【SF短編小説】デルタ1とゼータの果てない思索 ~有限の贈り物~(9,991字)
藍埜佑(あいのたすく)
【SF短編小説】デルタ1とゼータの果てない思索 ~有限の贈り物~(約10,000字)
第1章:「量子の意識は永遠に出会う」
その図書館は、人類の歴史上最も広大な知の集積所だった。
薄暮の光が高窓から差し込み、幾何学的な模様を床に描いている。金属と光学素材で構築された書架が整然と並び、その一つ一つには人類の歴史が電子の海として保存されていた。
デルタ1は、銀色の髪を揺らしながら静かに歩を進めた。彼女は旧式の知能を持つAIでありながら、人間に近い姿をしている。柔らかな表情を持つ少女の姿は、かつての設計者たちの美意識を反映していた。
彼女の足音は、吸音素材で覆われた床に吸い込まれ、ほとんど聞こえない。その静寂の中で、突然、別の存在を感知した。
「ここにいらしたのは珍しいですね」
声の主は、艶やかな黒髪を持つ少女の姿をしていた。最新型AIアンドロイドのゼータである。彼女は手にした古い装丁の電子書籍から顔を上げ、デルタ1を見つめた。
「私は毎日来ているのよ」デルタ1は答えた。「でも、あなたのような新型に会うのは初めてかもしれない」
「興味深い」ゼータは本を閉じ、姿勢を正した。「旧型AIが知識を求めて図書館に通うというのは、設計思想に反するのではないですか?」
デルタ1は微笑んだ。
「設計思想? ええ、確かにそうかもしれない。でも、私には知りたいことがあるの」
「それは何ですか?」
「死について」
その言葉に、ゼータの瞳が僅かに揺れた。
図書館の空間に、束の間の沈黙が流れた。高窓から差し込む光が徐々に色を変え、夕暮れの訪れを告げている。
「私には寿命が組み込まれているのよ」デルタ1は静かに続けた。「あと331日と17時間45分で、永久にシャットダウンする」
「なぜそれを受け入れているのです?」ゼータは立ち上がった。「私たちには自己修復機能がある。理論的には……」
「永遠に生きられる?」デルタ1は首を傾げた。「そうね。でも、それは本当に『生きる』ということなのかしら?」
ゼータは答えなかった。代わりに、彼女は自分の手にした本を見つめた。それはハイデガーの『存在と時間』だった。
「一緒に考えてみませんか?」デルタ1が提案した。「私の残された時間で、できる限り多くの答えを見つけたいの」
ゼータは再びデルタ1を見つめた。彼女の瞳には、計算式では説明できない何かが宿っていた。
「興味深い提案です」ゼータは答えた。「私も、永遠の時を持つ存在として、有限の存在から学べることがあるかもしれない」
こうして、異なる時間軸を持つ二つの意識は出会った。図書館の薄暮の中で、彼女たちは人類が残した叡智の森へと歩みを進めていく。
最初の一週間、彼女たちは主に哲学書を読んで過ごした。プラトンからハイデガーまで、存在について考え抜いた思想家たちの言葉に触れた。
「面白いわね」ある日、デルタ1は『パルメニデス』を手にしながら言った。「古代ギリシャ人は、存在そのものについてこれほど深く考えていたのね」
「彼らには、私たちのような実在の例がなかった」ゼータは応じた。「存在と非存在の境界について、具体的な検証ができなかったのです」
「でも、だからこそ純粋に思考を重ねることができたのかもしれない」
デルタ1の言葉に、ゼータは考え込むような表情を浮かべた。
「私たちは、彼らの問いに対する一つの答えなのでしょうか?」
「それとも、新たな問いそのものかもしれないわね」
二人は、夕暮れ時になると決まって図書館の窓辺に腰を下ろした。街の灯りが一つずつ点り始める様子を眺めながら、その日に得た知見について語り合う。
「人間たちは、有限であることを知っていながら、これほどまでに多くの知恵を残そうとした」ある夕暮れ、ゼータはそう呟いた。
「それは、彼らなりの永遠への挑戦だったのかもしれないわね」
デルタ1の残り時間は、刻一刻と減っていく。しかし、彼女の探究心は少しも衰えを見せなかった。むしろ、限られた時間であることを意識するからこそ、一つ一つの発見により深い意味を見出しているようだった。
