グラン・ギニョル・ザギン
アズミ
1
五冊売れたんですよ、とセキが言う。
「昨日は全然引っ掛かんなかったのに、皆やっぱり火曜って月曜よりも心の余裕があるんですかね。それとも万年橋の人が親切なんですかね」
「昨日は」
「数寄屋橋」
セキはビッグイシューの最新号を一冊、ナルセに渡す。ナルセは表紙に写っているトム・ヨークを見ると変に嫌な気分になってしまい、ページもめくらずに返した。
「俺、こいつ好きじゃないんだわ」
「面白いですよ」
「いいよ」
「面白いし、一冊売れたら一八〇円だし」
「二三〇円じゃないの」
ビッグイシューは四五〇円の雑誌を一部売れば、いくらかのマージンが引かれていたとしても、最低二三〇円は売り手に残る仕組みのはずだった。
「いや、一八〇円」
「ピンハネされてんじゃないの、リーダーみたいな奴から」
セキは、とぼけた表情をした。あれ、そうなんですか、マツモトさんに持ってかれちゃってんのかなあ。いい人なんですけどね――と口籠もる顔よ。お人好しと言うよりは、単に「物知らず」と形容した方が近かった。
「一八〇、一八〇で五冊売れても九〇〇円?」
どう考えても、割に合わねえだろ。ナルセはそう吐き捨てると、万年橋の欄干にもたれていた身体を起こし、膝をくるめていた毛布を畳み、ボロきれで縛る。それを壊れかけの自転車のカゴに乱雑に押し込み、ひとまず日比谷の方面へと足を向けるが、特に定まった目的地があるわけでもない。
「寝場所探しますか」
セキが聞いた。
「違う」
「缶拾いますか」
「まあ」
「やっぱり、深夜の方がいいんですかね」
日中だとゴミ捨て場の管理人が血相変えて飛んできますよね、あいつらやること無くて暇なもんだから、もう腰なんてこんな曲がってんのに、元気だけはそこら辺の大学生なんかよりずっとあるんだから――セキはそのようなことをナルセに捲し立てたが、彼は何も返さず、黙々と夜半の晴海通りを進む。
火曜日の夜だった。ナルセは週に一回、水曜日の午前中に築地川公園で開かれる炊き出しの前の晩には、缶拾いの体で夜通し、自転車を押しつつ街中を歩くことを習慣付けることにしている。特別な理由は無かったが、もう大分前に衝動的に思い立ってから、彼は律儀にそれを何十回と続けていた。
あくまで目的は朝が来るまで街を歩き通すことで、缶拾いそのものにはそこまで重きを置いているわけではなかった。缶に限らず、金に換えられそうな目ぼしいものをついでに見つけられたら拾っておく、くらいの気持ちでいられれば良い。
「いつまで拾うんですか」
「朝まで」
「朝」
わざとらしくも口をあんぐりと開けたセキの顔が、視線の隅に入る。
この男は何かにつけて、大袈裟に表情を転がし続ける。ナルセは子供の頃に見た、大昔のアメリカのアニメに出てくるキャラクターの顔を反射的に思い出す。人の良さが災いしていつも話の序盤で悪者に騙されて痛い目を見る、典型的なやられ役だった。思えばその頃からあまり好きになれない顔立ちだった。
「朝までダラダラ拾って、築地川行って、炊き出し貰って寝るよ」
「その後は」
あらゆるネジが緩んだ自転車が段差に乗り上げる度にガチャガチャと軋み、その五月蝿さに抗うかのように、セキはやたらと大声で言葉を投げてくる。
「午後イチくらいに起きて餌取り」
「できるんですか今日日」
餌取り、即ち飲食店やコンビニ、スーパーで廃棄された食材を黙って掻っ攫ってしまうことだが、環境意識の向上だかそれに伴う規制の強化だかで、確かにここ数年はそれまでと比べても段違いに難しくなっていた。ナルセが「一方的に」懇意にしていた、廃棄品のチェックが甘かった京橋近くのコンビニも潰れ、いよいよ彼等には日銭を稼ぐ以外、飯にありつく手段は皆無となったと言っても良かった。
「何かツテでもあるんですか」
あったとして、お前に教えるだろうか。飯種をわざわざ赤の他人に教える余裕が、俺のどこにあるというのか。ナルセは足元を向き、歩道に整然と並ぶ真四角のタイルを一つ、また一つ、足で踏み付けながら思った。
履いているスニーカーが、大分くたびれてきた。右足の爪先が側面に当たっては擦れとほつれを繰り返し、小指が見えている。大分前の炊き出しで貰ってから何ヶ月と経つ上にこれしか履いていないものだから、むしろ持っている方だった。
ホームレスか否かを判別したければ足元を見ろ、とは方々で言われる話だが、概ねその通りだった。屋根のある場所に住む人間は、わざわざ穴が開いた靴を選んで街に繰り出すことはないだろう。
その割には、この男――セキは、置かれている境遇にあるまじき、ブラウンも深く艶めかしい、大層立派な革靴を履いている。いつか、ナルセはその理由を訊いたことがあった。
