蟷螂

増田朋美

蟷螂

そろそろパリ市内も寒い季節がやってくる頃であった。寒いときは、暖かいものが恋しくなって、食欲がまして美味しいものが食べたいなと思いたくなる季節である。そんなときは、ついついデパートのショウウインドウなどにある、手作りのケーキとか見てしまいたくなるものだ。

その日も、モーム家では、トラーが一生懸命水穂さんにご飯を食べさせようと躍起になっていたところだった。

「あーあ、今日もまたダメか。」

トラーは、お皿を眺めながら言った。お皿には、美味しそうなシチューがたっぷりはいっているのに、全く手をつけられていない。そればかりか、付け合せである、サラダでさえも、何も手をつけられていないのだ。薬を飲んでいるためか、飲み物は手を出しているようだけれど。

「日本では、箸休めにするたくあん一切れ程度なら、食べてたんだけどねえ。まあ、ここじゃあ、たくあんも手に入らないしな。全く、せめてサラダだけでも食べてもらいたいな。」

杉ちゃんもトラーのいうことに同調しなから言った。

「まあ無理なこと考えてもしょうがない。たくあんも、納豆も、豆腐もここではなかなか手に入らないでしょ。それよりも手に入る食べ物を食べてもらうように、なんとかして説得しなくちゃだめだ。このままだと、もっと窶れた、痛々しい顔になる。」

「もうなってるわよ!」

杉ちゃんがそう言うと、トラーがそういった。

「もう何日もご飯を食べないで布団に寝ているだけの日々が続いてると思ってるの!」

「とらこちゃん落ち着け。」

杉ちゃんは彼女を止めた。

「だって、いつもそうじゃない。いくらご飯くれても食べないし、食べさせようとすれば咳き込んで吐き出しちゃうし。ましてや、血を出すこともある。そりゃ、本人は苦しいかもしれないけど、あたしたちのほうがもっと辛いわよ。このままじゃ、水穂、本当に餓死しちゃうわ。そうなったら、そうなったら、、、!」

トラーは、残った食事に涙が入ることも忘れて泣き腫らしてしまった。

「大丈夫だって、ベーカー先生も言ってたじゃないか。薬飲んでれば大丈夫だって。それに、日本であるような同和問題は、ここではないから、いざとなったら、病院へ連れて行くこともできるって言ってたのとらこちゃんでしょ。だから、落ち着いてよ。」

「そうね。そのとおりかもしれない。」

トラーは、すぐに泣き止んでそういった。

「杉ちゃんに、あたしが日頃から言われていることを言われたら一貫の終わりだわ。まだまだ、水穂を看病しなくちゃならないし、あたしが気弱になってたらいけないわよね。」

こういうところは女性特有の感情なのかもしれなかった。誰かの歌詞で、女性は愛し始めると怖いもの知らずになると言っていたことがある。トラーもそういう感じなのだろう。

「あたしも、まだまだ頑張るわよ。なんとかして、水穂にご飯を食べてもらわなくちゃね。それで泣き言言ってたら辛いわ。さあ、早く立ち直らなくちゃ。」

そう言って彼女は額を叩いた。それも自傷行為なのかもしれないが、ちょっと違う自傷行為なのかもしれなかった。

「トラーが、他人のことで悩むようになった。」

朝ご飯を食べながらそれを眺めていたマークさんが、嬉しそうに言った。

「今まではずっと自分はだめだとか、そういうことばかり言っていたのが、嘘みたいに今は水穂さんのことで、頭を悩ませている。それは、兄としては、本当に嬉しいことだよ。」

「何よお兄ちゃん。あたしは、生まれたときから悩んでいることは同じよ。」

マークさんの言葉にトラーはすぐそういった。素直にありがとうといえばいいのにと杉ちゃんは言いかけたが、トラーがタオルで顔を拭いたので言わないでおいた。マークさんが、じゃあ仕事に行ってくるよと言って家を出ていった。マークさんにしてみれば、トラーが水穂さんのことで頭を悩ませているのは嬉しいことに違いない。だけど、世の中すべての人が嬉しいと思うわけではないのである。

「おはようございます。」

モーム家の玄関のドアがあいて、トラーの幼馴染のチボーくんがやってきた。最近マークさんが仕事が忙しいから、手伝い人がいないと困るだろうという理由で、チボーくんは、毎日のようにモーム家にやってくるのであるが、それはまた意味が違うことを含んでいるような気がする。

