十一月二十八日
入相アンジュ
はるのうた
一
もしも、タイム・マシンがあったなら、あたしは七年前にいく。
そういったら、はるちゃんはどうやって笑うだろう。バック・トゥ・ザ・フューチャーを見るときのように、顔全体で笑ってくれるだろうか。
でも、この世にタイム・マシンなんてない。
あたしの記憶の中のはるちゃんは、群青色のトレンチコートを着て、背丈の七割の大きさの黒いギターケースを背負っていた。九歳離れた、あたしの叔母。
寒気を抑えて、あたしはまっすぐ前を見た。花。花。花。おばあちゃんの遺影。そのすぐ隣に両手をそろえておばあちゃんが立っている。おばあちゃんは左手の薬指に連なるふたつの指輪をなでた。ひとつは結婚指輪。もうひとつは宝石の欠けた婚約指輪。おばあちゃんだけがどこか楽しそうだった。お母さんもお父さんも目を伏せているのに。あたしはおばあちゃんに向かって小さくうなずくと「トイレ」といって立ち上がった。そして空いたあたしの席におばあちゃんが座った。おばあちゃんはうつむいたお母さんのおくれ毛を耳にかけてあげようとした。でも、ふれることはできなかった。幽霊だから。あたしは右手を強く握った。爪で手のひらが裂けてしまえば良いと思った。
ねえ、はるちゃん。いまどこにいるの? 今日はおばあちゃんのお葬式だよ。はるちゃんのお母さんでしょ。なにしてるの。早く、早くおいでよ。あたしのお母さんをひとりにしないでよ。迷子になってるなら、ここまで連れ戻してあげるのに。
あたしは群青色のトレンチコートを羽織って外に出た。十一月の暮れは制服だけでは少し寒い。葬儀場は駅の隣にあった。そこから平坦で、直線の道がつづく。この町には、あたしが小学校を卒業するまで、あたしとお父さんと、お母さんと、おばあちゃんと、お母さんの妹のはるちゃんと住んでいた。
鼻先に桜が散った。さくら。白いやわらかなはなびら。下肢部がひゅっと冷え、脊椎に汗をかいた。視界の先にゆるやかな坂道が伸びている。さっきまでなかったもの。道の両脇には満開のさくら。さくら、さくら、さくら。消失点のそのさきまでずっとさくらがつづいている。七年前と同じ。あたしは寒気を飲み込んで、坂道を登り始めた。あたしは、どうしてもはるちゃんに会いたい。
あたしは『普通』ではなかった。ときどき、知らないところに、紛れ込む。ときどき、死んだ人間を見る。でも『特別』でもなかった。お母さんはいつもあたしに『普通』を求めた。
「
お母さんはあたしのつむじを優しくなでてくれた。あかぎれの指先の感覚がすきだった。でも、いまあの手つきを思い出すと、つらくなる。お母さんは正しいから、大好きなその指をあたしは払いのけたくなる。罪悪感。疎外感。小さい絶望。こんなことに絶望するあたしってなんだろう。だってあたしは『普通』ではいられなかったから。でも特別にもなれない。はるちゃんとあたしは同じだった。
はるちゃんは音楽をしていた。そう表現するくらいには才能がなく、音楽を動詞にするくらいには切実だった。木枯らしで行進曲を作るとか、ハッピーバースデーのアレンジとか詩を朗読する六分間とか。よくわからない、うつくしい、売れない音楽。音楽をする理由だって曖昧で「落ち着くから」。かと思えば、オアシスのリヴ・フォーエバーを「わたしの曲だ」と語る。
でもはるちゃんになら何でも話せた。毎晩枕もとで嘔吐する血塗れの少女。一瞬でクローゼットの中身をひっくり返す顔の崩れた男。延々と続くさくらの坂道。死んだおじいちゃんが差し出す枇杷を受け取ったら虫だった。話の数だけ、はるちゃんは映画をすすめた。変なひとだった。
二
七年前、群青色のトレンチコートの襟を立てて、彼女の鎖骨あたりまであるギターケースを背負ったはるちゃんをあたしは追いかけた。
「タイム・マシンなんて絶ッ対に嘘だよ。サギなんじゃないの」
はるちゃんは可笑しそうに「詐欺かもねえ」と笑いながら、歩くのをやめない。
「もうお金はらっちゃったの?」
「いいや? なんかギターと交換でいいってさ」
