳を揺らし、思考の混濁はますます酷くなってゆく。全てが途切れる寸前──煙のような人影が確かに瞳に映された。






 


「で、これが真相ってわけか」


 一週間後。鵺と影臣の二人は片手に缶ビールを持ちながら図書館にて会話に花を咲かせていた。主題はもちろん心霊写真についてだ。机の上に広げられたカメラのフィルム。その全てに共通していたのは人間だけが黒く切り抜かれていること。結論から言うと2人(三毛を加え3人)は異変の再現に成功していた。原因不明の鵺の昏倒も30分程度で目覚め、念のために診断も受けたが軽い疲労というだけだった。


「まあ予想通りだったねー。原因はフィルムに巣食ってたこれさ」


 机に置かれた虫籠にはフィルムが一枚。しかし普通のものと違い、その中を白いものが這いずり回っていた。頭には長い触角が伸び、くねるように走り回り白い鱗片を撒き散らす。虫のようなそれを見て、鵺は満足そうに頷いた。

 

「紙魚に近い妖蟲。文字喰い蟲とでも呼ぼうか。写真に住むのは初めて聞いたけど」


 紙魚。昆虫綱の1目であり書籍や古文書などを食べ、昔から害虫として忌み嫌われてきた"虫"だ。それに似た文字喰い蟲は紙の中に潜り込み、字という情報のみを喰らい成長する。そして卵を産み付け数を増やしていく。写真のなかでも情報量の多い人間を食べる、亜種のようなものだと鵺は推測した


「にしても、いつ気づいた?」


「決定打は君の感さ。けど最初に思いついたのは、依頼文の違和感だよ。一週間前の写真が変に、つまり撮ったときには普通の写真だったんじゃないかってね」


「ああ、食べられてたってことか」


「そういうことだったんだにゃ〜。でも、───何見てたんだにゃ」


 いつの間にか現れた三毛は、にゃ〜と鳴きつつ疑問を口にした。密室である三階の部屋に、扉も開けずに入ってきた彼女に一切驚くこともなく、鵺はスマホの写真、そのうちの一枚を見せた。



 写真に映る人影。その黒は静かに、言いようのない。ただ怖いと、そうとしか表現できない根源的な感情。喉元にナイフを突きつけられるという表現が、それこそ生優しく感じるくらいに。全身が警鐘を鳴らし、毛を逆立たせ体が一気に警戒体制に移行する。


 一瞬、三毛は見間違いかと思っていた。何度も目を閉じては開き、逸らしては戻す。その度画面に映る『黒』は、人から獣へ、獣から物怪へと様々な形に、煙のように姿を変えていく。不定の怪物は切り抜かれた黒ではなく、実態をもって確かにそこに存在していた。


「何だよ……それ」


「何って、◾️◾️さ。知らないかい?」

 

 あまりの衝撃に思わず口調を崩してしまう三毛に、あっけらかんと鵺は答える。

 彼女にとって◾️◾️は既知の存在であり何もおかしいものはないと、その声色は告げていた。当然、それで三毛が納得するはずがなかった。彼女の猫耳が聞き取った音は雑音混じりの音階でしかなく、とても認識できないものだったのだから。


「あまりそいつのいうことに耳は貸さない方がいい。お前が聞き続ければ、確実に狂う」

 諭すような口調で影臣は、彼女を撫で鵺のスマホを取り上げた。慣れた調子で指を滑らせ先ほどの写真を消していく。

 

 三毛から見て烏丸影臣という男は、良くも悪くも平凡な、同じサークルでもなければまるで印象に残らない、取り柄のない人間というイメージだった。しかし彼はあの写真を見て怯えることはなく、それどころか表情ひとつ変えず興味も示さない始末だ。


 思えば彼は高校の頃から鵺と付き合いがあるらしい。あの非日常の塊のような女と付き合いを日々重ねてきたのだと考えると、普通の人間であるはずがないと、妖の自分が失念していたと三毛は自罰的に苦笑した。

 気づけばスマホを鵺に返した影臣は涙目の彼女をよそに、缶(ビール・ソーダー・お汁粉)を三本、調理前の鮭、何本かの串に刺された砂肝を手際よく用意していた。


「飲まないか?ひとまず依頼は解決したんだ。それと、鵺燻製するのはいいが窓は開けろ」


「良いじゃないか。煙は蟲避けにもなる」


「じゃあ、私は魚もらうにゃ」


 気づけば緊張感はどこへやら。室内には食欲を誘う匂いが溢れ、完全に飲みのムードになっていた。ある種のサークルにおける恒例行事である飲み会。その楽しそうな姿を見て"鵺"は燻製機を横目に、ノートにペンを走らせる。独創的でお世辞にも上手いとは言えない絵、しかし描いていく鵺の表情はとても嬉しそうでこの瞬間を一生懸命に噛み締めていた。




 ──『百鬼絵巻』

 それは、◾️◾️との出会いから◾️◾️との別れまでを綴ったとある記録の物語。



 





 


 「2017年10月1日/PM4:52」


 「ッたぁ!?」

 

 頭部に見舞われた鋭い痛みに意識が強制的に浮上させられる。感触からして広辞苑か何か、とにかく分厚い本で殴られたらしく思わず泣きそうになる。涙目でうずくまり、殴った犯人を恨めしげに見上げる。


「いつまで寝てる。講義もう終わってんだぞ……それと、人の写真を遺影みたいにするな」


 相も変わらず興味なさげな視線を向けるも、決して視界から鵺を離さない。

 青年『烏丸からすま影臣かげおみ』は、写真立てを片付けながら、鬱陶しそうにぼやく。


「で、何してたんだ。昼寝か?」


「……ちがうよ。昔の思い出に浸ってただけさ」


 そういった彼女から眠気は完全に失せ、意識は現に戻ってきたようだ。その声色は弾み何かよからぬことを思いついたことを、暗に示していた。


 「影臣……」


 「何だ?」


 「飲みに行かないかい?久しぶりにみんなも呼んで」


 「ああ……それも良いかもな」


 陽は暮れ冷たい秋風が吹き付ける。二人の学生は静かに笑い合った。──いつかの日々を懐かしみながら彼らは学舎を後にする。誰もいなくなった部屋にはカサカサと銀の蟲が這う"フィルム"だけが残された。

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