「ああおはようせんぽくん。いつも来てくれてありがたいね。」

「いやあ、あんまりにも心配で、どうしようもないから来てしまったんです。」

杉ちゃんに言われて、チボーくんはそう答えるが、

「それにしても、しょっちゅう近くを通りかかるよねえ。」

と、杉ちゃんに言われて、ちょっとムッとした顔をした。ヨーロッパ人は感情をすぐ顔に出してしまうものであるが、杉ちゃんはかえってそのほうがわかりやすいと言っている。チボーくんは杉ちゃんの言うことには反論せず、

「ああ、水穂さんまた食べないんですか。それでは困りますね。ただでさえ、あんなに窶れた姿になっちゃって、このままでは冬は越せませんよ。これ以上食べなかったら、」

「そう。もっと窶れた痛々しい姿になっちまうな。もうショパンの生き写しではなくなってしまうかもしれん。」

と言ったのであるが、杉ちゃんに結論を出されてしまった。

「それにしてもとらこちゃんどこへいったのやろ?」

と杉ちゃんが不意に言った。チボーくんが、ちょっと探してきますと、車椅子に乗っている杉ちゃんの代わりに、客用寝室に行ってみた。

チボーくんが客用寝室を覗くと、水穂さんがベッドに寝たままの姿勢で、えらく咳き込んでいるのが見えた。トラーはその背中を擦ったり叩いたりしている。確かに、水穂さんは、チボーくんが見ても大変美しい顔つきで、こんな日本人はなかなかいないと思われるほどきれいなのだが、このままご飯を食べない状態が続けば、それが半減してしまうだろうなということも確かだった。

トラーは水穂さんに水のみで薬を飲ませた。それによって咳き込むのはやっと泊まってくれる。でもそれには眠気を催す成分もあり、大体は途中で眠ってしまう。トラーは、目にいっぱい涙をためて、水穂さんに、

「なにか食べたいものは無いの?」

と、聞いてみると、水穂さんは、本当に申し訳無さそうな顔をして、

「お芋の切り干し。」

と言った。チボーくんとしては何でこんなものを食べたがるのだろうというくらいだ。芋の切り干しなんて、到底ここでは手に入らない代物である。第一、さつまいもを天日で干して、それを火で炙って食べる料理なんてあるもんかと思う。

薬が回って眠ってしまった水穂さんを、涙を拭くのを忘れて、ずっと見つめているトラーを見ているチボーくんも辛いものがあった。でも、彼女が、こういうことを呟いているのが、チボーくんには聞き取れた。

「何言ってるんだろ。水穂が、芋の切り干しが本当にほしいんだったら、あたしがなんとかしてあげなくちゃ。それが一番の好物なんだから!」

すぐにトラーは立ち上がって、部屋を出た。ドアのところにいたチボーくんは思わずたじろいてしまったほどだ。彼女は一度なにか決めると、その時の顔が本当にすごい顔になるのである。それはある意味どこかの有名な女優みたいにきれいなところがあって、なんだか魅力があるように見えるけれど、それを取ってしまえば、実現不可能なことであることをチボーくんは知っている。だからトラーのことが心配になるのだ。

「あらどうしたのとらこちゃん。」

杉ちゃんに声をかけられて、トラーはすぐこういったのである。

「杉ちゃんなんとかして、ここでお芋の切り干しというのを作れないものかしらね。もし、知ってるんだったら作り方教えてもらえないかしら。」

「お芋の切り干し?ああさつまいもの切り干しね。でも、すぐに食べられるものじゃない。何日か天日で乾燥させてそれで作らないとできない。」

杉ちゃんは、すぐに答えた。トラーは外を見て、

「そうか。こんな雪だらけの街じゃむりか。」

と、大きなため息を付いた。

「だったら売っているところを探すわ。百貨店とか、そういうところだったらあるのかもしれないし。それに日本の食事がちょっと流行っているって、言ってたわよね?」

不意にチボーくんは自分の方をトラーが見たのでびっくりしてしまった。

「ええ、まあ、そうだけどね、豆腐や納豆はそういうところで買えるかもしれないが、芋の切り干しなんて言う料理を買うことは、まず無理だよ。それに、こっちの言語でなんていうかもわからないじゃないか。だから、無理なものはむりなんだと、諦めたほうが良い。」

しどろもどろにチボーくんはそういうのであるが、それが彼女の決意をはっきりさせてしまったようだ。

「あんたはいつもそうね。無理とか、できないとか、そういうことしか言わないのね。でも、あたしは諦めないわよ。だって、ご飯を食べないと、水穂が助からないわよ。もう最悪の場合、日本から取り寄せることだってできるわ。それならあたしもやってみる。」