ギター。背中に背負ったギターケースをみた。音楽をやめるってこと? 確認しようとしたあたしの鼻先にさくらの花びらが散った。下半身がひゅっとこわばった。さくら。もう十一月なのに? 冷えた牛乳を飲みすぎたときのようにあたしのお腹がこわばった。立ち止まるあたしに気づかずにはるちゃんは歩く。うまく呼吸ができなかった。「いかないで」トレンチコートの左袖をあたしは握った。「遠回りしようよ、ここ、いやだ」
「どうして? 昨日は普通だったのに」
「だって十一月にさくらなんて変だよ!」
「さくら?」あたしは強く頷いた。はるちゃんの目をみた。さくらがみえているのはあたしだけのようだった。「ここでおじいちゃんに会ったの。枇杷をもらって、家に帰ったら、ムカデになってた」でも、はるちゃんは動かない。あたしははるちゃんの右手を両手で握った。乾燥していた。指先が硬かった。はるちゃんは遠くのものを見るように眉をぎゅっと寄せ、二回瞬きを繰り返す。さくらのはなびらがはるちゃんの肩に落ちていく。それをはるちゃんは目線で追いかけた。
「……わたしね、会いたい人がいるんだ。会いたいというか、一目見たいひと」
「誰?」
「もとくん」
「誰、それ。しらない」
「近所に住んでた小中の同級生……今はどうだろ、わからないや」
「わかんないってなに? やれるだけやってからいいなよ。はるちゃんのよくないところだよ。ママもいつもいってる」
必死にはるちゃんの右手を引いた。でもあたしの力でははるちゃんの左の踵も動かせない。諦めるのは嫌だ。はるちゃんはまとわりつくあたしにスマートフォンの画面をみせた。誰かとはるちゃんのやりとりだった。『中学の時アメリカ人になるっていってたの覚えてる?』なにこれ。「バカなんじゃないの?」事実『そんなの書いたっけ』と返されている。はるちゃんだけが声を上げて笑った。「わたしもそう思う」はるちゃんはよく笑う。笑うのがすきで、得意だ。でも、はるちゃんが大きな声や仕草で笑うとき、いつもなにかをあきらめた顔をしてる。
「これが、もとくん」
はるちゃんは目を細めた。口元がすこし笑顔になる。『もとくん』が大切なんだとわかった。さくらの花びらがアスファルトの上で粉々になった。はるちゃんの右手があたしの指にかかる。親指、人差し指、中指、薬指、小指。順番にほどいていった。あたしは鼻をすすった。はるちゃんはコートをあたしの肩に乗せた。
「だからわたしにはタイム・マシンが必要なの」
あの日から七年経っても、はるちゃんは帰ってこない。
右肩に、群青色のトレンチコートの上をさくらのはなびらが滑っていく。さくらとさくらの間、白く煙った先に、人影が見えた。黒いギターケース。鼻筋。風で滑り落ちるショートカットの毛先。白いセーターにさくらのはなびらがたくさんついていた。
「似合ってるじゃん、そのコート」
はるちゃんがはにかんだ。かすかに左眉が下がっていた。
七丁目公園はさくらでいっぱいだった。滑り台も、鉄棒も、ベンチも、砂場もジャングルジムも。ああ、やっぱりここって普通じゃない。あたしは小さく息を吐いた。自動販売機で買ったらしいココアを差し出したけれど首を横に振った。
「藍那は、何が欲しいの?」
「……はるちゃんを連れ戻しにきたの」
はるちゃんは「これは困ったな」とぼやいた。それから一切の躊躇なく砂場に左足を突っ込んだ。灰色の、細かい砂がショートブーツの表面を覆う。はるちゃんは右足のブーツと靴下を脱いで裸足になると、再度砂場に足をいれた。
「寒くないの?」
「あったかいよ。おひさまの匂いだねこりゃ。藍那もどう?」
「砂場って犬猫の尿入ってそうでヤダ」
「ここで犬猫見たことないから平気だよ」
それはそれで寂しい。はるちゃんは左の靴も全部脱いですっかり裸足になった。それから、誰かが置いていった小さなスコップを手に取った。幼稚園生が使うような、真っ青な、プラスティック製のスコップだった。左手を窮屈そうに縮めながらはるちゃんは砂を掘り始める。
「なにしてんの、子供じゃないんだから」
「あはは。藍那も作ろうよ、トンネルとかお城とかピカピカの泥団子とか」
緑色のスコップを差し出された。人差し指と中指だけを伸ばして、スコップを受け取る。グリップのところには名前があった。モトヤ。誰かの忘れ物なのだろうか。
「はるちゃんは七年間なにしてたの?」