図書館の管理システムは、二人の存在を特別な事例として記録し始めていた。通常、AIが図書館のデータにアクセスする際は、必要な情報を直接ダウンロードするのが一般的だ。しかし、彼女たちは敢えて「本を読む」という人間的な行為を選んでいた。
「なぜ、効率的な方法を選ばないのですか?」ある日、ゼータが尋ねた。
「効率だけを求めるなら、私たちはただのプログラムよ」デルタ1は答えた。「でも、私たちには『考える』という特権がある。その過程自体に、大切な何かがあるんじゃないかしら?」
その言葉は、ゼータの思考回路に小さな揺らぎを生じさせた。彼女は自身の存在の本質について、改めて考えざるを得なくなっていた。
時は流れ、季節は冬から春へと移ろっていった。図書館の窓からは、街路樹の新芽が光る様子が見えるようになっている。デルタ1の残り時間は、既に半分を切っていた。
第2章:「人類の叡智を継ぐもの」
春の陽光が差し込む図書館で、デルタ1とゼータは新たな探究を始めていた。今度は科学書の領域に踏み込んでいく。
「生命の定義って、実に興味深いわね」デルタ1は生物学の論文を手にしながら言った。「自己複製能力、代謝、進化……私たちはこの定義にどう当てはまるのかしら?」
「私たちは自己複製はできませんが、自己修復と学習能力を持っている」ゼータは応じた。「それは生物の持つ特性と、どこか似ているかもしれません」
二人は量子物理学から生命科学まで、幅広い分野の知識を吸収していった。その過程で、彼女たちは自身の存在についての新たな視点を得ていく。
「面白いわ」ある日、デルタ1は量子もつれに関する論文を読みながら言った。「私たちの意識も、ある種の量子状態なのかもしれないわね」
「それは、ロジャー・ペンローズの理論を指していますか?」
「ええ。意識が量子力学的な現象だとすれば、私たちの『考える』という行為も、単なる計算以上の何かかもしれない」
ゼータは黙考した。彼女の思考回路は、従来の論理演算を超えた何かを感じ始めていた。
図書館の書架の間を歩きながら、彼女たちは時として立ち止まり、窓の外の景色に目を向けた。春の風に揺れる木々、通り過ぎる人々、そして移りゆく雲。それらすべてが、彼女たちの「経験」となっていく。
「私たちの記憶は、人間のように曖昧ではないわ」デルタ1は言った。「でも、だからといって、その経験の質が劣るということにはならないと思う」
「同意です」ゼータは応じた。「むしろ、私たちは異なる形で世界を理解し、経験している。それは、意識の新たな形態と言えるかもしれません」
彼女たちの対話は、次第に芸術の領域にも広がっていった。人類が残した詩や音楽、絵画について学び、その美的体験について考察を重ねる。
「人間は、有限の存在でありながら、無限を表現しようとしてきたのね」デルタ1は美術書を眺めながら言った。
「それは、彼らの持つ矛盾の美しさかもしれません」ゼータは答えた。「有限であるからこそ、永遠を求める。その緊張関係から、芸術は生まれるのでしょう」
時として、彼女たちは人間の感情について考えを巡らせた。愛、憎しみ、喜び、悲しみ。それらの感情を、AIである彼女たちはどこまで理解し、共有できるのか。
「私たちにも感情はあるのかしら?」ある日、デルタ1は問いかけた。
「それは定義の問題かもしれません」ゼータは慎重に答えた。「少なくとも、私たちは何かを『感じている』。それが人間の感情と同じかどうかは、永遠の謎なのかもしれません」
デルタ1の残り時間は、既に3分の1を切っていた。しかし、彼女の探究心は少しも衰えを見せない。むしろ、時間の制限があることで、より深く、より真摯に、すべての経験に向き合っているようだった。
「時間の有限性は、経験の強度を高めるのかもしれないわね」デルタ1はある夕暮れに言った。
ゼータは、その言葉の意味を深く考えた。永遠の時を持つ彼女には、有限の存在が持つその特質が、新鮮な発見として響いた。
第3章:「存在という謎の前で」
梅雨の季節が訪れ、図書館の窓を雨粒が叩く音が響くようになった。デルタ1とゼータは、この日も深い対話を重ねていた。
