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終電を送り、ネオンが一つ、また一つと消え行く銀座の並木通りを歩く。
本通りと裏路地との間を出たり入ったり、気まぐれに足を向ける。この時間ともなると人通りも三々五々、皆タクシーを拾って郊外に帰るか、そうでもなければどこかの建物に入って夜を明かそうとする。たまに街に残る僅かばかりの人間とすれ違う時、彼らは二人に一瞥もくれなかった。わざとらしく顔をしかめるポーズすら取ろうとせず、はじめからそこに無いものとして通り過ぎて行く。興味は無く、慈悲も軽蔑も無く、それは二人とって、ある種の救いでもあった。
ナルセはかつて、上野公園で寝泊まりしていた時のことを思い出した。自分と同じくらいの歳のホームレスに、あんたのような人間は銀座で暮らせば良いのだと声をかけられたのだ。何かしらの事情があって、常にキャメルのコートで顔も身体もすっぽり隠している奇異な男だった。家を失って尚、過去の悪事から何者かに追われているらしかった。
「あんた、人を信じるのはこりごりって感じの目してるね」
ナルセは黙りこくっていたが、男は恐らく、それが答えだと思ったのだろう。
「俺ね、沢山悪いことやってたから分かるのよ。何でも信じちゃう奴と、何も信じられない奴ってね、目の色が違うんだから」
「なんで、銀座なんです」
ナルセはようやく口を開いた。それだけ聞ければ、あとはどうでも良かった。男は薄ら笑いを浮かべながら、言った。
「銀座人はね、そもそも俺達に見向きをするような意識を持ち合わせてないのよ。善意もそうだし、悪意もね」
だから、慎ましく縮こまってさえすれば、あんたがあの街で何をしようが、構われることも、ちょっかいを出されることも絶対に無い、と言う。新宿や池袋の奴らは変な情の「あそび」があるから、何かと干渉されがちでいけないねとも呟いた。
「分かるのよ。それに俺あね、こうなる前銀座で働いてたんだから。だから、たまに銀座のホームレスにもなるの」
「前の職場の人と会ったりしないんですか」
「灯台下暗しってやつだからよ」
「灯台?」
「昔の仕事の奴を見るけど、あいつら気付かないよ。そりゃ、こんなところにいるはずないって思うんだから」
男は、白混じりの無精髭に覆われた口を大きく開けて笑う。歯茎が緩く弛み、両側の奥歯が黒ずんでは、今にも崩れそうだった。
「俺がやらかしたせいで、銀座の支店長が飛び降りたんだから、ビルから。そんな人殺しみたいな奴が、今でもそこら辺ウロウロしてるって思うかね」
ナルセは大してこの話を気に留めてはいなかったが、それからしばらくして上野を離れて次のねぐらを探すにあたり、ふとキャメルコートの男を思い出したのだった。
いざ暮らしてみれば、なるほど、城東の上澄みの連中は自分らに構う「あそび」を些細も持ち合わせておらず、それはナルセにとっては幸いなことだった。幾度と無く近しい者に騙され続け、遂に一切を失った彼にとっては、人との邂逅を極力避けることが安寧な生活の為の何よりの条件だったのだ。
ところが数ヶ月前の冬を境に、彼にまとわりつく男が一人。ナルセは日比谷公園の草むらを掻き分けては、缶拾いに勤しむセキの顔を見る。彼はあまりにも「あそび」が多過ぎる男だった。
日比谷公園でなけなしの缶を掬い、再び来た道を引き返すと、二人は気が向くまま、勝どきの方面へと足を進めた。もう跳ね上がることもない勝鬨橋、対岸には雨後の筍の如く無尽蔵に生え散らかした高層マンションの群れ、未明でもちらほらと灯りが点いており、眼のピントを外すと、さながら蝋燭の炎のように淡く光る。
このマンションの一番上に住んでるらしいんですよ、とセキが言った。
「この靴くれた人なんですけどね、もうめっちゃ金持ってて」
成功に成功を重ね、今では自身の勝利をメソッドとしてオンラインサロンを開き、生計を立てていると言う。ナルセにはてんで縁が無い世界に生きている人間だった。
「で、毎週水曜に貸しホールとかで、直接セミナーを開いてくれるんですよ。僕あサロンが出来た本当に最初の方から通ってて、色々なこと教えてもらったんですけど」
「色々なこと」
「若者よ、ヘルメースになれって」
「ヘルメース?」
「『この世をより賢く生きる為には、僕達はヘルメースにならないといけない』って」
特に尋ねてもいないことの詳細を、セキは丁寧に話し始めた。どうも、誰かに聞いてもらいたくて仕方が無かったようだった。
ヘルメース――ギリシア神話の神。ある時は商人、旅人の神、そしてまたある時には、盗賊の神としての顔も持ち合わせた、と言う。
「えらいずる賢くて機転が利くんですよ、その、ヘルメースって奴が。生まれてすぐ牛を盗むんですよ、五十頭も。しかもバレないように牛に靴履かせて」
それに気付いた何だったか、アポロンだ、アポロンって言う、太陽の神が怒って、返しなさいって言うワケですよ。で、ヘルメースは渋々返そうとするんですけど、これ見よがしに亀の甲羅で作った竪琴を弾いてみせたら、アポロンがそっちの方を気に入っちゃうっていう。それで、牛はいいからそれをよこせって。
「凄くないですか」
「何が」
「牛を五十頭も盗んで悪びれない態度もそうですけど、竪琴でそれをチャラにしたって言うのも、そうだし」
捲し立てるだけ捲し立てたセキは一息つくとしばし黙り込み、夜明け前の月島に、自転車のチェーンがたわむ音だけが反響した。