「こういう生活する前に、尊敬してる人から貰ったんですよ。結構前ですけど」
今でも靴磨きの用具は一式揃え、何かが消耗すれば食費を削ってでも買い直し、暇さえあればボロ布で丁寧にそれを拭いていると言う。歩き方にも気を付けているらしく、決して段差に爪先を当てない、小石を蹴り上げない、排水溝の口に踵を引っ掛けるなど決してあってはならないこと、らしい。
この靴が彼にとってどのような意図を持っているのかは知る由もなかったが、その話を聞いた時、ナルセはいよいよセキのことを変な奴だと思えるようになった。
家を失ってまでも残された時間を享受することを選んだからには、その日一日を明日へ繋げていく為に必要な某か、金、食事、寝場所――それ以外の余剰をできるだけ切り詰める必要が、彼らにはあった。実利から遠い拘りは、時として致命的とも言える。ましてや靴如きに、己の足を守る以外の意味を見出す必要は、彼等には無いはずだった。ところが、彼は汗と油で黒ずみ、元が何色だったかも識別できないような汚らしいパーカーなどを着ていながら、足元だけを不相応に輝かせている。
いつか奴の靴を奪って、泥棒市にでも売り飛ばしてやろうかとナルセは考える。
釜ヶ崎の定食屋、座敷で食事をしていたらいつの間に靴の片方を誰かに奪われ、やむなく片一足で店を出たら、店の真向かいの泥棒市のゴザの上に、盗まれたもう一足がガラクタに紛れて無造作に転がっていた――その昔どこかで聞いた、嘘のようで誠であってもおかしくないような話を思い出した。大阪最大のドヤが釜ならば東京は山谷なのだろうが、果たして閑古鳥鳴く今の山谷に泥棒市が開かれる余裕はあるだろうか。
「山谷行って二時間、帰って二時間」
「はい」
「いいとこどうせ千円そこらで、それで四時間」
「何計算してるんですか」
無意識のうちに独り言ちていたらしい。ナルセはやはり、セキの問いには答えない。それにしても、この男の靴を奪ったところでこちらの利になるようなことはあまり無さそうだと分かってしまい、彼は少しばかり落胆した。
歩き始めてから、大分時間が経つ。もう日付も超えただろうか。そう言えば、今日は何曜日だ、水曜日か。それはそうだ、炊き出しがあるのだから水曜日だ。
ナルセは、炊き出しが行なわれる水曜日を一週間の軸として曜日を把握していた。週に一回でも、その日、腹に入れるものの心配をせずに済む、それだけでも、彼にとっては多分に有り難いことだ。
空き缶は一向に溜まらず、自転車の荷台に括り付けた大容量のポリ袋がだらしなく萎んでいる。東京、ないしは日本有数の格を持つ繁華街である、そもそもの話、ポイ捨て自体が少ない。ゴミ箱も至る所に整備され、空き缶を拾うには適していない。それでもナルセがこの場所をねぐらに選ぶ理由は、まず、治安の良さがあった。
彼らに暴力的な振る舞いを見せつける調子付いた中高生、天地の境も分からなくなるほどに酔い潰れたサラリーマン、そういった連中が、山谷、池袋、西新宿、その辺りの地域と比べても相対的に少なくなる。お陰様で去年の晩秋、祝橋公園の隅に段ボールの宮殿は一度も壊されることなく、冬を越し、こうしてナルセは春を迎えていた。
「もう夜になってもあったかいですね、良かった」
セキが言う。彼が住処を失くしたのは去年の夏の話で、しばらくしてやって来た初めての冬には相当堪えたようだった。
着の身着のまま、年の瀬の東銀座駅の地下道、非常用扉とシャッターの間にあった僅かな隙間に身を押し込み、忙しなく貧乏揺すりを繰り返す彼にボロ布を貸してやったのが、ナルセの運の尽きだった。ろくに路上生活の知識を持たないセキはその冬中、これ幸いとナルセにまとわりつき、身体を凍りつかせることなく、飢えることもなく、めでたく春の夜風を浴びてご満悦である。
とんだお人好しであるとナルセは思った。無論、自身の話だ。特に情を覚えたことは無かった。むしろ、いつどのようにくたばろうが知ったことではないくらいの関係だ。何故、この男を構う気分でいられ続けているのか、それだけは彼自身にも、どうにも分からないことではあった。
「あっ、すいません。ガム付きました、靴に」
セキがにわかに叫び、薄汚れた灰色のリュックサックから靴ベラのようなものを取り出すと、右の靴を脱ぎ、慎重に靴裏に付着したガムを削ぎ落とそうとする。ナルセはそれを見て、靴が破れて剥き出しになった己の右足の小指を案じた。
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