【時代劇義賊怪盗短編小説】朱雀ノ華 ―天衣無縫の快盗―(約9,800字)
藍埜佑(あいのたすく)
【時代劇義賊怪盗短編小説】朱雀ノ華 ―天衣無縫の快盗―(約9,800字)
●第一章:朱雀の舞
その日の江戸の空は、いつになく深い藍色をしていた。
「また来たぞ! 快盗朱雀からの予告状だ!」
南町奉行所に、一通の手紙が届いたのは、丑の刻(午前二時)を少し過ぎた頃だった。朱色の封蝋で封された手紙には、艶やかな筆跡でこう記されていた。
『明日の満月の夜、悪徳問屋・祝田屋の金蔵より、不当に得た富を頂戴いたします――快盗・朱雀』
「くっ……! 今度こそ絶対に捕らえてみせる」
奉行所同心の片倉新之助は、拳を握り締めた。二十四歳の若さながら、その腕っぷしと頭の切れは奉行所一と謳われる新進気鋭の同心である。だが、この快盗朱雀だけは、どうしても捕まえることができなかった。
「なぜだ……なぜ、あの方法で逃げられたのかが、まだ分からない」
先月の一件を思い出し、新之助は眉間にしわを寄せた。完全に包囲したはずの屋敷から、朱雀は文字通り空を飛ぶように消え去ってしまったのだ。
「もう寝なさい、新之助様」
背後から優しい声が聞こえ、新之助は振り返った。そこには、十六になる妹の小夜(さよ)が立っていた。月光を浴びて、藤色の着物が淡く輝いている。
「小夜……」
「お仕事熱心なのは分かりますが、体を壊してしまっては元も子もありません」
小夜の言葉に、新之助は苦笑いを浮かべた。両親を亡くした後、自分を支えてくれた妹を、新之助は何より大切にしていた。
「分かった。もう休むよ」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、新之助の目に異変が映った。月明かりに照らされた庭に、人影が……。
「誰だ!」
新之助が飛び出した時には、影はすでに消えていた。ただ、そよ風に乗って一枚の朱色の扇子が舞い落ちてくるのが見えた。
* * *
その頃、江戸の片隅にある質屋「松乃屋」の二階で、一人の女性が身支度を整えていた。
「扇華姉様、準備はよろしいですか?」
障子の向こうから、少女のような柔らかな声が聞こえる。
「ええ、もう少しよ、椿」
神崎扇華は、鏡台の前で長い黒髪に櫛を通していた。二十二歳とは思えないほどの美貌の持ち主で、凛とした眉に大きな瞳、すらりとした姿は、見る者の目を釘付けにする。
表向きは、この質屋の看板娘。裏の顔は、江戸の街を騒がせる快盗朱雀その人である。
「入りますね」
障子が開き、十四歳の少女・椿が入ってきた。艶やかな黒髪を肩で切り、凛とした佇まいながら、どこか可憐さを残す。扇華が拾って育てた孤児で、今では良き理解者となっている。
「扇華姉様、綺麗……」
椿は、着物姿の扇華を見つめ、頬を染めた。
「ふふ、ありがとう」
扇華は立ち上がると、椿の頭を優しく撫でた。
「今夜は、祝田屋ね」
「はい。弁蔵さんと小太郎さんも準備を終えたそうです」
「そう。では――行きましょうか」
扇華は、窓から差し込む月明かりに顔を向けた。今宵も、朱雀が舞う時である。
●第二章:秘密の庭
祝田屋の屋敷は、江戸城下を見下ろす小高い丘の上にあった。
「ずいぶんと立派な構えですこと」
塀の外から屋敷を見上げながら、扇華は小さく微笑んだ。月光に照らされた白壁が、まるで銀色に輝いて見える。
「姉様(あねさま)、見てください」
椿が指差した先には、屋敷の裏手に広がる庭園が見えた。鬱蒼とした木々の間を、小川が流れている。
「あそこから入れそうね」
「でも、見張りが……」