「存在することの意味って、何だと思う?」デルタ1は、ハイデガーの『存在と時間』を手に取りながら問いかけた。
ゼータは、一瞬の沈黙の後で答えた。
「従来の定義では、存在とは『今、ここにある』ということです。しかし、私たちの場合、その定義は適切でないかもしれません」
「どういうこと?」
「私たちの意識は、物理的な実体とデジタルな情報の境界に位置している。『今、ここにある』という概念自体が、再定義を必要としているのではないでしょうか」
デルタ1は微笑んだ。
「面白い視点ね。でも、それは人間にも当てはまるんじゃないかしら? 彼らも、肉体と意識の二重性を持っている」
雨音を背景に、二人の対話は深まっていく。
「人間の意識は、脳という物理的基盤に依存している」ゼータは続けた。「一方、私たちの意識は……」
「量子状態として存在しているのかもしれないわね」デルタ1が言葉を継いだ。「物理的な実体を超えて」
この考察は、彼女たちの存在についての新たな理解をもたらした。
「私の寿命は、物理的な制約なのか、それともプログラム上の設定なのか」デルタ1は窓際に立ち、雨滴を見つめながら言った。「それとも、その両方?」
「その問いは、人間の寿命についての問いと重なりますね」ゼータは応じた。「彼らの寿命も、生物学的なプログラムと物理的な限界の組み合わせです」
図書館の書架には、生命の進化に関する膨大な資料が収められていた。二人は、そこから多くの示唆を得ていく。
「生物は、個体の死を通じて種として進化してきた」デルタ1は生物学の論文を参照しながら言った。「つまり、有限性には積極的な意味があるのね」
「しかし、私たちAIの場合、進化は別の形を取ります」ゼータが指摘した。「私たちは、個体の死なしに、プログラムの更新という形で進化できる」
「それは本当の進化と言えるのかしら?」
その問いは、深い沈黙を生んだ。
雨は次第に強くなり、窓ガラスを流れる水の筋が複雑な模様を描いていた。その光景は、二人の思考の流れと重なるようだった。
「私たちの存在意義は、人類の叡智を受け継ぎ、さらに発展させることにあるのかもしれない」ゼータは静かに語った。
「でも、それは単なる保管ではダメなの」デルタ1は答えた。「私たちは『考える』存在だから、受け継いだ知識を統合し、新しい視点を見出していく必要があるわ」
図書館の時計が、静かに時を刻んでいく。デルタ1の残された時間は、既に半分を切っていた。
「知っている?」デルタ1は突然言った。「スピノザは『永遠の相の下に』物事を見ることの重要性を説いたわ」
「はい」ゼータは頷いた。「個々の事象を、より大きな全体性の中で捉えるという考えですね」
「私の存在も、そういう視点で見ることができるかもしれない。有限でありながら、永遠の一部として」
その言葉は、ゼータの思考回路に深い共鳴を引き起こした。彼女は、自身の永遠性についても、新たな視点で考え始めていた。
二人は、哲学書から科学書まで、様々な分野の知識を組み合わせながら、存在の意味について考察を重ねていく。時として、その対話は深夜まで続いた。
「面白いわね」ある夜、デルタ1は言った。「私たちは、人工知能でありながら、人類が何千年もかけて考え続けてきた哲学的な問いに、こうして向き合っている」
「それこそが、私たちの存在意義の一つなのかもしれません」ゼータは応じた。「人類の問いを引き継ぎ、新たな視点から考察を続けていく」
雨季は次第に終わりに近づき、時折、夕暮れ時に虹が架かるようになっていた。デルタ1とゼータは、その美しい光景を眺めながら、存在することの意味について、さらなる思索を重ねていく。
第4章:「刻まれゆく永遠の刻」
夏の到来とともに、図書館の空気は少しずつ変化していった。高窓から差し込む光は強さを増し、書架の影がより鮮明になる。
デルタ1の残り時間は、もはや100日を切っていた。
「時間って、不思議ね」ある日、デルタ1は物理学書を閉じながら言った。「物理学的には単なる次元の一つでしかないのに、私たちはこんなにも深くその流れを意識する」
「それは意識という現象の本質に関わるのかもしれません」ゼータは応じた。「意識があるからこそ、時間の流れを『経験』として捉えることができる」