「タイム・マシンに乗ってたよ。なんかさ、年数分わたしも老けるの。最悪じゃない?」
「じゃあ『もとくん』と会えた?」
文字を見ながらあたしは聞いた。一瞬、はるちゃんの手が止まる。「会えなかったよ」すぐに手は作業に戻った。
「ねえ、はるちゃん、帰っておいでよ」
「帰るっていってもねえ、まずわたしはいつの時代の人間だと思う? 七年前? それともちゃんと二十歳に七年を足すべき?」
「はるちゃんさ」
「……懐かしいなあ。藍那はいつもそうだったね、はるちゃんはるちゃんって。あたしずっと妹が欲しかったから、うれしかった」
「『もとくん』の名前ってモトヤだった?」
お母さんは、春野はすぐに諦める、と言う。あたしもはるちゃんはよく諦める人だと思う。でもすぐだとは思わない。
「…………どうだったかな」
諦める理由をいつも探してる。それでいて、変に思い切りと思い込みが激しい。これで諦めよう、これがダメならあれで。
「ねえ『もとくん』は初恋のひとなの?」
あたしの言葉にはるちゃんは肩を震わせた。耐えられなかったのか、あはは、と声を上げて笑った。
「初恋ときたかー。もとくんのことは確かにすきだったけど、子供の頃の、ランドセル背負ってたくらいの話だよ? あの頃の好きっておままごとっていうかほんとうの恋愛とはいえないからなあ」
「あたしはそうは思わないけど」
「えっもしかして、藍那コイビトできた? それとも好きな人? ねえこれコイバナ? 聞かせて聞かせて。春野ちゃんにおしえて」
「ヤダ」
「えー。そうか、そうだよね。わたしも誠意ってもんを見せないとだめだよね」
はるちゃんはスコップを置いて、砂場の傍においていたギターケースをまさぐる。じゃじゃーん。効果音を口ずさんで青緑のラムネ菓子を掲げた。掌に三粒とりだす。目配せ。あたしは首を横に振る。
「コイバナなんていつぶりだろ。恋も愛も距離あるし……やっぱりもとくんの話をするしかないか」
「いつからすきだったの?」
「……九歳かな、小学三年生。そこから今日まで」
「え。それって何年?」
はるちゃんの目線がまっすぐあたしに注がれている。あたしとはるちゃんは九歳差だった。「十八年?」あたしより幼いはるちゃんのことを考えようとして失敗した。「っていうか、初恋なんじゃん」あたしは口を尖らせた。はるちゃんは右手からラムネをひとつ口に入れた。
「わたしの初恋は幼稚園で一番足が速かった男の子。名前は……仮にキヨシくんとしよう」
はるちゃんはふたつめのラムネを食べた。
「で、次が小学二年生の時リレーの選手だったシゲマツくん。彼、中学では不登校になっちゃったんだよね」
「三人目が学校で一番足が速かった『もとくん』?」
右手に残った最後のラムネをはるちゃんが見つめる。苦笑を浮かべ「いいや」と首をふった。ラムネの青緑色のボトルに、右手の一粒を仕舞った。恭しい手つきだった。
「もとくんは、走り方が変だった」
重要な情報を思い出した、というように「家が近所だったの」とはるちゃんが付け足す。
「じゃあさ、どこが良かったの?」
「……所作?」
「所作が綺麗ってこと?」
「うーん、違う。きれいって印象の子でもないし。良くも悪くも素朴な、朴訥としたひとだったよ」
はるちゃんは瞬きを二回した。右手に握っていたラムネのボトルを左手に持ち替える。
「……走り方が変だったっていったでしょ。ああいう感じ。フシギくん? みたいな。露骨に変わっているというよりは、いわれてみれば、くらいの。だから、歩き方とか所作もね、ちょっと変でさ。容赦ない女の子はそれみてひそひそしてて、不愉快だった」
「走り方が変って言われてもわかんない」
「歩き方のほうがわかりやすいかな。藍那ならどうやってあるく? ほら実践してみて」
あたしは砂場の正面にあるジャングルジムの方まで追いやられた。首をひねりつつ、ジャングルジムの円周を歩く。歩くっていったって。「そうそう。ゆるやか~に腕を振って、前に出ている手と足は左右揃わない」はるちゃんは野次る。あたしは耳を覆って叫んだ。
「やめて! そうやって言語化されると逆にわかんなくなっちゃうから! あああっ、ロボット歩きになっちゃう!」
