【百合短編小説】湖底のステラリウム ~星を蒐集する少女たち~(約5,200字)

藍埜佑(あいのたすく)

【百合短編小説】湖底のステラリウム ~星を蒐集する少女たち~(約5,200字)

## プロローグ:星降る森


 夜空から零れ落ちた光が、森を銀色に染めていた。針葉樹の枝々が星明かりを受けて光り、露に濡れた草葉は無数の小さな星々を映していた。まるで天の川が地上に舞い降りたかのような光景に、千尋は息を呑んだ。


「千尋、見て。星の欠片、捕まえたよ」


 紗月の声が、夜風に溶けるように柔らかく響いた。千尋は隣に立つ少女の横顔を見つめた。紗月は小さなガラス瓶を星空に掲げていた。瓶の中で、かすかな青白い光が揺らめいている。


「本当に星から落ちてきたのかな?」


 千尋が問いかけると、紗月は小さく笑って首を振った。月明かりに照らされた彼女の黒髪が、夜風にそよいでいる。


「ううん。でも、そう思いたいじゃない?」


 紗月の瞳が、星のように輝いていた。その瞳に映る夜空を見つめながら、千尋は胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。


## 第一章:湖畔の寄宿舎


 山間に佇む湖畔学園は、世界から隔絶された場所だった。深い森に囲まれた小さな寄宿学校で、生徒は百人にも満たない。校舎は明治時代に建てられた洋館を改装したもので、赤レンガの壁には蔦が絡みつき、時の重みを感じさせた。


 千尋が転入してきたのは、春の始まりだった。桜の花びらが湖面に舞い散る様子を、彼女は寮の窓から眺めていた。


「千尋さん?」


 声に振り向くと、そこには紗月が立っていた。黒髪をゆるく束ね、制服の襟元にはラベンダーの花の刺繍が施されている。寮長を務める彼女は、いつも優しく千尋の世話を焼いてくれた。


「月野先輩……」


「もう、紗月でいいって言ったでしょ?」


 紗月は千尋の横に寄り添うように立ち、湖を見つめた。その横顔は、まるで西洋の古い肖像画に描かれた貴婦人のようだった。


「ねぇ、千尋。この湖のこと、知ってる?」


「え?」


「星が沈んでいるんだって」


 紗月の声は、どこか秘密を打ち明けるような響きを帯びていた。


「星が……湖に?」


「そう。森に迷い込んだ星たちが、湖の底で眠っているの」


 千尋は半信半疑だった。でも、紗月が湖を見つめる真剣な横顔を見ていると、その言葉を否定する気持ちは薄れていった。そこには確かに、日常では見られない何かがあるように感じられた。


 その日から、千尋は紗月と過ごす時間が増えていった。放課後、二人は図書館で勉強をし、夕暮れ時には湖畔を散歩した。紗月は星や神話の本を読むのが好きで、千尋に様々な物語を語ってくれた。


「昔の人は、星は神様が天に開けた穴だと考えていたんだって」


 紗月の話す声は、いつも夢見るような響きを持っていた。その声を聞いているうちに、千尋も少しずつ、不思議なものを信じられるようになっていった。


## 第二章:紗月という少女


 紗月には、どこか現実離れした雰囲気があった。制服の襟元に必ずラベンダーの刺繍をつけ、長い黒髪は月光を含んだように艶やかだ。歩く姿は優雅で、まるで足が地面に触れていないかのようだった。


「紗月って、本当に人間?」


 ある日、千尋は冗談めかして聞いてみた。二人は図書館の窓際の席で、夕暮れの光に包まれていた。


 紗月は本から目を上げ、きらきらと目を輝かせて笑った。


「どうだと思う?」


 その笑顔に、千尋は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。紗月の存在そのものが、この世のものとは思えないほど美しかった。


