深海の水は同じ場所を何年も動かない
石田くん
深海の水は同じ場所を何年も動かない
もう僕が愛するものはこの他にないように思われた。二限の行われる大教室へ向かうキャンパスの路の両脇に植えられた大きな銀杏が、朝十時台の陽に照らされてその色を鮮やかに放出し、風に揺れて落ち行く葉もまた煌めき、空気が纏うスパンコールのように見える。何とか顔を上げると背の高い銀杏をボディーガードのようにして視界のど真ん中に蒼天がいる、冬のそれはあまりに青く、気を抜くと自分が映り込みそうなほど澄んでいる。そういった十二月初めの空気の他に、もう僕が愛するものはないように思われた。いやいや、きっと君の人生も見上げれば澄んでいますよ、仮に曇っていたって、雲外蒼天と言いますもの、とか、安い比喩はもう僕を救う力を持たず、ただ美しさに縋った延命の他はもう長い間何も感じていなかった。
そして、気付いたら僕は志田と海辺にいた。右手に江ノ島。その大分手前に、志田。あの銀杏の美しさから何日、何時間、もしかすると何年、経ったかもわからなかった。その記憶の曖昧さは、僕があの銀杏以来、この海岸での志田との時間のみを楽しみに生きていたことの証かもしれなかった。
僕の意識がはっきりとしてきた時から、志田と僕は何も喋っていなかった。僕も志田もあまり沈黙が気になる性分ではないのだろうな、と僕は思った。志田とのそれは心地よかった。海の音が僕の耳に明瞭に響いた。その雄大さに僕は感服した。波打ち際で海の端を指でぐるぐるしたりしながらそれに耳を傾けている内に、僕は僕の人生に幾条かになって訪れたことのある自殺という概念の再来を感じた。高校二年生の終わり頃から高校三年生の終わり頃まで、およそ一年の間に三か月ごとぐらいで訪れたそれは、当時は救いのように見えたそれは、今考えてみると、僕の人生や、自分の能力と社会が僕に求める能力との間の百馬身差への絶望によるひどく不当なものに思われていた。しかし今回の訪問は決して不愉快なものではないような感じがして、僕はドアを開けてそれを招き、歓待してみたくなった。
ある映画で見た、ひどく印象的な自殺。ある一人の男が、水平線に向かって、砂浜からどんどんと海に入ってゆく。
僕は泣いた。膝を抱えてしゃがみ、波打ち際にいたので、僕の涙とその波紋は寄せる漣にさらわれ、すぐに見えなくなってしまった。なので僕は涙をさらに流して志田の方を振り向き、涙を頬骨の上にへばりつかせながら志田に問うた。「僕の涙は?僕の涙はどこに行ったんだ!」僕はすぐにその激情を恥じて、また姿勢を直して波打ち際を見つめた。僕の涙はやっぱりまだそこにそのまま海の水と混ざり合わずに在るように思われた。指で水辺をくるくる触って小さな波紋を産んでも、涙はそれを意に介さず同じ場所に留まっているように思われた。なので僕は右手を海に突っ込んで、その涙が在るであろう場所を掬ってみたけれども、涙は僕の手の中に入ることはなかった。僕は今一度落ち着いて、志田に問うた。「僕の涙は?やっぱり、僕の涙はどこに行ったんだろうか?わかる?」志田は何とも答えず僕を見つめていた。その目の中にも温い海があった。僕は志田と一緒に自殺することにした。
ある映画で見た、ひどく印象的な自殺。ある一人の男が 水平線に向かって歩いて、砂浜からどんどんと海に入ってゆく。僕は立ち上がって徐に海に入り、下から水に消えてゆく。まず靴がずぶぬれになって、海水が靴下に染み入る。この時点で、僕と海との非常なる諧調を感じた。僕はずいぶん得意気になって、ずんずん進んでいった。わりかし傾斜のなだらかな砂浜なので、十メートルほど進んでもまだ膝下ぐらいにしか水は来ていなかった。僕のカーキ色のズボンはすっかり濡れて、波が低くなる度水位線を見せた。僕は非日常に喜ばしくなって、志田の方を振り向いた。優しく僕の方を見ていた。僕は志田に手招きした。志田に「おいでよ」と言ったかもしれなかった。志田も僕の隣のレーンから海に入ってきた。さっきまでの僕を見ているかのように、ざぶざぶと何も恐れることなく、家に帰るかのように水に入ってきた。僕のすぐ後ろまで来た。僕は好きだと思った。僕は志田の手を引いて、僕の隣に招いた。僕らは並んで、どんどん海に入っていった。足がつかなくなってきたので、僕らは顔を見合わせて笑った。鼻をつまんで、海にざぶんと入ってみた。僕らの髪の毛は花のように開いた。僕らは水に弄ばれるまま、先程までよりだいぶ傾斜のきつくなった沖の底に沿ってふわりと沈んでいった。揺れる水面が陽の光を遮ったり強めたりして、カーテンをかけた部屋にいるようだった。しかし僕はそういったよい心地の中で、ある鬱陶しさというか、違和感を覚えた。答えは、ちろちろ差す光が照らす志田の方を見るとすぐにわかった。僕も志田も、ずっと鼻をつまんでいたのだ。僕は左手、志田は右手。僕は志田の方を見ながら、ゆっくりと左手を外した。僕はさっきまで、陸にいた時までと変わらず鼻から息を吸った。僕の中が水で置き換わっていくのを感じた。僕は口でも息を吸ってみた。もっと置き換わっていくのを感じた。僕の口と肛門から、前の食事とか排泄物がばーっと出た。僕は笑って志田の方を見た。志田も右手を外した。少しすると、志田の中も置き換わっていって、胃の中や排泄物が流れ出始めた。段々沈んでゆく僕らから出たそれは、ほうきぼしの尾のように見えた。僕らは目を合わせて笑った。その合った視線の間を、排泄物の尾が通り抜けていった。笑顔の隙間からも、吐瀉物がこぼれた。今キスしたらば、志田の排泄物を食べることになるんだろうか、と思った。上と下の出口の内近い方から出ていくだろうから、排泄物は下の方から出て、あんまり食べることはできないか、とも思った。僕らは笑った。
僕らの中はすっかり置き換わり終わって、水と一体になった僕らは、どんどん沈んでいった。あまり魚と会うことも無くなった。眠る鯨の柱、切り立つ海底の崖、へんてこな烏賊の横を抜けて、ほとんど何もないところまできた。水だけが、ずうっと広がっていた。気付けば真っ暗になっていたが、ちょうど流れてきたチョウチンアンコウと落ち合ったので、僕らはそれぞれ一匹ずつ持って、懐中電灯代わりにして、また沈んでいった。
海の床に着いた。でこぼこ、小さな穴、ありつつ、おおむね平らと言っていい場所に着いた。少し右に行ってみると、また深い谷があった。僕らはまたアンコウと一緒に進んでいった。たまたま近くに寄ってきた小魚を、アンコウがぱくりと食べた。僕は微笑ましく思った。
まただいぶ進んで、チョウチンアンコウの光が徐々に強くなってきたように思われた。しかしそれは光の勢いが増したことを示すわけではなくて、光が行き止まりに差し当たってそこに溜まっていることを示すようだった。段々その行き止まりに近付いて行った。
そこは深い谷の底であった。僕らはさっきも同じような景色に会ったな、と思いながら、その時ぶり、久々に歩いた。少し右に行くと、またこれも先程と同じ、深くなっていた。しかしさっきと違うのは、そこは少し深く、人一人分ぐらい深くなっているだけで、しかもそれは谷と言うよりへこみと言った方が近いような、部屋のような、丸い窪みだった。僕らはそこに降り立った。
そこは太平洋のど真ん中であった。
僕らは抱きしめ合って寝ていた。寝ていた。寝ていた。僕らは抱きしめ合って、寝ていた。僕らは抱きしめ合って寝ていた。僕らは太平洋のど真ん中で、抱きしめ合って、寝ていた。
それぞれの頭上に置いたチョウチンアンコウが、僕らが微睡みの中にいる間、その中を揺蕩う間、それすら見失って、すっかり目を閉じる間までずっと、ぼんやりそこらを照らしてくれていた。志田の顔が緩やかにだが見えた。僕が意識を失う間際、チョウチンアンコウがぷりと糞をするのが見えた。僕は微笑ましく思った。僕は寝た。
ざぶん。目が覚めると、さっきの波打ち際にいた。しゃがんでいたらぼーっとして、海の方へ倒れ込んでしまって、手が水に着いた瞬間目覚めた。僕は手と脛を水浸しにして、四つん這いになっていた。急に意識を引き戻されて、動悸が止まらなかった。しばらくそのまま真下の海を見て、少し落ち着くと、次に志田の方に顔だけ振り向いた。志田は笑っていた。夕日がきらきら。江ノ島がのそり。空がふわり。「水、冷た(笑)」。
僕は志田にキスをしようと思った。周りには、誰もいないようだった。みんな、海に流されてしまったのだろうか。僕は海から出ながら立ち上がったので、当然志田も立ち上がった。トラクターのがたがた走った後のある砂浜。波打ち際から、数メートル。僕は志田を抱きしめた。志田も僕を抱きしめた。お互いがお互いでないとおかしいぐらいの愛情だった。僕らは十分抱きしめ合った後、お互いの顔を見合った。僕は両手で志田の頬を包んだ。もっちりして、とても愛おしかった。その頬に包まれた顔が、後ろから差す夕陽に照らされて光っていた。鼻がつんとするほど美しかった。僕はさっきまでいた海の底を思い出した。僕は志田を愛しく思った。四分音符、八分音符、八分音符の長さでキスをした。江ノ島に向かって車が走って行った。
深海の水は同じ場所を何年も動かない 石田くん @Tou_Ishida
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