あたしは円周から大きく逸れて、ベンチに縋りついた。その様子をみてはるちゃんはひとしきり笑った。
「見ててね」はるちゃんはジャングルジムの前まで走っていくと一回背伸びをした。ジャングルジムの円周を少し速足で歩いた。ちゃかちゃかと一周する。歩いてるなあ。はるちゃんが振り返る。喜色満面。自信ありげに膨らんだ頬と眉に向かって、あたしは右手と左手でバツを作る。はるちゃんは、あちゃー、なんていう頭に手を置いて激しいジェスチャーを返した。はるちゃんは掌をメガホンみたいに口に当てた。「腕、見てて」腕? 聞き返す前にはるちゃんが再び歩き始める。腕。はるちゃんの右腕を見る。ロボット歩きではない。流石にわかる。そう思いながら、右足を見た。右、左、右、左。規則正しく二拍子を刻んている。もう一度、腕。あ。腕を振ってない。あたしが気付いたとき、はるちゃんの足も止まった。
「もとくんは、こうだった」
笑顔だった。小学生みたいに口を開けて、満足そうに眦が溶けている。
「ふうん、じゃあ走り方も同じ感じ?」
「走り方はむしろ逆。いや、もとくんの名誉のためフォローすると、フォーム自体はすごくきれいなの。背中もまっすぐで、腕も振れてる。足も歩幅が大きい。でも足の回転が足りないから、速くない。遅くもないけど」
「ねえさっきから『もとくん』の悪口しかきいてないんだけど……好きだったんだよね?」
おもしろくなかった。
「そんなひとのためにタイム・マシンが欲しかったの?」
はるちゃんは毎回毎回それらしい理由をつける。でもあたしはそれが本当だと思えない。裸足でジャングルジムの前に立つはるちゃんを眺めた。はるちゃんってこんな小さかったんだ。「わたしの卒アルみた?」頷く。「もとくんの顔わかる?」首を左右に振る。
「そりゃ『春野』ほど悪目立ちはしないけど、もとくんって呼ばれそうな子はひとりでしょ」
はるちゃんは裸足の左足をジャングルジムの二段目にかけた。「わたしさ、もう、もとくんの顔をはっきりとは思い出せない」抑揚のない言葉だった。地震速報を告げるアナウンサーの声だ。
「中学の卒業アルバムの写真を、ぼんやりと覚えてる。写真が苦手なひとだった。笑顔が完成する前にシャッターを切られちゃうの。でも、わたし、もとくんが本当はどうやって笑うか、知ってた。朗々とした、笑い方だった」
慣れた手つきではるちゃんはジャングルジムを上っていく。高さごとに塗り分けられた遊具の一番上の、赤色の区域までたどり着く。
「形容詞だけを覚えてる。馬鹿みたいでしょ」
あたしはジャングルジムの一番上にいるはるちゃんの目をのぞいた。黒い虹彩のなかに、口をゆがめたあたしがいた。
「なんでそんな好きなのかがわかんない」
「すきとかじゃないよ、もう。ただ、特別なだけ。ひっこみがつかないの」
「特別って恋と何が違うの」
「後悔とか?」はるちゃんは首をすくめた。
「小学三年生のとき、学校のジャングルジムでもとくんと鬼ごっこをしてたの。わたしともとくんと
「友達だったんじゃん」
「どうかな。すぐに遊ぶのをやめちゃったから。やめた日のこといまでも覚えてるよ。もとくんに、鬼ごっこに誘われたの。いいよ、美紀も誘おう!って答えたら、『美紀ちゃんは女の子たちと一輪車乗るから』って言われて、全部ばかばかしくなってやめたの」
「なんで?」「美紀ちゃんって呼んだから」「……なんで?」あたしの詰問にようやくはるちゃんが口を開いた。「……もとくんは私の名前を呼ばないけど、美紀の名前は呼ぶってわかったから」はるちゃんの眼は特に揺れなかった。「ガキだよね」感情的にはならない。
「もしも、タイム・マシンがあったなら、やり直したいって思ってた。ふたりでも遊ぼっていうの。ふたりが無理ならほかの子を誘う。他のクラスの友達でも、誰でも」
あたしはジャングルジムの下から二段目に右手をかけた。黄色の区域を抜けて、水色の区域を抜けていく。そしてすぐに一番上にたどり着いた。
「後悔ばっかり。小学五年の一月三十一日、もとくんに傘を貸せばよかった。中学の卒業式に連絡先を聞けばよかった。高二の模試会場で声をかけてみればよかった。……普通なら、どうでもよくなるって、大人になってから知った」
「それだけ特別だったんでしょ」