 日が暮れると、図書館の古い窓ガラスに星が映り始める。紗月は時々、その星を指でなぞっていた。


「ほら、見えるでしょう? 窓ガラスの向こうに、星が降りてくるの」


 千尋には、確かにそう見えた。ガラスの向こうで、星が雪のように舞い降りているような錯覚。それは紗月が作り出す魔法のような瞬間だった。


 紗月の部屋には、小さなガラス瓶が並んでいた。それぞれの瓶の中で、かすかな光が揺らめいている。


「これは、星の欠片を集めた物なの」


 紗月はそう言って、一つの瓶を手に取った。中の光は、確かに星のように青白く輝いていた。


「でも、これって……」


「本当は蛍の光かもしれないわ。でも、私はそう思いたくないの」


 紗月の声には、どこか切ない響きがあった。


「星の欠片だと信じたいの。そうじゃないと、この世界はあまりにも寂しいから」


 その言葉に、千尋は返答できなかった。ただ、紗月の横顔を見つめながら、この瞬間を永遠に覚えていたいと思った。


## 第三章:夜の訪問者


 その夜、紗月は千尋の部屋を訪れた。月の光が窓から差し込み、部屋の中に銀色の帯を作っていた。


「行こう、湖に」


 紗月の声には、いつもとは違う力が宿っていた。それは千尋の心を強く揺さぶった。


「でも、夜は……」


「大丈夫。誰にも見つからないから」


 紗月は千尋の手を取った。その手は思いのほか温かく、千尋は無意識のうちに頷いていた。


 二人は寮を抜け出し、月明かりの下を歩いた。木々の間から漏れる風が、制服のスカートを揺らす。紗月の長い黒髪が、夜の闇に溶け込むように揺れていた。


「ね、千尋。怖くない?」


「紗月と一緒なら、大丈夫」


 その言葉は、千尋の本心だった。紗月と一緒にいると、不思議と恐れを感じなかった。それどころか、この夜の冒険に心が高鳴るのを感じていた。


 湖に着くと、そこには思いがけない光景が広がっていた。水面が月明かりを受けて煌めき、まるで星空を映す鏡のようだった。風が吹くたびに、その光は波紋を描いて広がっていく。


「ねえ、千尋。湖の星、見える?」


 紗月の問いかけに、千尋は息を呑んだ。確かに、湖面には星のような光の粒が浮かんでいた。それは波に揺られ、まるで生きているかのように動いていた。


「これが……本物の星?」


「ううん。でも、星だと思うことにしたの」


 紗月は微笑んで答えた。その表情には、どこか切なげな影が見えた。


「私ね、いつもそうやって世界を見てるの。現実はもっと素っ気ないものかもしれない。でも、そう考えたくないの」


 紗月の言葉は、夜風に溶けていくように消えていった。しかし、その意味は千尋の心に深く刻まれた。この夜、この場所で、何か特別なことが始まる??そんな予感が、彼女の心を満たしていた。


## 第四章:星を集める瓶


 それからの日々、二人は秘密を共有する親密な関係になっていった。放課後になると、紗月は必ず千尋を誘いに来た。時には図書館で星の本を読み、時には湖畔を散歩した。


「これ、千尋に」


 ある日、紗月は小さなガラス瓶を差し出した。中には、青白い光を放つ何かが入っている。


「私の集めた星の欠片。大切にしてね」


 千尋は戸惑いながらも、その瓶を受け取った。ガラスは紗月の体温で暖かく、中の光は確かに生きているように揺らめいていた。


「でも、これって本当は……」


「シーッ」


 紗月は千尋の唇に人差し指を当てた。その仕草は優雅で、まるで舞踏会の一場面のようだった。


「真実を言葉にする必要はないの。大切なのは、あなたがどう感じるか」


 その瞬間、千尋は紗月の魔法に完全に魅了されたことを悟った。現実と幻想の境界線が曖昧になっていく感覚。それは不思議と心地よかった。


## 第五章:揺れる心


 梅雨の季節が訪れ、寮の窓には雨粒が絶え間なく打ちつけていた。千尋は紗月から貰った星の入った瓶を、窓辺に置いていた。雨の音を聞きながら、その青白い光を見つめるのが日課になっていた。


「雨の日の星って、少し寂しそうね」


 紗月が千尋の部屋を訪れた時、そうつぶやいた。彼女は窓際に立ち、外の景色を眺めている。制服のスカートがわずかに揺れ、襟元のラベンダーの刺繍が雨の光を受けて柔らかく輝いていた。


「紗月は、どうして星にこんなに惹かれるの?」


 思わず口にした質問に、紗月は少し驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりと千尋の方を向いた。


「星は……届かないものだから」


 その答えは、千尋の心に深く響いた。紗月の瞳には、どこか遠い世界を見つめるような色が宿っていた。


「届かないもの?」


「そう。手が届かないからこそ、美しいの」


 紗月は千尋の横に座り、その手を優しく包み込んだ。


「でもね、私たちには特別な魔法があるの。想像力という魔法。それがあれば、届かないものだって、少しは近づけるかもしれない」


 その言葉に、千尋は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。紗月の手の温もりが、急に強く感じられた。