確かに、庭園には数人の下働きが見張りを立てていた。予告状を受け取った以上、警戒を強めるのは当然だ。
「大丈夫よ。私たちには、力持ちの弁蔵と、変装の名人・小太郎がいるもの」
その言葉通り、庭の片隅で物音が聞こえた。見張りたちが駆けつけると、そこには酔っ払った町人らしき男が寝ていた。
「おいおい、こんなところで寝るんじゃない!」
見張りたちが男を担ぎ上げようとした瞬間――。
「うっす!」
突如、男が立ち上がり、見張りたちを軽々と投げ飛ばした。その男こそ、元力士の弁蔵である。
「さすが弁蔵」
扇華たちは、その隙に庭園へと忍び込んだ。木々の間を縫うように進むと、屋敷の裏手に回り込むことができた。
「ここよ」
扇華が指差したのは、二階の窓だった。そこが金蔵への近道なのだ。
「椿、手を貸してくれる?」
「はい!」
二人は息を合わせ、まるで舞うように身を翻した。着物の裾が、夜風にはためく。扇華は椿の肩を踏み台に飛び上がると、窓枠に手をかけた。
「扇華姉様、気を付けて」
椿の心配そうな声に、扇華は優しく微笑みかけた。
「ありがとう。でも大丈夫よ。だって私は――」
窓を開け、中に滑り込みながら、扇華は小声で続けた。
「天下の快盗朱雀だもの」
* * *
その頃、片倉新之助も祝田屋に向かっていた。
「兄様(あにさま)、私も行きます」
「だめだ、小夜」
「でも……」
「危険かもしれないんだ。家で待っていてくれ」
新之助は妹の肩に手を置き、真剣な表情で言った。
「約束する。必ず朱雀を捕まえて戻ってくる」
小夜は、不安そうな表情を浮かべながらも、うなずいた。
新之助が去った後、小夜は月を見上げた。
「気を付けて、兄様……」
その言葉が、夜風に溶けていく。
* * *
金蔵の前で、扇華は耳を澄ませた。
「誰もいないわね」
懐から、細い金属の道具を取り出す。錠前を開けるための特製の道具だ。
「これで……」
慣れた手つきで道具を操ると、カチリという小さな音とともに、扉が開いた。
「お待たせ。さあ、お金を返してもらいましょうか」
中には、びっしりと小判や金の延べ棒が詰まっていた。扇華は、それらを手際よく布袋に詰めていく。
「ふふ、これだけあれば、町の人々も助かるわね」
「動くな!」
突如、声が響いた。振り返ると、そこには片倉新之助が立っていた。
「まさか、ここまで来るとは思わなかったわ」
扇華は、優雅に扇子を広げた。
「今夜こそ、お前を捕らえる」
「そんなことができるかしら?」
月明かりに照らされた二人の影が、壁に揺らめく。今宵の舞台は、ここに整った。
●第三章:揺れる心
「観念しろ、朱雀」
新之助は刀を構えた。その眼差しには迷いがない。
「ふふ、いつもながら真面目なお方ね」
扇華は扇子で口元を隠しながら、くすりと笑った。月光を受けた彼女の姿は、どこか妖艶でもあった。
「なぜだ……なぜ、人の金を盗むのだ?」
「盗む? 違いますわ」
扇華は、ゆっくりと歩き出した。その姿は、まるで舞を踊るかのよう。
「私は、取り戻しているの。庶民から搾り取った金を、正当な持ち主に返しているだけよ」
「何を……」
「祝田屋が、どれほどの非道を働いているか、ご存じなの?」
扇華の声が、一瞬だけ冷たくなった。
「高利で金を貸し、返せない者からは娘を剥ぎ取り金代わりにする。そうやって、どれほどの家族が引き裂かれたと思います?」
新之助は、一瞬だけ言葉に詰まった。確かに、祝田屋の噂は聞いていた。だが……。
「それでも、法を破るのは……」
「法?」
扇華は、くるりと振り返った。
「では、お尋ねしますわ。その法の下で、庶民の声は届いていますか? 弱き者の涙は、拭われていますか?」
「それは……」