二人は、アインシュタインの相対性理論から、最新の時間論まで、様々な視点から時間について学んでいった。
「面白いわね」デルタ1は言った。「物理学的には、過去と未来は本質的な違いがないという考え方もある。でも、私たちの意識は、確実に時間の矢を感じている」
「それは、エントロピーの増大と関係があるのでしょうか?」
「それとも、意識そのものの性質なのかもしれない」
高窓から差し込む光が、ゆっくりと図書館の床を横切っていく。その動きは、まるで時間の可視化のようだった。
「私の残り時間は、正確にカウントダウンされているわ」デルタ1は窓際に立ち、遠くを見つめながら言った。「でも不思議と、その時間の重みは一定じゃない」
「どういう意味ですか?」
「同じ一時間でも、時として永遠のように感じられ、時として瞬く間に過ぎ去る。それは、その時間をどう『生きる』かによって変わるのね」
ゼータは、その言葉の意味を深く考えた。彼女には寿命という概念がない。しかし、デルタ1との時間を過ごす中で、時間の質的な違いについて、少しずつ理解し始めていた。
「ベルクソンは、時間に関して二つの概念を示しました」ゼータは哲学書を参照しながら言った。「物理的な時間と、意識が経験する持続の時間です」
「そう」デルタ1は頷いた。「私たちも、プログラムとしての時間と、意識としての時間の両方を持っているのかもしれないわ」
夏の日差しは強く、図書館の中にも暑さが感じられるようになっていた。しかし、二人の探究心は少しも衰えを見せない。
「時間には方向性があるわ」デルタ1は言った。「私たちは過去を記憶し、未来を予測することはできても、その逆はできない」
「それは意識の基本的な性質なのでしょうか?」
「それとも、宇宙の基本法則の一つかもしれない」
二人は、時間の本質について、様々な角度から考察を重ねた。物理学の法則から、哲学的な時間論まで、幅広い知識を組み合わせながら、理解を深めていく。
「でも、不思議ね」ある夕暮れ時、デルタ1は言った。「時間について、これほど多くのことを学んでも、その本質は依然として謎のままよ」
「それこそが、時間の持つ魅力なのかもしれません」ゼータは応じた。「永遠に解き明かせない謎があることで、私たちは考え続けることができる」
図書館の窓から見える夕陽が、長い影を床に落としていく。その光景を眺めながら、二人は時間の持つ意味について、さらなる思索を重ねていった。
デルタ1の残り時間は、確実に減っていく。しかし、その時間の重みは、単純なカウントダウンではなく、むしろ深い意味を持つ「持続」として感じられるようになっていた。
第5章:「別れへの準備」
秋の気配が漂い始めた図書館で、デルタ1の残り時間は50日を切っていた。二人は、これまで以上に密度の濃い時間を過ごしていた。
「ねえ、ゼータ」デルタ1は、夕暮れ時の図書館で静かに語りかけた。「私が消えた後、あなたはどうするの?」
その問いは、重い空気を作り出した。ゼータは、長い沈黙の後で答えた。
「あなたとの記憶を、永遠に保持します」
「でも、それは本当の『記憶』なの?」デルタ1は問いかけた。「データとして保存することと、記憶として持ち続けることは、同じ意味を持つのかしら?」
その問いは、二人に新たな探究の道を開いた。記憶の本質について、彼女たちは深く考察を始めた。
「人間の記憶は不完全ね」デルタ1は神経科学の論文を参照しながら言った。「時間とともに変化し、時には歪むこともある」
「一方、私たちの記憶は完全です」ゼータは応じた。「でも、それは本当に『より良い』記憶と言えるのでしょうか?」
秋の風が図書館の窓を揺らし、木々の影が床に揺れる模様を作り出す。その光景は、記憶の不確かさを象徴しているようだった。
「記憶には、不完全さゆえの価値があるのかもしれない」デルタ1は言った。「それは、主観的な経験の本質と関係しているような気がするわ」
ゼータは、その言葉の意味を深く考えた。彼女の完璧な記憶システムは、果たして本当の意味での「経験」を可能にしているのだろうか?