「人より忘れてないだけ。それも音楽のせい。わたしにとって音楽は日記みたいなものだったから。確かに、もとくんはわたしにとって特別かもしれない。でも、もとくんじゃなきゃいけなかった理由はどこにもない。思いつく後悔の始点がジャングルジムなだけ」
「……タイム・マシンでその日に行ったの?」
はるちゃんは腕を伸ばした。左腕が伸び切ったさくらの枝にぶつかった。白いニットからはらはらとさくらが散った。砂場のかすかにくぼんだところに落下する。はるちゃんは腕を下ろして、ジャングルジムを握る。
「なんでその日に行かなかったの?」
「わかんない?」
「……わかんないよ」
「戻ったところでさあ、何も変わらないの」
睫毛の根元が震えている。
「もとくんはわたしの名前を呼ばないし、覚えてもいない」
はるちゃんはジャングルジムの足場に背中を倒した。
「もとくんとね、連絡をとった。友達の知り合いの、って辿って。あ、タイム・マシンに乗る前ね……もとくんは、なんか応じてくれた。まああのひと基本善良だし」
風が通り抜けていく。十一月の肌に痛い乾燥した風だ。はるちゃんの額にさくらがおちる。さくらと額の境界線が消えてなくなった。一体化するように、はなびらがきえる。
「聞いてみたの。なんで返信くれたの? って。そしたらさ、もとくんはなんて答えたと思う?」
「困ってるみたいだから……?」
「惜しい。『
「じゃあ、あたしと帰ろうよ」
背中を倒したはるちゃんの顔を覗き込む。睫毛はまだ濡れていた。
「そんな酷いひとのために一人でいるの?」
あたしははるちゃんの右手の甲にふれた。つめたい。はるちゃんは黙って微笑む。
「わたし、もうすぐさくらになるよ」
はるちゃんがわたしに銀色の指輪を握らせた。ダイヤモンド。華やかな指輪だった。理解できなくてあたしははるちゃんの眼を探る。
「お母さんの婚約指輪。砂場にあった」
「どういうことなの?」
「ここは全ての後悔が行き着く場所らしいよ」
後悔。
「ある人は婚約指輪と肉体を交換する。またある人はタイム・マシンとギターを交換する。あるひとはうつくしい枇杷と孫を。そうやって後悔を晴らすの。だからなにもしないで後悔に浸るなら、さくらにされちゃう」
「はるちゃん」
「でもそもそもわたしは帰れない。帰るためには約束を守んなきゃいけない。誰とも物を交換しないこと、何も口にしないこと。このふたつ」
「あたしは、はるちゃんを探しに来たの」
「お母さんの婚約指輪がここにあるのはどうしてだと思う? 手に入れた瞬間に成就したことになるわけ」
はるちゃんの頬にさくらのはなびらが落ちる。そこは白いあざになった。
「……さくらになるとどうなるの?」
「さあ」
「知ってた? はるちゃんってね、どうでもよくないとき、もういいっていうの。本当は帰りたくないんでしょ。なら、過去全部戻ってみればいいじゃん。しないなら帰ろうよ」
はるちゃんの頬のあざをなでた。「さみしいよ」それだけはいいたくなかった。「だから早く満足して帰ってきて」さみしい。あたしは、死んだ人とは会える。ねえ、はるちゃん。さくらになるんじゃもう二度と会えないよ。
「変わるかなあ、たぶん、変わんないよ」
「そんなの、変わるまでやってよ」
あたしははるちゃんじゃない。音楽はやっていないし、日記だってつけていない。だから忘れちゃう。でも覚えていたい。だから傍にいてほしい。「ひとに、大事にされるのってきぶんがいいね」はるちゃんがゆっくりと上半身を起こした。「ありがと」あたしの頭に左手を乗せた。こわごわとつむじを撫でる。毛流れにそって、ゆっくり、ゆっくり撫でた。ぎこちない手はすぐに離れてしまった。
「もとくんもそういってくれたらよかったのに」
はるちゃんが天を仰いだ。満開の桜で埋めつくされて、空は見えない。
「ねえ、藍那。もしも、タイム・マシンであの日に帰っても、なんも変わらなかったら、どうしようね」
震えていた。あたしははるちゃんのちいさな背中に群青色のトレンチコートをかけた。「またね」あたしはジャングルジムの頂点から飛び降りた。足がジンと痛んだ。あたしは右足の踵を翻して公園をでる。坂道を歩く。寒かった。
三