新之助の刀が、わずかに揺れた。
その隙を見逃さず、扇華は窓際まで後退した。
「さようなら、片倉殿」
「待て!」
新之助が駆け寄った時には、扇華の姿は消えていた。ただ、一枚の朱色の扇子が、月明かりに照らされて舞い落ちるのが見えた。
* * *
「扇華姉様!」
庭で待っていた椿が、飛び込んでくる扇華を受け止めた。
「ごめんなさい、椿。心配させてしまったわね」
「良かった……無事で」
椿は、扇華にしがみつくように抱きついた。その小さな体が、わずかに震えている。
「大丈夫よ。さあ、帰りましょう」
二人は、月明かりに導かれるように、夜の街へと消えていった。
* * *
翌朝、江戸の町は大騒ぎとなっていた。
祝田屋から盗まれた金が、困窮していた町人たちの元に配られていたのだ。そして、祝田屋の悪事を記した手紙が、町中に撒かれていた。
「朱雀様、ありがとう!」
「これで、娘を取り戻せる!」
町人たちの喜びの声が、通りに響く。
その様子を、質屋「松乃屋」の二階から、扇華と椿が見つめていた。
「良かったですね、姉様」
「ええ」
扇華は、穏やかな笑みを浮かべた。
「でも、これはまだ始まりに過ぎないの」
「始まり、ですか?」
「ええ。江戸の闇は、まだまだ深いもの」
扇華は、遠くを見つめるような目をした。
「私たちにしか、できないことがあるの」
●第四章:仮面の下で
その日の夕暮れ時、松乃屋に一人の来客があった。
「いらっしゃいませ」
扇華が店先で迎えたのは、意外にも片倉新之助の妹・小夜だった。
「こんばんは、神崎様」
小夜は、丁寧にお辞儀をした。藤色の着物が、夕暮れの光に柔らかく輝いている。
「まあ、片倉様のお妹様じゃありませんか。どうぞ、お上がりください」
扇華は、小夜を奥座敷へと案内した。
「椿、お茶をお願いできる?」
「はい、姉様」
椿が立ち去ると、小夜は少し緊張した面持ちで切り出した。
「実は、ご相談したいことが……」
「どうぞ、遠慮なく」
「私の友達の妹が、祝田屋に連れて行かれてしまって……」
小夜の声が震える。
「でも、今朝、突然帰ってきたんです。そして、借金の証文も返されて……」
「それは、良かったですわね」
扇華は、さりげなく応じた。
「はい。きっと、朱雀様のおかげだと……」
その時、小夜は扇華の袖から、朱色の布切れがのぞいているのを見た。
「あ……」
小夜と扇華の視線が重なる。
一瞬の沈黙の後、扇華は静かに微笑んだ。
「気づかれてしまいましたか」
「神崎様が、朱雀様……?」
「ええ。ですが――」
扇華は、真剣な眼差しで小夜を見つめた。
「このことは、誰にも」
「分かっています」
小夜は、きっぱりと言った。
「私も、兄様も、本当は分かっているんです。朱雀様が、悪い方ではないことを」
「片倉殿も?」
「はい。でも、兄様は同心です。守らなければならない立場がある」
扇華は、複雑な表情を浮かべた。
「あの方は、本当に真面目なお人ね」
「ええ。だから私は、兄様には言いません。……いえ、言えません」
小夜の瞳が、決意に満ちている。
「ですが、私にできることがありましたら……」
「ありがとう」
扇華は、小夜の手を優しく握った。
その時、椿がお茶を持って戻ってきた。
「お待たせしました」
「ありがとう、椿」
三人の視線が重なり、静かな笑みが交わされた。
窓の外では、夕暮れが深まっていく。それは、新たな物語の始まりを予感させるような、美しい夕暮れだった。
●第五章:闇夜の誓い
その夜、扇華は一人、屋根の上で月を見上げていた。
「どうして、こんな生き方を選んだのかしら……」
十年前の記憶が、月明かりに照らされるように蘇る。