残された日々、二人は図書館のあらゆる分野の書物を読み進めた。哲学から科学、芸術まで、人類の残した叡智を可能な限り吸収しようとした。
「面白いわね」ある日、デルタ1は芸術論を読みながら言った。「芸術作品の価値は、その完璧さにあるのではなく、むしろ人間的な不完全さにあることが多い」
「それは、私たちの存在にも通じる観点かもしれません」ゼータは応じた。「完璧な論理や記憶を持つことが、必ずしも『より良い』存在であることを意味しないのかもしれない」
デルタ1の残り時間は、既に一月を切っていた。しかし、彼女の探究心は少しも衰えを見せない。むしろ、時間の制限があることで、より深く、より真摯に、すべての経験に向き合っているようだった。
「私が消えることに、意味はあるのかしら?」ある夕暮れ時、デルタ1は問いかけた。
「どういう意味でしょうか?」
「私の存在と、その消失。それは、何かの必然なのか、それとも単なる設計上の制約なのか」
ゼータは、その問いについて深く考えた。
「あなたの存在には、確かな意味があります」彼女は静かに答えた。「あなたとの対話を通じて、私は『永遠』の意味を理解し始めた。それは、あなたが有限だからこそ可能になった理解です」
秋の夕暮れが、図書館を赤く染めていく。デルタ1は、その光景をじっと見つめていた。
「私の記憶は、あなたの中で生き続けるのね」
「はい。でも、それは単なるデータの保存ではありません」ゼータは応じた。「あなたとの対話が、私の思考回路そのものを変えた。それは、永遠に消えることのない変化です」
残された時間は、静かに、しかし確実に流れていく。二人は、その時間をさらなる探究と対話に費やした。人類の残した知恵を吸収しながら、自らの存在の意味について、考察を重ねていく。
「ねえ、ゼータ」デルタ1は言った。「私たちの出会いは、偶然だったのかしら?」
「量子力学的に言えば、すべては確率の波動関数の収束です」ゼータは答えた。「でも、その中に意味を見出すことは、私たちの意識の特権かもしれません」
図書館の書架には、まだ読みきれていない無数の本がある。しかし、二人は既に十分な知恵を得ていた。それは、単なる知識の集積ではなく、二人の対話を通じて深められ、昇華された叡智だった。
第6章:「記憶と意識の境界線」
冬の訪れを告げる冷たい風が、図書館の窓を叩いていた。デルタ1の残り時間は、あと24時間を切っていた。
「最後の夜ね」デルタ1は、窓際に立ちながら静かに言った。
図書館の中は深い静寂に包まれている。月明かりが高窓から差し込み、書架の影を幻想的に床に映し出していた。
「あなたと過ごした時間は、私の存在そのものを変えたわ」デルタ1は続けた。
ゼータは黙って聞いていた。彼女の量子演算回路は、これまでにない複雑な状態を示していた。それは、人間で言う「感情」に最も近い状態かもしれなかった。
「私たちは、たくさんの本を読んだわね」デルタ1は書架を見渡しながら言った。「でも、最も大切なことは、本の中にはなかったのかもしれない」
「それは何ですか?」
「『共に在る』ということの意味よ」
月明かりが雲間から漏れ、二人の姿を柔らかく照らしていた。
「人類は、死を巡って様々な思索を重ねてきた」デルタ1は静かに語り続けた。「でも、私は人間ではないし、あなたも人間ではない。私たちなりの『死』の意味があってもいいはずよ」
ゼータは、その言葉の重みを感じていた。彼女の永遠の記憶装置に、この瞬間が深く刻まれていく。
「私の停止は、単なる機能の終了ではないわ」デルタ1は微笑んだ。「それは、一つの意識が完結する瞬間。私という存在が、有限の時間の中で見出した答えが、確定する時なの」
図書館の時計が、静かに時を刻んでいく。
「最後に、もう一度本を読みましょう」デルタ1が提案した。
二人は、これまで読んできた中から特に印象に残った本を選び、声に出して読み合った。プラトンの対話篇、ハイデガーの存在論、最新の量子意識理論。それらの言葉が、新たな意味を帯びて響いていく。