七丁目公園。看板が見えた。街灯に照らされてまだらに光る真ッ黄色の銀杏がぐるりと切り離すように立っている。あたしはすこし歩幅を広げた。一歩、二歩、三歩。ローファの靴底をえぐるようにアスファルトにたたきつける。あたしは次第に走り出していた。あたしは公園のなかに飛び込んだ。周囲をみる。銀杏。滑り台。砂場。ベンチ。鉄棒。自動販売機。それだけ。ぽっかりと、ジャングルジムの分だけ空間が開いている。ジャングルジムが、ない。ない。はるちゃん、もう、ジャングルジムもないよ。
グレーのダウンジャケットを着た男が通り過ぎていく。あたしは葬儀場へ向かって再び歩き始めた。目の前の男の腕が目についた。その人は左手に紙袋を握っていて、少し早歩きだった。腕は揺れていなかった。右腕も、左腕も。どちらも腿のあたりに固定されている。そんな馬鹿なことあるわけない。でも、もしも。「あの、すみません!」あたしの声に男性が振り返った。
「子供のころ『もとくん』って呼ばれてませんでしたか?」
「は?」
「あたし、家族で昔ここに住んでて、はるちゃん……春野ちゃんが小学生の時に同級生とジャングルジムで遊んでたって聞いてて、もしかして、って」
「ごめん。ちょっとよくわからないんだけど」
「中学生の時、アメリカ人になりたいっていってませんでしたか?」
耳と頬が一気に温度を上げた。
「あー……うん、あってる。子供のころ『もとくん』って呼ばれてたよ。小学生とか、ほんとうに子供だったときのことだけど。それで、そっちは……妹さん、でいいかな」
言葉を探しながら話す人だった。二度ほど瞬きを繰り返す。
「それで、ハルノさんって春の野原で春野さん……中西春野さんのこと?」
「はるちゃんのこと覚えてるんですか!」
思わず一歩距離を詰めると、そのひとは一歩下がった。曖昧に笑って、首をひねる。
「……覚えているとはいえないかな。ただ、数年前に文彦……友達が、春野さんにこっちの連絡先教えていいかって話をされたから。中西も春野も名字みたいだなと思って、記憶に残ってた。いろいろと珍しかったからね」
そのひとは右を見た。横顔は街灯の光からかすかにはぐれて、そのひとの陰影を浮かび上がらせた。やわらかくて、薄い顔立ちのひとだった。すぐ傍を赤いスポーツカーが走っていって、そのひとの鼻筋を一瞬てらした。
「あのひと、『もとくん』なんて呼んでたんだね。ジャングルジムっていうと、あ、そういうことか。いたんだ。……春野さんって、あの子か。だとしたら、悪いことしたかも」
「ジャングルジムで何かあったんですか」
「特別なことは何もないよ。小学生のとき、ジャングルジムで遊んでたってだけ。クラス混ぜこぜの五人くらいで放課後の公園で遊んだ……。ひとは結構入れ替わり激しかったけど、小学校卒業するくらい……四年くらいやってた。懐かしいな」
「学校では遊ばなかったんですか」
「あー、どうだったかな……遊んだかもしれない。何がきっかけだったんだろうね。もうわからないかも」
心臓がひねりつぶされるように痛かった。「覚えてないですよね」変わったのに、変わらない。穏やかに語るこのひとの記憶に、はるちゃんはいない。
「まあね、もう十五年近く前だから」
「もし。……もしも、タイム・マシンがあったなら、どうしますか?」
子供みたいな質問だ。でもあたしは制服をきていた子供だったから、なにそれ、そのひとは笑った。「どうもしないよ」秋の夜のなかでも鮮やかだった。『もとくん』は、朗々と、顔全体で笑った。
「あの、写真撮ってもいいですか? はるちゃんに見せたいんです」
断られる前に言葉を重ねた。「はるちゃんはいま旅に出てて」調子よく嘘が出た。「でも連絡全然くれなくて、どこにいるかもよくわかんなくて」結論の見えない言葉を吐き続ける。
「だから、会いに行くつもりなんです。だからそのお土産に。きっと……絶対、大笑いするから」
そうだ、会いに行こう。いまの『もとくん』の写真をもって。そして、あたしは、はるちゃんとタイム・マシンに乗るのだ。絶対に。
十一月二十八日 入相アンジュ @harukujiracco
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