トラーは、台所においてあったノートパソコンでなにか調べ始めた。チボーくんは自分はなんてことを言ってしまったんだろうと呆れてしまい、自分の顔を気絶するほど殴りたくなった。

「マークさんは、とらこちゃんが、前向きになってくれて嬉しいと言っていたが、前向きになればなったで、とらこちゃんは問題があるな。それを、少しずつ修正して、現実に適応できるような思考を持てるようにしなくちゃだめだ。」

と、杉ちゃんがそっと、チボーくんに呟く。そのとおりだとチボーくんは思うのであるが、そうですねといっしょに言うことはどうしてもできなかった。なぜならそれほど彼女は美しいからだった。杉ちゃんが、どこかの女優さんみたいに可愛いと言っていたのが思い出される。そのくらいトラーは、凶暴で気が荒い女性だったが、可愛くて、テレビなどに出ても良いのではないかと思われる顔をしていた。

二人は、トラーが一生懸命調べているのを邪魔すると言うか止めることができず、ただ眺めているしかできなかった。やがて何時間経ったかわからないほど待たされたあと。

「あった!」

とトラーの高い声で沈黙は破られたのであった。

「しかもここから目と鼻の先よ。電車で行ければすぐだわ。あたしちょっと行ってくる。」

チボーくんは、そのウェブサイトをシェアしてくれと言って、自分のスマートフォンに、転送してもらった。しかしその画面に書いてあるのは確かに、さつまいもを日本式に加工して販売している会社なのだということはわかったが、でも、目と鼻の先ではなく、電車で、2時間以上かかる場所であった。それも、1時間に一本くらいしか電車が走っていない場所だ。

「何を言っているんだ。目と鼻の先というのは、こういうときに使う言葉ではない。これでは、片道でも、3時間はかかるし、電車の本数だって少ないよ。」

チボーくんはそう言うが、

「うるさいわね。電車が一時間に一本走っていれば上等じゃないの。それに、三時間電車に乗っていければ、芋切り干しだって買えるのよ!」

トラーはちょっときつく彼に言って、荷物をまとめて出かけてしまった。トラーは一度決断すれば、言い出したら聞かないし、こうして爆発してしまうこともある。そういうところが、まだまだ彼女自身良くなっていないと思われるが、それでも、自分のためではなくて、人のために何かをしようとしているのであれば、大きな進歩かもしれない。

チボーくんはがっかりと落ち込んだ。うるさいわねという言葉が、ぐさっと体に突き刺さった。

「せんぽくん。」

杉ちゃんに言われて、ハッとする。

「男らしく、告白しろ。」

また言われてしまったと思ったが、チボーくんは仕方なく、

「はいそうですね。」

というしかなかった。でも、杉ちゃんにちょっと意外な質問をされた。

「お前さんは、とらこちゃんを特別な存在として見ているようだけど、幼馴染であるだけではなく、なにか理由があるのか?子供の頃から仲良かったってことだよな?」

「そうですね。」

チボーくんは少し考え込んだ。本当のことを話すべきか迷ったが、もう、ここに来てくれている人たちだし、杉ちゃんであれば本当のことを言ってもいいと思った。

「まあ僕は、彼女とは何度も交換日記をやってきましたからね。それで、彼女の家庭環境とか、そういうこともなんとなく知ってますよ。決してあの二人、恵まれているわけではありませんもの。だから、心配になるんですよ。」

「はあ、そうなんだねえ。それはどういうことかなあ?なにかとらこちゃん、問題があったのか?もちろんなければ、ああいう精神疾患にはかからないよなあ。」

杉ちゃんに聞かれて、チボーくんは答えなければと思った。杉ちゃんという人は、答えが出るまで納得しないので、ちゃんと答えを言わないとだめなのである。

「実はですね。日本でもこういうことはよくあることかもしれませんが。」

チボーくんは話し始めた。

「トラーのお母さんのことでちょっと問題があるんですよ。彼女のお母さんは、もともと、学校で校長先生をするくらい偉かったんですが、何故か、お母さんの家に雇われのガーデナーだった男性、それがつまり、マークさんとトラーのお父さんになるわけですが、その人といきなり結婚してしまったんですよね。」

「はあ、雇われ庭師ってやつか。」

今度は杉ちゃんがびっくりする番だった。

「確かに、大きな屋敷では、そういう人間が雇われることもあるな。造園業とか言って。」

「ええ、その当時はびっくり仰天だったようですよ。トラーのお母さん側にしても、お父さん側にしても、あまりにも立場が違う人間が一緒になったということで、大騒ぎだったようです。」