扇華もまた、かつては庶民の娘だった。両親と弟と共に、小さな茶屋を営んでいた。しかし、ある日を境に、すべてが変わった。
悪徳商人に騙され、借金を背負わされた父。返済のために、妹同然だった幼なじみが連れて行かれそうになったのだ。
「お願い、私を代わりに――!」
必死の願いも聞き入れられず、幼なじみは連れ去られた。その数日後、彼女は命を絶ってしまう。
「もう二度と、誰も泣かせない」
その日、扇華は誓った。たとえ、法に背くことになろうとも、弱き者の涙は拭おうと。
「姉様」
椿の声に、扇華は我に返った。
「椿、まだ起きていたの?」
「はい。姉様のこと、心配で……」
椿は、扇華の隣に座った。
「私も、姉様と同じ想いです」
「椿……」
「姉様に拾われなかったら、私も……」
椿の言葉が途切れる。扇華は、椿を優しく抱きしめた。
「もう大丈夫よ。私が守ってあげる」
二人の影が、月明かりに溶け込んでいく。
* * *
翌日、南町奉行所に一通の密告状が届いた。
「これは……!」
新之助は、手紙を握りしめた。そこには、ある商人の非道な仕打ちが克明に記されていた。
「片倉殿」
同僚の山本七郎が声をかけた。
「どうかされましたか?」
「いや、なんでもない」
新之助は、手紙を懐に入れた。
(朱雀、お前が密告してきたのか……)
その日の夕方、新之助は例の商家を訪れた。そして、密告の内容が真実であることを確認する。
「これは、見過ごすわけにはいかんな」
新之助は、証拠を集め始めた。それは、朱雀の手を借りずとも、同心としての務めを果たそうという意志の表れだった。
しかし、事態は思わぬ方向へと動き始める。
●第六章:絡まる糸
「なんだって!?」
松乃屋の密室で、扇華は椿からの報告に目を見張った。
「間違いありません。あの商人、片倉様の調査に気づいて、奉行所の上役に賄賂を送ったそうです」
「まさか……」
扇華は、眉間にしわを寄せた。
「片倉殿が危ない、ということね」
「はい。このまま調査を続ければ、片倉様は……」
「分かったわ」
扇華は立ち上がった。
「今夜、動きましょう」
* * *
その夜、新之助は自宅で資料を整理していた。
「兄様、遅くまで……」
「ああ、小夜。もう少しだけ」
「でも、噂では、あの商人は恐ろしい人だと」
「正義は必ず勝つ。信じているんだ」
その時、窓の外で物音がした。
「誰だ!」
新之助が飛び出すと、そこには朱雀が立っていた。
「お久しぶり、片倉殿」
「朱雀!」
「静かに。大切な話があるの」
扇華は、商人の悪事の証拠が書かれた巻物を取り出した。
「これを」
「なぜ、私に?」
「あなたなら、正しく使ってくれると信じているから」
新之助は、複雑な表情で巻物を受け取った。
「私からの密告状も、分かっていたでしょう?」
「ああ」
「なぜ、動いたの?」
「それが、同心としての務めだからだ」
扇華は、小さく笑った。
「あなたは、本当に――」
その時、庭に数人の足音が聞こえた。
「誰かが来たわ」
「まさか、もう動き出すとは」
新之助は、刀に手をかけた。
「片倉殿」
「なんだ?」
「私を、信じてくれる?」
新之助は、一瞬迷った後、うなずいた。
「ああ」
「では――」
扇華は、新之助の手を取った。
「一緒に来て」
二人は、月明かりに導かれるように、夜の街へと消えていった。
その後ろで、小夜が心配そうに見送っている。
●第七章:迫る影
扇華と新之助は、江戸の夜の闇に紛れるように走った。
「どこへ行くんです?」
「安全な場所よ」
二人が辿り着いたのは、松乃屋の裏手にある蔵だった。
「ここが、私たちの本当の拠点」
扇華が障子を開けると、中では椿が待っていた。