「紗月……」


 千尋が呼びかけると、紗月は優しく微笑んだ。その表情には、いつもの夢見るような雰囲気とは違う、何か切実なものが混ざっていた。


「私ね、時々思うの。この世界は、見たいように見ることができるんじゃないかって」


 紗月の声は、雨音に溶けていくように小さかった。


「現実は厳しくて冷たいかもしれない。でも、私たちには別の見方ができる。そう信じているの」


 その瞬間、千尋は紗月の孤独を感じ取った。彼女は現実から目を逸らしているのではない。ただ、違う角度から世界を見ようとしているだけなのだ。


## 第六章:湖底の輝き


 満月の夜が訪れた。湖面は銀色の鏡のように輝き、周囲の森は深い青に沈んでいた。


「千尋、今夜は特別よ」


 紗月の声には、いつもとは違う響きがあった。彼女は湖面を見つめ、一歩前に踏み出した。


「ちょっと、紗月!」


 千尋は慌てて紗月の手を掴んだ。制服の裾が、既に水に濡れていた。


「千尋……湖の底を見てみたいの。星が本当にあるのか、確かめたくて」


 月明かりに照らされた紗月の瞳には、決意が宿っていた。その眼差しに、千尋は言葉を失った。


「危ないわ! 何があるか分からないじゃない」


 必死に引き留めようとしたが、紗月の力は強かった。そして、その強さは千尋の心も少しずつ動かしていった。


「一緒に行きましょう?」


 紗月が差し出した手には、温かな光が宿っているように見えた。千尋は深いため息をつき、その手を取った。


 二人はゆっくりと湖に足を踏み入れていった。水は予想以上に冷たく、制服に染み込んでいく。膝を超え、腰を超え、やがて胸の高さまで達した時、千尋はふいに足元に違和感を覚えた。


「紗月……これ!」


 湖底から、かすかな光が漏れていた。それは星屑のように細かく、しかし確かな輝きを放っていた。


「本当に……星?」


 紗月が呟いた瞬間、光の粒の一つがふわりと浮かび上がり、二人の間に漂った。紗月は静かにその光を手で掬い、大切そうに胸元に寄せた。


「これでいいの。これが欲しかったの」


 その声には安堵が混ざっていた。しかし同時に、どこか悲しげでもあった。


## 第七章:届かない想い


 その夜以来、紗月は少しずつ変わっていった。笑顔は相変わらず優しかったが、どこか遠くを見つめているような影が差すようになった。


 千尋は紗月の変化を感じ取りながらも、どう声をかけていいか分からなかった。二人の間には、言葉にできない何かが横たわっていた。


「ねぇ、千尋」


 ある日、紗月は図書館の窓際で突然話し始めた。


「私ね、この学校を去ることになったの」


 その言葉は、まるで遠い星からの光のように、届くまでに時間がかかった。


「え……どういうこと?」


「転校するの。海外の学校に」


 紗月の声は静かだったが、千尋の心には激しい波が立った。


「いつ?」


「来月の終わり」


 千尋は言葉を失った。窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。


「だから、あの夜、湖に入ったの」


 紗月は続けた。


「この場所の思い出を、永遠に持っていきたかった。星の欠片と一緒に」


 千尋は紗月の横顔を見つめた。夕陽に照らされて、彼女の頬には涙の跡が光っていた。


## 第八章:星の導き


 別れの日まで、残された時間は砂時計の砂のように、静かにしかし確実に流れていった。


「最後に、もう一度湖に行かない?」


 前日の夜、千尋は紗月を誘った。


 湖面は穏やかで、月の光を美しく映していた。二人は岸辺に腰を下ろし、星空を見上げた。


「紗月、これ」


 千尋は小さな包みを取り出した。開くと、中には小さなガラスの星型のペンダントが入っていた。


「湖底の光を閉じ込めたの。紗月と同じように」


 紗月は息を呑み、そっとペンダントを手に取った。


「千尋……ありがとう」


 紗月の声が震えていた。


「どこにいても、この光があれば、二人で見た星空を思い出せる」


 千尋はそう言って、紗月の手を握った。温かな手の中で、ペンダントが静かに光を放っていた。


## エピローグ:新しい光


 紗月が去って、季節は移り変わった。千尋は今でも時々、湖を訪れる。水面に映る星を見つめながら、あの夜のことを思い出す。


 紗月から時々、手紙が届く。そこには新しい空の下での物語が綴られている。そして必ず、星型のペンダントの写真が同封されている。


「今夜も、同じ星を見上げているよ」


 そんな言葉で結ばれる手紙を読むたび、千尋は微笑む。


 窓辺には、紗月から貰った星の入った瓶が置いてある。その光は少しも衰えることなく、永遠に輝き続けているように見える。


 それは、届かないものの美しさを教えてくれた、大切な思い出の証。


 千尋は今でも信じている。世界には、目には見えない星の欠片が散りばめられていることを。そして、その光を見つけられる人だけが、特別な魔法を使えるのだということを。


 空には、新しい星が瞬いている。


(了)


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