「そうかそうか。つまり身分違いの結婚だったわけね。」

杉ちゃんは、チボーくんの話をまとめた。

「まあ、日本ではあまり例がありませんが、こっちではよくあることなんです。なんでも、許可もないのに家を出て、僕の家の近くにマンションを借りて住むようになったそうなんです。それで、数年後に、マークさんとトラーが生まれて、僕らの家族も仲良くお付き合いを始めたというわけですが。」

チボーくんは話をつづける。

「でも、なんか生活がうまくいかなくて、結局、トラーのお母さんが、お父さんを追い出してしまったそうなんですね。トラーは、お父さんのことをすごく好きで、尊敬していたので、それですごく落ち込んでました。更に悪いことに、どっかで生きていればよかったんですが、お父さんはもう行く場所がないとでも思ったんでしょうね、自ら自分の身体を焼いて死んでしまったと聞きました。」

「はあ、つまり自殺に追いやって殺してしまったというわけか。とらこちゃんにしてみれば、そういうことだよな。なんだか蟷螂みたいな女だな。とらこちゃんのお母さんって。」

「かまきり?」

杉ちゃんの発言に、チボーくんは思わず言った。

「おう。日本では、男を締め上げるくらいの悪女をかまきりみたいな女と言うんだよ。」

杉ちゃんは腕組みをしていった。

「それで、お父ちゃんを自殺に追いやったお母ちゃんはその後どうしたの?誰かと再婚でもしたの?」

「はい。何よりもトラーにしてみたら最愛のお父さんが死んでしまったので、彼女は精神的に不安定になってしまって。お兄さんのマークさんは、美術学校を出たけれど、彼女は学校もやめざるを得ないくらい躁鬱状態が酷かったんです。だから、マークさんが、お母さんから離れようと思ったのでしょうね。それで、この家を買って住むようになったんですよ。こっちでは、福祉制度の申請なんかもすぐにできますからね。日本ほど、家族が分かれるのは珍しいことじゃないし、よくあることなので、僕らはさほど気にしてないですけどね。でも、杉ちゃんたちの国家から見たら、すごいことなのでしょう?」

チボーくんがそう言うと、

「一家離散というやつかなあ。」

杉ちゃんは苦笑いした。

「日本でも、ここでも同じくらいひどい。だって、決して幸せでは無いわけでしょ。とらこちゃんは、そうやって精神障害を負う事になっちまったわけだし。決して精神障害を負うことは良いことじゃないからね。ただ、蟷螂は何時まで経っても蟷螂であることも確かでね。どんな奴らが手を出しても、変えられない事実って言うもんもあるわけだよな。まあ、どっちもどっちってことかなあ。」

少し意外そうにチボーくんは、杉ちゃんを見た。

「日本人はあまりなになにが悪いとか、言わないと聞きましたが、意外にそうでは無いですね。」

「いやあ、変えられないことははっきりさせておかないとね。日本の仏教では、人間にできることは、事実に対してどういうことをするかを考えることしかできないとはっきり言及されているからね。でも、それって、どこの誰でも同じだと思うけどね。」

杉ちゃんの発言に、チボーくんはなるほどと思った。

「だから、まあ、マークさんだって、その蟷螂が支配する環境にとらこちゃんをいさせたくないと思ったのも確かでしょうしね。人間、事実に対してどうするか考えるだけではなく、思いというものも発生される動物なのでね。どっちかかたっぽだけなら良いけれど、それができないから困るんだ。」

「そうですね。杉ちゃんみたいに、何でも口に出して言えるって言うのも、また違うのだろうなと思いますけどね。」

チボーくんは、杉ちゃんに言った。

「まあ、でもさ、もう過去には戻れんのだし、そのときは誤った判断だったかもしれないけど、そのときはそれしかできなかったんだと折り合いをつけていきて行くしか無いのではないか?それに耐えているうちに状況が変わることもあるだろうがよ。」

杉ちゃんに言われて、チボーくんはそうですねと呟いた。

「現にトラーも、水穂さんに対して、気持ちが変わり始めてきているようですし。」

「でもそれを止めたいお前さんの思いもある。」

杉ちゃんに言われてチボーくんは、はいと小さな声で言った。

「だから男らしく、告白しろよ。それができるかできないかで、一人前の男になれるか、変わってくるぞ。」

「はい!決して蟷螂には負けません!」

チボーくんは決断したように言った。


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蟷螂 増田朋美 @masubuchi4996

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