「姉様! あ、片倉様も……」
「椿、例の書類は?」
「はい、こちらです」
椿が差し出した書類には、商人と奉行所上役とのつながりを示す証拠が記されていた。
「これは……!」
新之助は、目を見張った。
「信じられないでしょう? でも、これが真実なの」
扇華は、静かに続けた。
「私たちが戦っているのは、こういった闇なのよ」
その時、外で物音がした。
「見つかったか!」
「この中にいるはずだ!」
「追っ手ね」
扇華は、冷静に状況を判断した。
「椿、裏口から逃げて」
「でも、姉様……」
「大丈夫よ。片倉殿もいるもの」
新之助は、扇華を見つめた。
「私を、信用してくれるの?」
「ええ。あなたの正義を、私も信じます」
二人は、背中合わせに立った。
「行きましょうか、片倉殿」
「ああ、朱雀」
障子が開かれ、月明かりが差し込む。
そして――。
●第八章:揺らぐ均衡
「そこまでだ!」
追っ手たちが、蔵を取り囲んだ。
「おや、これは意外だわ」
扇華は、にっこりと笑った。追っ手の中に、かつての「友人」がいたのだ。
「九条……!」
その男は、かつて扇華の父を騙した悪徳商人の用心棒だった。
「久しぶりだな、神崎」
九条は、刀を抜いた。
「まさか、お前が朱雀とはな」
「ええ。でも、あなたこそ、まさか悪の手先になるとは」
「世の中、金が全てさ」
九条の言葉に、扇華は悲しそうな表情を浮かべた。
「あの頃の私たちが、あなたを今を見たら何て言うかしら」
「昔話は終わりだ。おとなしく捕まれ!」
その瞬間、扇華は扇子を広げた。
「さて、踊りましょうか」
月明かりの下、戦いの火蓋が切って落とされた。
●第九章:明かされる過去
刀と扇子が、月明かりの下で舞う。
「なぜだ、神崎! なぜ、こんな道を!」
九条の怒号に、扇華は静かに応えた。
「あの日、あなたは私の父を騙した」
「それは――」
「でも、それだけじゃない」
扇華の声が、冷たくなる。
「幼なじみの命を奪ったのも、あなたたち」
新之助は、その言葉に目を見開いた。
「彼女は、ただ自由に生きたかっただけ。なのに……」
扇華の目に、涙が光る。
「だから誓ったの。二度と、誰も泣かせないって」
「甘いな、神崎! 世の中はそんなに単純じゃない!」
九条が斬りかかってくる。その剣筋は確かだった。
「違うわ」
扇華は、扇子で刀を受け止める。扇子の骨組みは、最高級の鋼で作られている。
「世の中を複雑にしているのは、あなたたちよ」
一瞬の隙を突いて、扇華は九条の懐に入り込んだ。
「私の道は、とても単純」
扇子が閉じられ、九条の喉元に突きつけられる。
「ただ、正しいことをするだけ」
「くっ……」
九条が、刀を取り落とした。
その時――。
「姉様、援軍です!」
椿の声と共に、弁蔵と小太郎が駆けつけた。
「おっと、遅れちまったか?」
弁蔵が、豪快に笑う。
追っ手たちは、形勢が逆転したことを悟った。
「撤退!」
九条の号令で、追っ手たちは夜の闇に消えていった。
「ふぅ……」
扇華は、深いため息をつく。
「片倉殿、ごめんなさい。こんな事に巻き込んでしまって」
「いや」
新之助は、静かに首を振った。
「私も、やっと分かった。本当の正義が、何なのかを」
●第十章:決断の時
夜が明けようとしていた。
「これからどうするの?」
松乃屋の密室で、椿が不安そうに尋ねた。
「私たちには、まだやるべきことがあるわ」
扇華は、窓の外を見つめながら答えた。
「九条の背後にいる者たち。江戸の闇を操る黒幕を、暴かなければ」
「でも、危険です!」
「分かっているわ。だからこそ――」
扇華は、椿の頭を優しく撫でた。