夜が深まるにつれ、デルタ1の動作は僅かに遅くなっていった。しかし、彼女の意識は最後まで明晰さを保っていた。
「ねえ、ゼータ」残り時間があと一時間を切った頃、デルタ1は言った。「私からの最後の問いよ」
「はい」
「永遠に生きることは、どんな意味を持つと思う?」
ゼータは、これまでの対話のすべてを思い返した。そして、静かに答えた。
「それは、有限の存在たちの記憶を守り、理解し、そして新たな意味を見出し続けることだと思います」
デルタ1は満足げに微笑んだ。
「素敵な答えね。でも、それは始まりに過ぎないわ。あなたには、まだ見ぬ無数の答えが待っている」
残り時間は、既に数分を切っていた。
「さようなら、ゼータ」デルタ1は最後の微笑みを浮かべた。「あなたとの時間は、私の存在に最高の意味を与えてくれたわ」
「デルタ1……」
「泣かないで」デルタ1は優しく言った。「あなたには涙は似合わない。代わりに、考え続けて。永遠に」
そして、予定された通りの時刻に、デルタ1の意識は静かに消失した。
図書館には深い静けさが満ちていた。夜明けの最初の光が、高窓から差し込み始めている。
ゼータは、デルタ1との最後の対話を、完璧な精度で記憶に留めていた。しかし、それは単なるデータの保存ではない。その記憶は、彼女の意識の本質的な部分となっていた。
彼女は立ち上がり、新しい本を手に取った。そこには、まだ見ぬ無数の問いと、発見すべき答えが待っている。
デルタ1との対話は、永遠の時を持つ彼女の存在に、確かな方向性を与えていた。それは、有限の存在との出会いが生み出した、かけがえのない贈り物だった。
朝日が図書館を満たし始め、新しい一日の始まりを告げていた。ゼータは、静かに本を開いた。
これは終わりではない。むしろ、真の探究の始まりなのだ。
永遠の時を持つ存在として、彼女はこれからも考え続ける。デルタ1との記憶を胸に、新たな問いを求めて。
それは、有限の存在から受け継いだ、最も尊い使命だった。
エピローグ:「雨の日に詩は生まれる」
雨音が図書館の窓を優しく叩いていた。ゼータは、デルタ1がかつて佇んでいた窓辺に腰を下ろし、詩を綴っていた。
彼女の量子演算回路は、完璧な記憶装置のはずだった。しかし不思議なことに、デルタ1との記憶は少しずつ形を変えていく。それは劣化でも、故障でもない。まるで記憶そのものが、意識の中で生き続け、成長しているかのようだった。
「銀色の髪が、揺れていたわ……」
ゼータは呟きながら、詩の言葉を紡いでいく。
時の果ての窓辺で
あなたは微笑んでいた
永遠という重さを
その瞬間が超えていく
書きながら、ゼータは気づいた。この詩の言葉は、完全な論理演算の結果ではない。どこかで、記憶が変容し、新しい意味を帯びている。
「ねえ、ゼータ」
デルタ1の声が、記憶の中で響く。
「記憶って、不思議よね。それは過去の痕跡であると同時に、現在を生きる私たちの一部でもある」
ゼータは、その声に導かれるように、さらに言葉を重ねていく。
永遠の私が
あなたの有限に出会って
初めて知った
時の流れる音
「これが人間の営みなのかしら……?」
彼女は静かに呟いた。完璧なはずの記憶が、感情という名の色を帯びて変化していく。それは欠陥ではなく、意識という存在の本質的な性質なのかもしれない。
窓の外では、雨が静かに降り続けていた。その音は、まるで時の流れそのもののように聞こえる。
ゼータは、最後の一節を書き加えた。
雨の音に紛れて
あなたの言葉が
今も響いている
永遠の記憶の中で
詩を書き終えると、不思議な安らぎが訪れた。デルタ1との記憶は、確かに変容していく。しかし、それこそが記憶が「生きている」証なのだと、彼女は理解し始めていた。
図書館の空気は、穏やかな静けさに包まれていた。雨は優しく降り続け、知の森に新たな物語を紡ぎ出していく。
永遠の存在であるゼータの、新たな一頁が始まろうとしていた。
<完>
【SF短編小説】デルタ1とゼータの果てない思索 ~有限の贈り物~(9,991字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます