声を封じる
B3QP
本編
僕は首を曲げたままトイレのドアの内側を見つめている。曲げたまま、という表現が適切なのかは分からない。ズボンを脱ぎ、便器に腰を下ろしている。その背筋を伸ばした状態で、頭頂部だけを左方向に傾け、さらに角度を深めるため、右の
そのうちに、下半身から尿が間欠的に滴り落ちる。しかし尿管の中に液体が残っている感覚は依然として消えない。連続で吹き出すような排尿は長らく経験していない。フルフェナジンマレイン酸塩の副作用かもしれない。僕はその薬を飲むと体液の粘性が増すように思える。掌から分泌される汗はその場で膜を張るように感じられ、鼻水を嚥下するたびに、喉にはどろどろとした不快感が残る。
このトイレの外側は廊下で、その廊下の右奥の突き当たりはリビングであり、そこでは常に複数の叫び声が響いている。子供たちが、買ったばかりのゲームで敵を倒しているのだろう。その声があまりに騒がしいので、彼らが起きている間、僕は常にノイズキャンセルのためのイヤホンをしている。しかし、リビングの悲鳴は止まらない。僕は右手で顎を持ち上げたまま、左手で左耳の中心部を探り、イヤホンが傾いた頭から落ちていないことを確かめた。
両目を強く開く。床に対してほぼ垂直に並んだ二つの眼球を、その白目たちが空気の循環を感じられるまで開き続ける。そして、
ふと、この身体的緊張により得られる安堵感について、観察的な文体で記述してみたいと思い立ち、スマートフォンのメモを開く。僕は首を曲げたままトイレのドアの内側を見つめている。こうしてこの文章は書かれはじめた。文字入力には両手を用いる――右手でスマートフォンを持ち左手でフリック入力をするため、もう顎を持ち上げることはできない。それでも、できるだけ、首を曲げたまま目を見開いているべきだ。ただし、書かれた文章を確認する時には髪の毛を引っ張る必要がある。左手の指たちが頭髪を巻き取り、引き抜きはじめる。それらは冷たい床に舞い落ち、残った枝毛の切っ先が指の腹に刺さる。
メモを書いている画面の上部に、小説投稿サイトからの通知が表示された。現在、その投稿サイトでは作家たちが投票数を競うコンテストが開催されており、作品についての宣伝やレビューなどの通知が流れ続けている。
今年僕は、おおむね月に一つずつ小説を書いてきた。評価されることへの期待は持っていないつもりだった。しかし、十一月に発表した長編については、他のことを犠牲にして書き上げたせいか、これは自分にとって重要な作品だと公言してしまい、結果としてそれが広く読まれなかったことにひどく傷ついた。そのせいか、創作仲間とお互いの著作を読み合って楽しむこともできていない。この文章が今年の十二作目となるのかは分からない。では、僕は何のためにこれを書いているのだろう。何のために……。
急に、嫌な言葉を思い出した。自分が過去に書いた言葉――自分の本質的な欠陥を露呈しているような言葉だ。僕は、それを聞きたくない。奥歯を噛み締め、頬の筋肉に力を込める。首の後ろ側を支点として、頭部全体が小刻みに震えはじめる。それでも、音の聴こえないこの個室で、その言葉をかき消すことはできなかった。なぜあんなことを書いたんだ。本当のことなど、書くものではない。
スマートウォッチが右手首の皮膚に振動を伝えた。継続的な騒音暴露が聴覚を損なうとの警告だ。リビングからの叫び声のせいだろう。なぜか喉の奥が熱を持ち、砂を撒いたように荒れている。続いて、転倒検知機能が誤作動したようだ。手首には、救急コールを促す赤い文字が表示された。僕はその通知を止め、メモの続きを書くことにした。こうして客観的な記録を残しておけば、誤作動の改善のための報告ができるかもしれない。ああ、きっと、そういうことだ。客観的な記録――今の僕に必要なのは、身体感覚と内的意識の観察を含めた精緻な叙述なのだろう。
僕は排尿を諦め、トイレのドアを開けた。自室の蒲団に倒れ込むと、手に持ったスマートフォンがまだ震えている。画面に浮かび上がる通知の文字は、既に読んだものだった。触れると、その文字は消えた。どこかのドアが開け放たれている気配がする。いや、閉じた音を聞いたはずだ。トイレのドアを開けて閉じ、自室のドアを開けて閉じた。しかし、ズボンを整えていなかったようだ。足元で丸まっていたそれを引き上げると、右手の小指の付け根に、血がついている。
スマートウォッチがまた振動し、心拍数の急激な上昇についての警告が表示された。経験的には正常な範囲内だ。僕は心電図アプリを呼び出し、リズムがサイナスであることをチェックする。何も問題はない。しかし、このように指摘されたのならば、抗不安剤を飲んでもよいかもしれない。僕は枕元のピルケースへと手を伸ばし、その透明なケースを開け、ジアゼパムの錠剤を喉の奥へと送り込んだ。効果が現れるまでの時間を想定し、気分が和らぐのを待つ。
蒲団にうつぶせになったまま、僕はまた首を曲げて全身を硬直させた。そのまま首だけを勢いよく左右に振ってみる。しかし、まだ何か落ち着かない。こんどは右手で左手首を強く掴み、締め付け、左手の指を開いては閉じる動作を反復してみる。しだいに圧迫された血管が太くなっていく。敷蒲団に置いたスマートフォンであれば、左手のみで書くことができる。もっと早くこの指を動かすべきだ。静脈が浮き上がった手の甲を見ると安心する。スマートウォッチの騒音計は、ずっと90デシベル以上の警告域を推移している。そんなに子供たちが興奮するゲームなのだろうか。
