双子が還る日
長い時間、長い日にちをベッドの上で過ごした。
ずっと眠っていたわけではなかった。
夢を見ては体を起こし、そしてまた横になる。夢の中にドブニコが登場するたびに、部屋を飛び出し港へ駆け出したくなった。
私は、堪えた。
それはやるべきことではないと理解していた。私はまず回復し、考え、行動しなければならなかった。
横になったまま、『しょっぱい方舟』を何度も読み返した。ドブニコの性格は把握している。ドブニコは必ず、自分の物語に複数のメッセージを込める。しかし、この『しょっぱい方舟』は私には難解な物語だった。
しょっぱい要素も登場しなければ、もちろん方舟なんて出て来ない。ただ、森の中で暮らす老婦人が自分の思い出を語っているだけ、の物語だった。
「あのねヘド、私はとても単純なんだよ。シンプルな人間なんだよ。ただ、無数の伏線を張って、回収する方法も考えずに伏線を張り巡らせて、放置しているだけなんだよ。あとは勝手に読者が勘違いしてくれる。積み上げられた伏線は、偶然どこかに手を加えれば崩れて連鎖し、また崩壊して、何か意味が繋がっているように勘違いしてくれる。勝手にね」
――勝手に、というのは言い過ぎだろう。
ある日、ドブニコは私に古びた革製の手帳を見せた。そこには、過去五年分の天気や、街の
「物語は空から降ってくるんじゃない。地道に拾い集めるもの」
その手帳は、まるで未来の物語の設計図のようだった。
もっとも。その日の天候など、後々に調べる方法なんていくらでも存在する。街のどんな小さなトピックであれそうだ。だがドブニコは、自分の手でのインプットに
ドブニコは決して達筆ではないが、角張った特徴的な文字で、いつも同じ調子で手帳の頁を埋めた。
そして何度も読み返すのだ。
私が繰り返し『しょっぱい方舟』を読み返すのと同じように、ドブニコは指に自分の唾を付け、何度も頁を
――さて。そろそろ、起き上がらなければ。
私はベッドの脇に腰を下ろすと、サイドテーブルの引き出しから古びた包帯を取り出す。
包帯の上から留め具を付け、立ち上がり、ずり落ちないことを確認してから、床の上で二、三度跳ねた。
二人で暮らすには手狭だと感じていた部屋が、今は際限なく広がる空洞のように感じられる。特に、夜な夜なドブニコが奏でていた小さな寝息の聞こえない静寂は、思いの外不快に感じていた。
手頃な大きさの麻の袋に『しょっぱい方舟』の原稿を収め、小さな巾着袋を
通りに出ると、酒の匂いを
ほんの少し前まで――死んだように静まり返っていた大通りは、今や人並みで息づいているらしかった。かつて散り散りになった住民たちが、再びこの町を目指して帰還したのだろう。検問の撤廃により、町同士を隔てていた境界線が融解した。
しかし――と、私にその話を教えてくれた大家は言った。
「まあ、誰のことも信じるな。俺のことも信じるな」
と、無表情な声で語る。「俺たちは騙されていたんだからな」と続けた。
大通りを抜けると、色鮮やかなタイルが敷き詰められた広場が、眼前に広がる。最盛期と比べ、まだ人影はまばらで、かつての
その中心部に、高さ七、八メートルはあろうかという細長い棒が何本か突き刺さっている。上端には、浅く
棒の傍らに立つ男が、声を張り上げて客を引き、筋骨隆々たる工員が、己の肩や背中を棒にぶつけぐらつかせる。
揺れが何度目かを数えた時、大皿の縁から人間一人が吐き出された。身綺麗な老婦人の体は、そのまま床に叩きつけられ、ぴくりとも動かない。
工員は再度棒に体当たりしたが、結局、大皿は誰も吐き出さないまま静まり返った。男が渡すコインを受け取ると、工員は未練がましく大皿を振り返りつつ、その場を後にする。
私の存在に気づいた男は、一瞬目を見開き、すぐに営業用の笑みを浮かべた。私は黙って前に歩み出て、一本の棒の根元に立った。
「さて」
久しぶりに発声した。ドブニコがいなくなって、声の出し方を忘れてしまいそうだ。
私は両手を軽く添え、棒に微細な振動を与え始める。上を見上げる必要はない。大切なのはイメージだと、ドブニコは教えてくれていた。
一人、二人とヒトが大皿から
手を擦り合わせながら近づいてくる男の、
——中央までの道は、意外なほど整備されていた。磁力で浮遊する小型の乗り合いポッドに乗れば、わずか数十分でメンテナンスセンターと呼ばれる施設に到達できる。簡素な金属製のターミナルを抜けると、冷たく光る自動扉が待ち受けていた。
私は『しょっぱい方舟』を抱え、深呼吸する。ドブニコのメッセージを思い浮かべながら、足を進める。カナサ夫妻の娘は、すぐ先にいる——
面会は
メンテナンスセンターの中には食堂や売店、雑貨なんかを扱う店もあったが、私は待合室に腰を下ろし、
やがて四時間が経ち、係員が私を呼ぶ声が聞こえた。
告げられた番号の部屋に足を踏み入れると、医療用の椅子に腰掛けた新しい
「二、三週間もすれば慣れるよ。神経の伝導速度は元のドブニコにアジャストしてあるし、動きに不快さがあってもすぐに消えると思う。私と同じ旧式のボディでごめんね。最新のものは桁が違って手が届かなかった」
と、私と同じ背丈、私と同じ体格、私と同じ顔をしたドブニコに言った。
「記憶が残ってて、嗜好が変わらなければ問題ないよ」
前髪をつまむようにしてミラーで確かめながら、ドブニコは手で整えてみせた。元々のショートカットを再現したが、気に入らなければ切り揃え直せばいいだけのことだ。「それより——」とドブニコが続ける。
「随分早かったね。ヘドを少しは苦しませようと、凝った仕掛けをしたつもりなんだけどな」
「原稿が文字通りしょっぱかったから。それで気づいた」
ドブニコが口角を僅かに持ち上げて、わざとらしく笑みを浮かべた。
「舐めたの?」
「舐めたよ。それから、表と裏の手触りを確かめた。引っ掛かりのある部分を拡大して、塩の結晶で書かれたメッセージのようなものを見つけた。私には解読できなかったけど、結局あれは何だったの?」
顎先を指で擦りながら、ドブニコは私の疑問に答える。
「あれは、私の記憶が保存されているサーバーのアドレスと、データの暗号鍵。あの部屋で暮らす、私たちの痕跡の全てがアップロードされているの」
「それは、プライバシーの侵害だね」
しかしそのおかげで、ドブニコの記憶は完全な形で再生を果たした。もし万が一、私に不慮の事態が降りかかっても、その秘匿されたサーバーは、同じ理屈で正確な「私」を呼び戻せるに違いない。
「とまれ、お帰り。ドブニコ!」
唇を
「ヘド、ただいま。私は早くあの懐かしい部屋に戻って、ヘドと抱き合って眠りたいよ。私が私であること、ヘドがヘドであることを確かめ合いたい」
——メンテナンスセンターを出た私たちは、指を絡ませるように手を握り合い、歩みを緩めて帰り道を楽しんだ。
端から見れば、瓜二つの双子の姉妹が他愛も無いお喋りをしながら、歩いているように見えるに違いなかった。
(了)
ヘドとドブニコ 水本グミ @mizumotogumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます