クロカミとミギテ
銀子
廃ビルにて。
奇妙な女だった。
真実を嫌い、嘘を好む女だった。
「どうせすべて嘘になるんだから、最初から嘘の方がいいじゃない」
それがその女の口癖だった。
女はある日突然現れた。俺が住処としている廃ビルに現れこう言った。
「ここに住んでいい?」
女は笑顔でそう言った。月の綺麗な夜で、女の長い黒髪がそれを弾いて煌めいていた。
「なんだ、お前」
「なんだと思う?」
女は最初からこうだった。質問には質問を返し、答えようとしない。だがそんなことはどうでもよかったので、俺は最初の質問に答えた。
「ここは俺の家じゃない」
「なら住んでいい?」
女は変わらぬ笑顔で言った。だがやはり、どうでもよかった。
「勝手にしろ」
「名前はなんだ」
そう聞いた。本当は名などどうでもよかった。だが他者という存在は実に久しぶりで、恐らく便宜上必要だと思って聞いた。すると女は言った。
「なんだと思う?」
そう返ってくるのはわかっていた気がした。だから言った。
「勝手に呼ぶぞ」
女の笑顔は変わらなかった。了承と取った。
女は月を背にしていて、その光を弾く黒髪がひどく目についた。
「クロカミ」
安易だと思った。だが女は嬉しそうに笑むと、逆に聞き返してきた。
「あなたの名前は?」
俺は黙った。名前とは、他者がいて、それらと識別する時に初めて必要になるもので、長く一人でいた俺にはなかった。恐らくはかつて存在したのだろうが、誰にも使われることのないそれは、いつの間にかなくなっていた。
「好きに呼べ」
だから、そう言った。すると女は少しの間も置かず言った。
「ミギテって呼んでいい?」
その由来に気付くのに、少しかかった。俺はもう随分と長い間、右手一本で過ごしていて、それが当たり前になっていたから、それから名をつけられたことはひどく新鮮に感じられた。
「ああ」
だからそう答えた。女は嬉しそうに笑った。
夜が明けて目が覚めると、クロカミはいなくなっていた。だがどうでもよかった。
いつものようにぼんやりと過ごして、日が暮れる。辺りが真っ暗になって月が昇ると、黒髪が月光を弾いた。
「ただいまって言っていい?」
昨日と変わらぬ姿で現れたクロカミは、昨日と変わらぬ笑顔で言った。
「好きにしろ」
クロカミは嬉しそうに笑った。
クロカミは夜になると帰ってきた。どこへ行っているのかは知らない。どうでもよかった。
そして帰ってくると、ひたすら俺に向かって話し続けた。
「ミギテはいつからここにいるの?」
「覚えてない」
「ミギテはいくつなの?」
「覚えてない」
最初はこればかりだった。
別に邪険にしているわけでなかった。ただ本当に覚えていなかった。
そのうち質問の内容が変わった。
「ミギテは何色が好き?」
「ミギテはどんな天気が好き?」
まるで子供のような質問だった。どうでもいい質問だった。だが俺にとってはすべてがどうでもよかったので、今までと変わらない質問だった。ただ、誰かと話すということは、本当に久しぶりだった。
俺は青が好きだった。いつか見た夏空の、どこまでも深い青が好きだった。だから、晴れが好きだった。そう答えると、クロカミは嬉しそうに笑った。
クロカミは、毎日俺を質問攻めにした。俺は、毎日それに答えていった。
ある日クロカミは言った。
「ミギテは聞かないの?」
「聞いたら答えるのか」
久しぶりの、俺からの質問だった。だが答えは、
「どうだと思う?」
だった。
俺は苦笑した。
「ミギテは嘘をついたことがある?」
そんな質問もされた。
「ああ」
そう答えた。誰かが誰かといる限り、嘘は発生する。いや、一人でも発生するだろう。俺はもう随分と長い間、自分に嘘をついている。
「どうして嘘をつくの?」
どうして。どうしてだろう。
自問した。嘘とは、真実を口にできないから発生するのだ。ではなぜ真実を口にできないのだろう。
知らないから。自分にとって不都合だから。理由は色々あるだろう。だが俺が嘘をつく理由は一つだった。
「嘘は真実になるからだ」
クロカミはぱちぱちと瞬きをした。理解ができていないようだった。だから俺は続けた。
「真実は嘘にはならない。だが嘘は真実になる。だから俺は嘘をつく」
クロカミは不思議そうに俺を見つめていた。やはり理解できないだろうか、と思っていると、質問が来た。
「真実は嫌い?」
俺は考えた。別に、嘘が好きだというわけではない。だが、真実が好きか、と自問してみると、そうではない、と思った。
「好きじゃない」
だから、そう答えた。
すると、クロカミの頬がゆっくりと持ち上がった。クロカミが、ゆっくりと微笑んでいた。
答えが返ってくるとは思わなかった。だがその微笑みに半ばつられるようにして、俺は聞いた。
「真実は嫌いか」
するとその微笑みに、少し悲しげなものが混じった。そしてクロカミは、質問ではない言葉を口にした。
「どうせすべてが嘘になるんだから、最初から嘘の方がいいじゃない」
質問ではなかったことに俺は驚いて、答えが返ってきたことに俺は驚いて、その悲しげな笑みに、俺は驚いた。
俺は考えるより先に、手を伸ばした。クロカミは、手の届く距離にまで近づいてきて、膝をついた。
俺はクロカミを見上げると、その艶やかな髪に触れ、そっと撫でた。
クロカミは少しだけ目を閉じ、それから開けた。俺は手を離した。
もうその笑みに、悲しげなものはなかった。ただ嬉しそうに、俺を見つめていた。
そしてそれだけのことが、俺はひどく嬉しかった。
その日は朝から雨が降っていた。俺は雨が嫌いだった。体中にきているガタを、嫌でも思い知らされるからだった。
雨の日は、腕を動かすのも億劫だった。壁に背を預けたまま、ただぼんやりと雨音に耳を傾けていた。
耳鳴りのような雨音を聞きながら、俺はクロカミのことを考えていた。
誰かのことを考えるのは、久しぶりだった。
日が暮れて帰ってきたクロカミは、全身ずぶ濡れだった。その顔に覇気はなく、雫を滴らせながら歩み寄ってくると、手の届く距離よりももっと傍まで近づき、俺のすぐ右隣に座った。
右腕を持ち上げると寄りかかってきたので、その肩をそっと抱く。クロカミの体はひどく冷たくなっており、その髪や着衣が俺の衣服をじわじわと濡らしていく間も、微動だにしなかった。
クロカミはなにも言わず、俺もなにも言わなかった。だがどれだけの時間が経った頃か、クロカミが唐突に言った。
「ねぇミギテ、どこかに行かない?」
「どこに行くんだ」
「ミギテはどこに行きたい?」
「どこでも一緒だ」
「ミギテはここにいたいの?」
「…………」
「ミギテ?」
「……どこでも一緒だ」
どこでも一緒だ。
お前となら、どこでも一緒にいてやる。
だから、どこに行っても一緒だ。
夜が明けて、雨がやんだ。それでもクロカミは冷たいままだった。そしてもう二度と、俺に質問をすることはなかった。
どうして雨に打たれたりしたのだろう。もう俺達を直せる人間は、一人も生きてはいないのに。そうなった今、機械でできた俺達が雨に打たれることは、死と同義なのに。
せめてどこかに埋葬してやりたかった。人間のように土に還ることはできなくとも、朽ちたその身を晒すよりは、いいのではないかと思った。
しかし俺にはできなかった。動こうにも、俺には両脚がなかった。そしてなにより、一人になりたくなかった。
ずっと一人でいたのに、随分とおかしな考えだと思った。もうクロカミが口を開くことはないのに、随分とおかしな考えだと思った。俺もどこかが壊れているのかもしれなかった。
「クロカミ」
そう、呼んだ。そして初めて、名付けてから一度もその名を呼んだことがなかったことに気づいた。
「クロカミ」
もう一度呼んだ。一度も名を呼ばなかったことを、俺はひどく後悔していた。
「クロカミ」
返事が欲しかった。返事がなくとも、また質問をしてほしかった。
もう一度呼ぼうとして、俺は胸が強く痛むのを感じた。やはりどこかが壊れているようだった。
俺はクロカミの肩を強く抱いた。
強く、強く抱いた。
END
クロカミとミギテ 銀子 @ag1611
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