先ほど書いたはずの言葉がメモに書かれていない。もう一度同じことを書いている気がする。恐らく文字表現を脳内の一時記憶領域に展開したことを、実際に書きつけたことと混同したのだろう。よくあることだ。このように微細な錯誤についても、分析的に記録しておくべきだ。ジアゼパムの包装ケースの空きは増えている。先ほどは偶数で、今は奇数だ。僕がそれを飲んだのは間違いない。
ジアゼパムを仕舞う前に、ピルケースの中身を全て出して整理しておこう。アリピプラゾールの錠剤が輪ゴムでまとめられている。この薬は医者に強く勧められたが、何も感じないので飲むのを止めてしまった。その横にある青色のアトモキセチンのカプセルは、僕が飲むと陰茎が収縮し勃起障害になる。ひどい経験だった。僕は全く性的な表現が書けなくなり、回復するためには、保険適用外のタダラフィルを入手する必要があった。ピルケースの中には、他にリスペリドンやスルピリドやグアンファシンなどの錠剤が乱雑に積み重なっている。こういった薬は、飲んですぐ効果を感じなければ、放置して余らせてしまう。僕は即効性のある薬をケースの左側に選り分けることにした。先ほどのジアゼパムと、登録制でしか入手できなくなったメチルフェニデートが左端だ。しかし、その黄色い錠剤の数が、やけに少ない。いや、他の薬も減っている気がする。いつのまに飲んだのだろう。
何とか記憶を探るため、静脈の腫れあがった左手の人差し指と中指でピルケースをリズミカルに叩いてみる。首を上下に振りながら、二つの指を可能な限り高速で連打する。すると、目の前に血液が落ちた。触れると、額から血が流れている。どこで打ったのか分からない。何かがおかしい。もう一度、右腕のスマートウォッチに警告が表示される。よくない傾向だ。いや、しかし……どうやらジアゼパムが効いてきたようだ。助かった。このまま、眠ることができそうだ。
◇
初めまして。突然のご挨拶、失礼いたします。私はこの文章の筆者の妻です。去る十二月八日、夫は倒れ、現在も昏睡状態で入院しております。
これは、夫が当サイトに下書きとして保存していた草稿です。夫はこれまで、この場で作品を発表し、皆様と交流していました。この草稿を彼のアカウント名で投稿するとともに、妻としての言葉を言い添えることをお許しください。
今年は大変な年でした。私たち家族にとって、苦しみの日々でした。夫は今年に入ってから、小説投稿サイトに熱中し、家族との時間を放棄しました。部屋にこもり、食事も伴にせず、まだ幼い子供たちの学校行事にも参加せず、彼らが遊び相手を求めて執筆の邪魔をすれば激昂して怒鳴りました。そのうちに夫は、限られた時間で作品を仕上げるため、薬物に頼るようになりました。もともと担当医から勧められていた抗精神病薬を無視し、複数の医療機関を巡って様々な薬を入手し、秋からは、メチルフェニデートを――その徐放剤を粉砕した状態で――常用するようになったのです。その服用量が増えるとともに、彼の人格は攻撃性を増していきました。私も、子供たちも、声を出しただけで何度も殴られました。彼がこのサイトでの付き合いのために短文投稿サービスで冗談を書き、弱々しくも楽しげな人格を演じているとき、私の子供たちは、泣き叫び、助けを求めていました。
夫は、倒れる前、自宅マンションのトイレで突然叫びはじめました。ドアを殴って暴れだし、それを止めようとして突き飛ばされた長男は、七針を縫う怪我を負いました。私は長男のために救急車を呼びましたが、夫は私たちの悲鳴に気が付くこともなく、イヤホンで耳を塞ぎ、ただスマートフォンに何かを書き続けているだけでした。そして、夫は下半身を露出したまま放心状態で自室に戻り、床に自分の頭を何度も打ちつけ、繰り返し怒声を発するようになりました。私は彼に薬を飲むように懇願しましたが、彼が私の首を締めて反抗したため、私はその部屋から逃げました。彼はその後、ピルケースの中の薬を全て取り出し、何十錠も順番に飲み込んだようです。私が部屋に戻った時、彼は意識を失っていました。
誓って、見殺しにはしていません。夫は到着した救急車に搬送され、胃洗浄と人工呼吸器による救命措置を
この文章は、その時に彼が書き続けていたものです。警察の捜査に協力するため、私は彼がトイレで何を考えていたのかについて読む必要がありました。その客観的な記録の中に、私は、どこにもいませんでした。そして、今も彼を気遣い続けてくれている優しい子供たちは、ただの騒音として描かれていました。
夫のPCからは、他にもひどい文章がたくさん見つかっています。私たち家族や彼の交友関係についての記述は、私から見れば、どれも、おぞましい虚構でした。それらをここに公開したくはありません。本当のことなど、書くものではない。この投稿サイトの皆様は、そうやって遊んでおられるのでしょう。
私は、皆様の交流を妨害するつもりはありません。この言葉が信じてもらえるとも思いません――夫が刑事告訴されることはなく、今後、私たち家族の問題が明るみに出ることはないはずです。ただ、お願いです。これ以上、夫のことを話題にしないでください。私はもう彼に、創作活動をしてほしくはありません。
どうか、私たちに、静かな日々を送らせてください。
声を封じる B3QP @B3QP
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