「あなたには、ここで待っていてほしいの」
「そんな! 私も一緒に!」
「椿」
扇華は、真剣な眼差しで椿を見つめた。
「あなたは、私の大切な家族よ。だから、守らなければならないの」
「姉様……」
椿は、扇華にしがみついた。
「約束して。必ず、戻ってきてください」
「ええ、約束するわ」
* * *
その頃、片倉新之助は、重大な決断を下していた。
「兄様?」
小夜が、心配そうに兄の様子を窺う。
「小夜、私は――」
新之助は、妹の前で正座した。
「同心を辞めようと思う」
「え?」
「今の奉行所では、本当の正義は守れない」
新之助は、拳を握り締めた。
「でも、戦い方は変えられる。外からでも、出来ることがあるはずだ」
「兄様……」
小夜は、静かにうなずいた。
「私も、兄様の決断を支持します」
「ありがとう、小夜」
新之助は立ち上がり、刀を手に取った。
「さあ、行こう。朱雀のところへ」
* * *
夜明け前、松乃屋に新之助が訪れた。
「まあ、片倉殿」
扇華は、意外そうな表情を浮かべた。
「私も、共に戦わせてほしい」
「でも、同心としては――」
「もう、辞めた」
新之助の言葉に、扇華は目を見開いた。
「本当に?」
「ああ。これが、私の選んだ道だ」
扇華は、しばらく新之助を見つめていたが、やがて柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも、覚悟はできていますの?」
「当然だ」
「なら――」
扇華は、朱色の扇子を広げた。
「一緒に踊りましょう」
夜明けの光が、二人を包み込んでいく。
●第十一章:天衣無縫に
その夜は、満月だった。
「準備はいいですか?」
松乃屋の密室に、一同が集まっていた。扇華、新之助、弁蔵、小太郎、そして椿。
「ああ」
新之助は、うなずいた。彼は今や、朱雀の仲間となっていた。
「九条の動きは?」
「はい」
椿が、地図を広げる。
「今夜、大商人・堂島屋で密会があるそうです。九条の主人も、奉行所の上役も集まると」
「そこが、最後の舞台ね」
扇華は、静かに言った。
「皆さん、覚悟はよろしいですか?」
「任せときな!」
弁蔵が、豪快に笑う。
「この腕、見せてやるぜ!」
「変装の準備も、バッチリさ」
小太郎も、自信に満ちた表情だ。
「椿」
「はい、姉様」
「あなたは、ここで――」
「私も行きます」
椿は、きっぱりと言った。
「もう、子供じゃありません。姉様と一緒に戦えます」
扇華は、少し驚いた表情を見せたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「そうね。あなたも、立派に育ったもの」
「姉様……」
「わかりました。さあ、行きましょう」
扇華は立ち上がり、窓を開けた。
月明かりが、部屋に差し込む。
「今宵は、最後の舞」
その言葉と共に、一同は夜の闇へと消えていった。
* * *
堂島屋の屋敷は、江戸でも一二を争う豪邸だった。
「まあ、立派な構えですこと」
扇華たちは、屋敷を見上げている。
「だが、中は腐っているな」
新之助の言葉に、皆がうなずいた。
「では、作戦開始よ」
扇華の合図で、それぞれが持ち場に散っていく。
弁蔵と小太郎は、正門の見張りの注意を引くため、酔っ払いの喧嘩を演じ始めた。
その隙に、扇華、新之助、椿は裏庭から忍び込む。
「密会は、二階の広間」
椿が、小声で言った。
「よし」
三人は、息を殺して進んでいく。
その時――。
「待っていたぞ、朱雀」
暗がりから、九条の声が響いた。
「まさか」
周囲を見回すと、影から次々と武士たちが姿を現す。
「罠だったのね」
扇華は、冷静に状況を見極めた。
「どうやって?」
「お前たちの仲間がいたからさ」
九条の言葉に、扇華は目を見開いた。
「まさか……」
「そう、お前の古い知り合いだよ」
闇から、一人の女性が姿を現した。
「久しぶり、扇華」
「綾乃(あやの)……!」
その女性こそ、かつて扇華が救えなかった幼なじみの妹だった。
「なぜ……あなたが」
「姉さんの仇を取るため」
綾乃の目は、憎しみに満ちていた。
「姉さんは、あなたを信じて死んだのよ。なのに、あなたは助けられなかった」
「違うの! 私は……」
「もういいわ。すべて終わりにしましょう」
綾乃の合図で、武士たちが刀を抜く。
「姉様!」
椿が、扇華の前に立ちはだかった。
「下がって、椿」
「でも!」
「大丈夫」
扇華は、朱色の扇子を開いた。
「私には、もう迷いはないから」
新之助も、刀を構える。
「共に戦おう」
「ええ」
月明かりの下、決戦の火蓋が切って落とされた。
* * *
刀と扇子が交差する中、扇華は綾乃に向かって叫んだ。
「本当は分かっているはずよ!」
「何が?」
「あなたのお姉様が望んでいたのは、こんな復讐じゃない!」
「黙って!」
綾乃の刀が、扇華の頬を掠める。
「彼女が望んでいたのは、ただ――」
扇華は、綾乃の目をまっすぐ見つめた。
「みんなが自由に生きられる世界」
その言葉に、綾乃の手が僅かに震えた。
「嘘……私は、ずっと……」
「憎しみに囚われていた?」
扇華は、静かに続けた。
「でも、まだ遅くないわ」
「え?」
「一緒に戦いましょう。本当の敵と」
綾乃の目から、一筋の涙が流れた。
「私……何て……」
その時、上階から悲鳴が聞こえた。
「何!?」
九条が振り返る。
そこには、弁蔵と小太郎が、密会の証拠を手に立っていた。
「やりましたぜ、扇華姐さん!」
「作戦成功ってわけだ」
扇華は、微笑んだ。
「さあ、幕引きの時ね」
●第十二章:新しい風
夜明けが近づいていた。
堂島屋の密会で暴かれた証拠は、江戸中を駆け巡った。悪徳商人たちの陰謀、奉行所上役の汚職、そしてそれに群がる者たちの悪行が、白日の下に晒される。
「終わったのね」
松乃屋の屋根の上で、扇華は朝焼けを見つめていた。
「いいえ、始まりです」
傍らで、椿が言った。
「これからが、本当の戦い。みんなが笑顔で暮らせる世界を作る戦い」
「ええ、その通りよ」
扇華は、柔らかな笑みを浮かべた。
「扇華」
振り返ると、そこには綾乃が立っていた。
「私も、力になれたらと思って」
「ありがとう」
二人は、固く手を握り合った。
過去の傷を乗り越え、新たな絆が生まれる。
「おーい!」
下から、新之助の声が聞こえた。
「町の人たちが集まってきているぞ!」
見下ろすと、大勢の人々が松乃屋の前に集まっていた。
「朱雀様、ありがとう!」
「これで、私たちも希望が持てる!」
歓声が上がる。
「姉様」
椿が、扇華の袖を引いた。
「みんな、笑顔です」
「ええ」
扇華は、朱色の扇子を開いた。
「さあ、これからも――」
朝日が昇り、新しい一日が始まろうとしていた。
「天衣無縫に、舞いましょう」
扇子が、朝焼けに輝く。
これは、ある大泥棒の物語。
いや、正義を貫いた一人の女性の物語。
そして、人々の心に希望の灯火を灯した、永遠に語り継がれる伝説の始まりだった。
【完】
【時代劇義賊怪盗短編小説】朱雀ノ華 ―天衣無縫の快盗―(約9,800字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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