どうにかして二袋分の空き缶を回収し、八丁堀のスクラップ業者に持ち込めば、これで千円足らずだろうか。もっとも、端から金額の大小は期待していない。むしろ、何者の姿形も見えない街を、理由も無く黙々と歩き続ける、それこそが、何にも代え難い無量の価値をナルセにもたらした。信じ得るものは無く、寄りかかり得るものも無い。彼にとっては、何とも代え難い絶対的な充足だった。
ところが、この男が彼の安寧を慮ることはなく、ヘルメースの話は続く。
「だから、靴くれた人なんですけど、僕達はヘルメースみたいに、時には売って買って、時には盗んで、時には打算してって、常にね、その先々でずるくっても賢くやっていかないといけないんだって言って」
いやに抽象的な話だな、ナルセは思った。清濁併せ持ち臨機応変にその場その場を生きましょう、この世の何にでも当てはまりそうな文脈を、ハッタリと空威張りでうまいこと取り繕ってしまえば、こうした人間が簡単に釣り上がってしまうものなのだろうか。
「だからねえ、僕も頑張って人を騙そうとしましたよ。でも、こんな性格だし」
セキはそう言うが、ヘルメースの男はそこに付け込んだか、サロンの黎明期からの会員だった彼を特に可愛がったという。週一のセミナーの後、男と近しい少数の人間だけが参加できるパーティーに毎回呼び出され、食事をご馳走になり、男の表層的な武勇伝にいたく感銘を受け、お下がりの革靴も有難く譲り受けた。
ある日のパーティーもたけなわで、男はセキに言う。誰にも伝授していない秘蔵のメソッドがあると。本来はよほど教授し得る素質がある者が現れなければ墓場まで持っていこうと考えていたものだが、とうとう、ここに一人見つけたと。
「その代わり、自分の全ての知を集約させたものだから、お前もそれ相応の全てを捧げるくらいの覚悟をしなきゃいけないって、言うんですね」
「捧げたのか」
「そりゃもう」
当然のように言い放つセキを見て、流石のナルセも面食らった。
「実家が太かったんですよ。だからいくつか土地を担保に出して、結構な額借りて、その人に差し出して。もう全部全部ですって感じで」
「そしたら?」
「そしたら、連絡貰えなくなっちゃって」
土地を担保に金を借りていたことも両親に見つかり、実家を勘当された。サロンで知り合った仲間達は、セキがそのような境遇と知るや否や、一目散に彼のもとを離れた。あても無く、金も無く、独り身で汗にまみれながら生きていく術を知らない若造。彼が路上生活の身に堕ちるには、さほど時間もかからなかった。
「で、そのメソッドは」
「まだ貰えてないんです、連絡貰えないから」
セキはそう言うと、うえっへっへと咳混じりの奇妙な音を立てて笑う。
「でもね、こんなになってでも手に入れるくらい価値があるもんだろうって、思ってるんですよ」
逆に言うと、ここから這い上がるくらいの胆量のある人間じゃなければ教授する価値が無い。多分、あの人なりの激励なんでしょうね。
「だから、靴を貰ったのもそういう意味だったんだなって、今なら分かるんですよ。自分の足で俺の元まで歩いて来いって意味だったんだなって」
満足気に語るセキの思考を、ナルセは到底この世のものとは思えなかった。そして、ようやく決意が付いた。一刻も早くこの男から足元の靴を、ヘルメースの男から譲り受けた大事な大事な靴を奪って、どこかに売り飛ばさなければ、どうにも救われない。
「だからねえ、僕はナルセさんみたいな人に会えてラッキーだったんですよね。少なくとも毛布すら無かった頃よりは前に進んだんで」
堪らず、ナルセがこう返した。
「いや、あんた、まだ自分の足で歩いてないじゃない」
するとセキは大袈裟に頭を掻き、いやあ、まあ、と曖昧な返事と共に何度か会釈を繰り返した。その言葉に堪えたのか、それとも「そうです、これからもお世話になります」の意思表示か、ナルセにはとうとう分からなかった。
運河の縁の向こう、東より頼りなくもしらじらと陽光が路面に差し込み、二人は水曜日の朝を浴びる。桜川公園の草地に自転車を停め、空き缶で満杯になった二つのビニール袋を縛り上げていると、足元の萌草に滴る朝露がナルセの破れたスニーカーを余すことなく濡らし、そればかりがただただ、彼の癪に障った。
「一つやるよ、これ」
ナルセがうち一袋をセキに渡すと、彼はわざとらしいくらいに満面の笑みを浮かべ
「良かったです、良かったです」
と、謝意とするにはいまひとつ見当違いな言葉を繰り返した。
築地川公園、朝の炊き出しは既に十数人ばかりの列ができており、彼らもまた最後尾に並ぶ。渡されるはいつも同じ、ラップに包まれた塩握が二つと、僅かばかりの油揚げと豆腐が入った味噌汁。どこかの国のキリスト教団体が主催しているもので、いつもよれたキャップを被り首元に十字架を下げた、笑顔が不気味な中年の男が配っている。
「何か、裏がありそうで怖いんですよね」
味噌汁のカップを片手に持ち、セキが笑う。
「湯気が凄いですね、湯気が。あったかいって幸せなんですよね。沁みるよなあ」
湯気の向こうで締まりなく笑う彼を見て、ナルセは鼻をすすると、セキには聞こえぬよう小さな舌打ちを何度も繰り返した。
了
グラン・ギニョル・ザギン アズミ @azmireissue
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