もしも(し)、あの

長尾たぐい

 お願いだから、夜の間は玄関の鍵をちゃんとかけておいてね。

 母の言葉通りに、ネオはアパートの鍵を掛ける。昼間の陽射しでぬるめられたドアの取っ手を引っ張り、鍵がしっかりかかっていることを外側から確認する。これで言いつけは破っていない、とばかりにネオはコンクリート敷きの廊下や鉄骨造りの階段を堂々と渡り、ぽつぽつと街灯に照らされた道へ出る。それを咎める者はいない。ネオはひとり、ぬるい初夏の夜気をかき分けて歩いていく。


   ☎


 ネオが「夜遊び」を始めたのはこの春、中学にあがって少し経ったころのことだった。

 母ひとり、子ひとりの家で育ったネオが「しっかりした子ども」としての振る舞いを身に付けたのは、保育園の年長の頃だった。小学校で教諭たちは「ネオさんはしっかり者だから」と安心しきった顔でよく口にした。学童で様々な学年の子どもが「ネオくんは頼りになるね」と言った。ネオはいつも何かを持て余している子の話を聞いてやったり、なじめない子を上手く仲間にいれたりしていた。

 無理はしていない。けれど、自然にやっているわけではない。母はそれを知っている、とネオは察している。それでも、そんな息子をありがたいと思ってしまう母親の苦労や忙しさを汲み取ってしまう子ども、それがネオだった。

 ネオは中学にあがっても、今までと同じような生活を続けた。変わったのは、学童に通う代わりに部活をやって(ネオは試合も朝練も休日練もない、身体を動かす習慣を身に着けるための「体育部」に入った)、自宅でひとりで過ごす時間が増えたことくらいだった。ネオはその生活に不満も不安も持たなかった。

 いつもごめんね。

 そのころから、母がそう謝る回数が増えた。徐々に、母の言葉は一度言われると長くネオの心に引っかかるようになった。ネオが住む1Kのアパートは、彼が小学生の頃からだんだんとできる家事を増やしていった結果、生活感が漂っていても清潔な部屋だというのに、ネオは心の中のそれを片づける術を知らなかった。

――これが反抗期、っていうやつなのかな。

 違和感と違和感がくっついて塊となって心の中をごろごろと転がり、ざらついたちりを吐き出すようになってから、ネオはようやく自分の中にある感情を「苛立いらだち」だと認識した。

――母さんに迷惑かけたくない。

 ネオはそれを周囲にぶちまけてしまわないように、どうにかしようと思った。

 その時に思い出したのが、近所にある廃病院だった。

 ネオはアパートを出てから緩い坂をしばらく登り、それから今度はすこしだけ坂を下って、道を一本入ったところにある建物の前で足を止めた。ガラスに目張りがされた玄関を素通りして、建物の角を曲がり裏手に進む。建物の裏にくっつくようにプレハブ小屋がある。ここの窓にも目張りがしてある。ネオはポケットから鍵を取り出して、そのプレハブの引き戸の鍵穴に差し込んだ。

 チキリ、と低い音を立てて鍵が開く。


 ここはかつて耳鼻科だった。ネオが保育園に通っていた頃は、おじいさんの院長先生がまだ診察をしていた。ネオもなんどか中耳炎や蓄膿ちくのう症の治療のために訪れた記憶がある。ネオが小学校の低学年になるころ、その院長先生が引退することになった。院長先生の息子と娘は両方とも医者だったけれど、どちらもこの病院を継がずに廃業することになったという。そして建物だけがここにそのまま残った。

 ネオは小五の頃に近所の同級生たち数人と、中に忍び込めないか敷地をうろついたことがある。まだその時、窓に目張りはされていなかった。病院がやっていたころと全く同じように待合室のベージュ色のソファが並んでいるのが、入り口の自動ドアと待合室に入るための自動ドアの間にある小さなスペースに、ピンク色の回転式ダイヤルの公衆電話がそのまま残っているのが外から見えた。

 当然だが、建物の中には入れなかった。誰も本気で入れるとは思っていなかった。敷地の隣が院長先生の家なので、そこから誰かが出てきて怒られるかもしれない、というスリルはネオたちにはあったが、その家も雨戸が閉まったままだった。皆は病院のことなど忘れてしまったかのように、そのあたりに近寄らなくなった。

 でも、ネオは忘れなかった。鍵を拾ったからだ。

 病院の看板が立っていたところ――文字がなくなって、中が光る看板の板と銀色の支柱だけが立っているところ――の下には玉砂利が敷いてあり、ネオたちはその中をじゃりじゃりと掻きまわしてみたのだった。その時は何も出なかった。けれど、皆で家に帰るころ、そこの一角に夕陽を鈍く反射するものがあった。ネオはそれをさっと拾い上げてポケットに入れた。小さな鍵だった。帰宅した後、学習机の引き出しの中、ディズニーランドで買ったお菓子の缶に入れて、蓋を閉めた。

――家出でもしてみようか。

 そう思った時に一番最初に思いついたのは、廃病院とあの鍵のことだった。母親が夜勤で朝まで帰ってこない日の二十一時、ネオは鍵を缶から取り出して病院に向かった。

 ネオの空想に近い想像は現実となって目の前に現れた。

 鍵を裏手のプレハブの扉に差し込むことができた時、ネオは驚きつつ扉を開いた。中は煙草の匂いがしみついていた。

――ここを秘密基地にするのもいいかも。

 そんなことを思いながら、プレハブを見渡した。建物の壁がある側には扉があり、銀色の丸取っ手があった。ネオはそれを回してみた。――扉が開いた。連続する偶然にネオは興奮した。持参した懐中電灯で薬品の匂いのしない病院の中を照らしながら、バックヤード、診察室、中待合、待合室、そして入口へと進んでいった。

 待合室の自動ドアの向こうに、あのピンクの公衆電話が見えた。ネオが銀色の枠に力をかけて押してみると、ドアはずずずと音を立てながら少しずつ動いた。

 謎の達成感を得たネオは、公衆電話の受話器を持ち上げて「もしもし、あの」と口にした。

「誰か聞こえますか?」

 僕、いま、不法侵入が成功したんですけど。誰ともなく虚空に向かって話しかけるつもりで、一度閉じた唇を開いたその時だった。

「もしもし、聞こえてますよ」

 声が聞こえた。ざらついた低い女の人の声だった。

「えっと、僕」

 ウソだろ、という気持ちとは裏腹にネオの口は勝手に動いた。

「いま、病院に、不法侵入しちゃったんですけど」

「この番号、岸耳鼻科のピンク公衆電話だね。ヤバいことやってるね、少年」

 電話の向こうで女の人はおかしくてたまらないというように笑った。それがレトロとの出会いだった。


   ☎


 ネオはいつものようにプレハブを経由して建物の中に入り、暗闇の中を歩いて公衆電話の元へ向かう。明かりは必要ないかもしれない、と思う程度には中の造りに詳しくなっていた。

 ネオは動かない自動ドアを押し開けて、待合室から小さなベージュの箱型ソファをひとつ公衆電話の脇まで運ぶ。それから、卓上に置けるハンディファンを公衆電話が載った台の隅に置いてスイッチをつける。これで準備は整った。

 そして受話器を持ち上げて、何の音もしないその先に呼びかける。

「もしもし。聞こえますか?」

「——聞こえてるよ。こんばんは、ネオ」

 短い沈黙の後、レトロが電話に出た。

「こんばんは、レトロ。今日は水曜日なのに出るの早いね」

「塾の最後のコマの先生が病気だとかでなくなった。から、早く家に帰ってきてて、電話を近くに置いて勉強してた」

「ラッキー?」

 いや、その先生は好きだからアンラッキーかな、とレトロが答える。

 レトロ、というのは彼女の本名ではない。

 初めて不法侵入した日、電話が繋がってしまったことに気が動転したネオは「やばいね、少年」という声にムキになって「ネオです。ね――」とフルネームを口にしかけて、「いやいやいや」と電話の相手に遮られたのだった。

「少年、何者か知らない相手に本名を名乗るものじゃない。最近は学校でそう習うだろ?」

 え、あ、はい、としどろもどろになりながらネオは返事した。

「ネオ、が苗字なのか名前なのかあたしは詮索せんさくしない。あ、詮索っていうのは――」

「むやみに探ったりしないってことですよね」

 相手はおお、意外と賢いと笑った。ネオは少しムッとしながら言葉を続けた。

「僕も、あなたが何者かセンサクしません。でも、どうしてだか分からないけれど、電話が繋がったのなら、ちょっと話がしたいです。いいですか?」

「なるほど。あたしも何がどうしてこんなことになったか分からないけど、面白いから、いいよ」

 相手はワクワクした声色でそう答えて「じゃあ」と言った後に少し合間を置いてからこう言った。

「あたしのことは『レトロ』って呼んで。高校二年生。君は? 声変わり前の少年くん」

――だから最初から「少年」ってタメ口で言ったんだな。

 ネオは納得しながら答えた。「ピカピカの中学一年生です」

 それからネオは母親が夜勤のたび、二十一時を迎える頃に家を抜け出して廃病院に侵入し、レトロが電話に出れば彼女と会話をして、そうでなければ懐中電灯の明かりを使って本を読んで時間を過ごした。そして、一時間もすれば必ず家に帰るようにしていた。

 今日はレトロが塾に通っているという曜日だったから、本を読むことになるだろうとネオは思っていた。

――今日はラッキーな日だ。

 ネオはピンクの電話コードを指に巻きつけては、ほどけ落ちるのを繰り返し眺めた。そしてレトロの言葉を頭の中で反芻する。ソノ・センセイ・ハ・スキ・ダカラ。

「塾の先生が好きなんてヘンだよ」

「そう? 授業はハキハキ進めてくれるし、合間に自分がアメリカに留学してた時の話とかしてくれて、それが面白いから好きだよ」

――好きだよ、の声がいつだったかの「ポテチだとのり塩が好きだよ」の言い方とそっくりだ。

 ネオが頭で再生したレトロの声に、それに今のレトロの声が重なる。

「その先生、ギターも弾けるし。カッコいいよね。テイラー・スイフトとかジャスティン・ビーバーの歌を弾き語りしてくれる」

 あ、テイラーとかジャスティンとか分かる? とレトロが尋ねる。英語の授業で先生がYouTube流して見せてくれたから知ってる、テイラーはシェキオ、シェキオで、ジャスティンはソォリィーってやつ、とネオが返すと、レトロはなんじゃそりゃと電話の向こうでゲラゲラと笑う。そのせいで、その塾の先生って男? 女? と尋ねるタイミングをネオは逃した。

「ネオはいま英語でなにやってるの」

「Whatを使った疑問文とか……」

「なるほどね。じゃあ……『ウェラァドゥーユゥナウ?』」

 レトロは外国人のような発音で問いかけてきた。ネオの英語の先生より断然綺麗な声だった。

「アィム、イン、キシ、ホスピトォル、ナウ」

「おしい」

「ええ?」

 回答に自信はあったし、できるだけ綺麗に発音したつもりだったのに何が問題なのかとネオは思った。

「ホスピタルじゃなくてクリニック、の方がいいかな。ホスピタルは西総合病院みたいな、大きな病院のことを指すから」

 レトロは、ホスピタルもクリニックもカタカナのように発音した。クルィニック? とネオが発音すると「アールじゃない、エル。舌を前歯の裏側に軽くつけて『ルッ』。クリィニック」と直された。

 ネオは言われたとおりに舌を前歯の裏辺りにつけて発音をまねる。クリィニック。上顎あたりを舌が掠めた。その感触を払うように、あのさ、とネオは切り出した。

「高校二年生の英語って、どんなことをするの」

「それは学校によるね。あたしの高校はもうそろそろ高校の全部の範囲が終わる。……めんどくさいよ。メイシコウブンとかトゥーフテイシとか」

 レトロはとても勉強ができる。中一のネオですら名前を知っている、県内のトップ校に通っていると言っていた。そして頭の回転も早い。どうして「レトロ」と名乗ることにしたの、と尋ねたネオにレトロは「ネオの相手なら『レトロ』が良いかと思って」とさらりと答えた。「ネオ」には「新しい」という意味がある。だから「古い、さかのぼる」という意味がある「レトロ」を選んだと言った。「どちらもあたしの好きな理科の科目の用語にあるね。元素番号10番のネオン、HIVエイチアイブイに代表されるレトロウイルス」そう言ってレトロはネオの知らない理科の話をした。語り口は面白く、ネオは話に引き込まれた。

 どうしてネオが電話に使っている公衆電話が、この病院のものだと分かるのかもレトロは教えてくれた。

「公衆電話にも普通に電話番号が割り振られてるんだ。岸耳鼻科は混んでいるときに子どもだけが待っていて、終わったら親にかけるってことがよくあった。その時、他の公衆電話からの電話にまぎれないように、院長先生がそのピング公衆電話の電話番号を親に教えてくれてたんだよ。そうすれば番号を登録できて、すぐ分かるだろ? でもイタズラ電話がかかってくるから、すぐ教えるのを止めちゃったみたいだけど」

 レトロがする話はネオの知らないことばかりだった。それにネオが分からないなりに反応すると、レトロは「いい質問だ」「それはちょっと違うな」とすぱんと切れ味よく応えた。

――手加減もお世辞も言わないから、レトロが好きだ。

 この日、レトロは自分が英語の授業でつまづいた部分について、愚痴っぽい口調で説明をしていった。

ifイフの直接法と仮定法の使い分け、いっつもミスるんだよ」

「イフは『もしも』だよね。それが二種類あるの?」

「そう、可能性についての『もしも』と、ありえないことについての『もしも』だとジセイが――動詞の書き方が変わる。『もし私が臆病者であるなら、きみだってそうだ』は『If I am a cowardイフ アィァマ カワァド, you are anotherユゥ ア ナザー 』でamアム

「ありえないことについての方は?」

「『もし私がスーパーマンなら、きみを助けることができるのに』とか。それは『If I were a supermanイフ アィワァ スゥーパマン, I could help youアィ クッ ヘルプ ユゥー』っていうふうに過去形でしかもwereワァを使うんだよ――」

 ネオはレトロの話に相槌を打ち、そして時に質問を返してみたが、英語の文法の内容の半分も理解できなかった。

「あたし、国語や英語の成績があんまり良くないからよく親に怒られるんだけど、ネオに愚痴るようになってから成績が上がったよ」

 レトロのように頭がいい人が親に怒られる、というのはあまり想像がつかなかったが、その言葉はネオは嬉しかった。

――もしも俺がレトロの役に立てるなら、とても嬉しい、は英語でどうやって言えばいいんだろう。

 ネオの上顎の前歯近くに残った舌の感触は、公衆電話周りを元通りにし、家に帰り風呂に入って歯磨きを終えるまで、消えなかった。


 数日後、ネオは「涼しくなるまで、夜、病院には行かない」とレトロに告げた。猛暑日が連続し始める季節に入り、いくら夜とはいえ冷房のない病院にいるのに限界を感じ始めていたからだった。そう言えば、レトロはあっさりと承知するだろうとネオは思っていた。

 ところが、レトロはネオの言葉を聞いて、目には見えないけれども耳ではっきりと理解できるほどにうろたえた。

「そこ、周りの建物の影になるから涼しいんじゃないの?」

「そうだとは思うけど、でも今日ももう結構暑いし。こんなところで倒れたら迷惑……っていうかすごく怒られると思う」

 そう、か。と言ったきり、レトロは長い間沈黙した。ネオは息をひそめたままレトロが明るい声で「そうだね。地球温暖化のせいだ、まったく。日々のお楽しみはしばらくお預けか」という風に言い出すことを、そして分からないなりに、何かのつじつまが合うことを期待した。

「――さすがに普通はお金がキツイよね。中学生が月に何度も一時間近く通話するなんて。ごめん。前言った通りその公衆電話の番号は分かってるから、こっちから電話できる。それでいいなら、また秋からもあたしと話してくれない?」

 声はひどく悲し気だった。

――レトロに会って話がしたい。

 どうして彼女とこうやって話すことができているのか、彼女は本当はどういう存在なのか、実在しているのか、実在しているとして会えるのか。今まで胸の底に薄く漂っていたさまざまな疑問の一切を飛び越えて、ネオはそう思った。

「じゃあ、夏の間にどこかで会おうよ」

 衝動のままにネオはそう言った。一度口にすると、最初からそうすればよかったのにとすら思った。

「いや、いい」

 けれどレトロはその提案を断った。どうして――と言いかけたネオの言葉を遮って、レトロは早口で「九月に入ったら電話、かけるから」と言い、そして「じゃあね、おやすみ」といつも通りの別れの言葉を続けて電話を切った。

 受話器の穴からはこぼれ落ちた無音がネオの首筋を伝う汗の中に溶け込んで、扇風機の音だけが塞がれたガラスの内側を撫でていった。


   ☎


 八月が終わり、九月になっても猛暑日の記録はしばらく続いた。夏が永遠に続くんじゃないかとネオは思った。積み重ねる暑い日々越しに思い出すレトロとのやり取りは、熱で揺らいでその不確かさが増すようだった。

 ネオがふたたび廃病院に行けたのは、結局九月の終わりだった。連続し続けた熱帯夜の記録がようやく途切れたからだった。

 通い慣れた不法侵入経路を進んで、公衆電話の近くにソファを運び入れたところで、いつもの通り受話器を取るのをネオはためらった。

——レトロが出なかったらどうしよう。

 座っていたソファにパタン、身体を横倒しして合皮のカバーに左頬をつけ、ネオは大きく息を吸った。カビと経年劣化による濁った臭いが鼻の中を満たす。

——出たとして、きっとと思っているレトロになんて言えばいいんだろう。

 ネオは仰向けに寝転び直した。蜘蛛の巣も分厚くつもったホコリもこの小さなスペースには見当たらない。

 じりりりりりん!

 公衆電話がけたたましい音を立てた。まったく今らしくない、古い電話の音だった。電話のぬしはひとりしかいない。分かっていてもネオは緊張しつつ受話器を持ち上げた。

「――こんばんは、ネオ」

 レトロは「ひさしぶり」とは言わなかった。だから、ネオは「ひさしぶり」も「待たせてごめん」も言わないことにした。けれど、妙に乾いた口から挨拶を切り出すのには時間がかかった。

「――……こんばんは、レトロ」

 レトロは、今までにないほど明るい声で「ネオに聞きたいことがあるんだけどさ」と話を切り出した。

「いま、西暦の何年?」

「……二〇二四年」

 はは、なるほどね、とレトロは心底困ったというように笑う。

「今のネオが生きているのは、今のあたしの生きてるところから十年後か」

 思ったより遠くなかったや、と言うレトロはどこかすがすがしそうだった。

「ネオはいつ気づいたの? あたしたちがって」

「レトロが公衆電話のお金の話をした時にそうなんじゃないかって……。でも、おかしいとは最初から思ってた。だって、何年か前に岸耳鼻科は閉じてしまって、今ここは廃墟だから。……そもそも電話が通じるはずなんてなかったから」

「あたしのこと、幽霊とかまぼろしだとか思ってた?」

「うん」

 ネオがそう言うと、「実はあたしもそう思ってた。こう、結構ストレスの溜まる家だからさ、ウチ」とレトロは笑った。そう、あたしはさ、とレトロは少し笑いをこらえるようにして話を続けた。

「最近、テイラー・スウィフトがリリースした楽曲で『シェキオ』って歌ってるので気づいた。いつだったか、ネオが歌ってみせてくれた時に、そんな曲はないよ、どんな音痴だこの子、と思ってたけど……あれは、あの時のあたしの知らない、でも正真正銘テイラーの曲だったんだ」

「じゃあ、ジャスティン・ビーバーの『ソォリィー』もはまだ?」

「たぶんそうだね。……ネオがものすごい音痴じゃなければ」

「俺、音楽の成績は5だよ」

「それは失礼」

 ハハハ、というレトロの笑い声が電話線ではないものを伝ってネオの鼓膜を揺らし、胸のあたりをむずがゆくさせた。

 そうしてネオとレトロは電話越しに笑いあった。

「これは、可能性についての『もしも』じゃなくて、ありえないことについての『もしも』だったんだな」

 笑うのを止めたレトロがそう言った。笑いすぎたせいか、声が少し滲んでいるようにネオには思えた。

「前にしてた英語の話だ」

「うん、そう。……そう」

 そう呟く声は先ほどより沈んでいた。

――ぜんぜんレトロらしくない。……でも、これもレトロなんだって、そう思う。

 夏の始まりの頃に「しばらく電話はできない」と告げたあの時、ネオは気が付いた。

 ネオにとってレトロは物知りで、はっきりした性格の、四つも年上のお姉さんだった。イライラをぶちまけない代わりに、はっきりいうと犯罪行為をしているネオとは違う、大人にずっと近い人。

――そうだけど、そうじゃない。

 得体のしれない、夜の公衆電話からかかってくる電話がなくなると、とても、とても動揺してしまうような人。そんな不確かなものを必要としている人だった。

「あのさ、ネオ」

「なに」

 それでも、ネオの知るレトロなら、未来と電話ができていると分かった今、何と言い出すのかの想像はついた。

「もう、電話はやめよう」

「うん」

「このまま電話を続けたら、あたしはネオから未来のことを聞き出して、なにか自分の得になるようなことをしようとするかもしれない」

「うん」

 あいづちには肯定の言葉を使ったけれど、ネオは彼女がそんな人ではないとネオは思っている。それでも彼女がこの電話を良しとしないことも。

「そんな可能性があることを、あたしは続けたくない」

「うん」

「ごめん」

「ううん。……レトロ、あのさ――」

 ネオの言葉に、レトロは一瞬黙って「ありがとう」とかすれた声で応えた。

 それから、ネオが夜に家を抜け出すことはなくなった。


   ☎


 十一月に入ると、秋を忘れた季節は冬の顔を見せるようになった。

 ネオは月の頭から鼻詰まりが続いていた。そのうち治るだろう、という我慢はひと月も続けば限界を迎えた。

 病院に行きたい、と切り出すと、母は自転車で十五分ほどの距離にある耳鼻科の場所をネオに教えた。

「ひとりで行ける?」

「うん、大丈夫」

「ごめんね」

「……いいよ。大丈夫だから」

――俺、イライラを隠すのが、だんだん下手になってきた。

 そんな自分にネオはまた苛立ちを覚え、母の姿が見えないところで深呼吸をした。

――イライラして、不安で、でもみんなそうやって大人になるんだ。俺はそれを知っているから、ものすごく大きな「いけないこと」はあれっきりだ。絶対したりしない。

 ネオはその日、学校が終わって一度自宅に帰ったあと、自転車を漕いでひとりでその耳鼻科に向かった。

 耳鼻科は白っぽい新しい建物で、廃墟なのにあまり汚くはないと思っていた岸病院の建物と比べると、その新しさが際立っているようにネオには見えた。待合室のソファの色は薄緑色で、弾力があった。

根岸ねぎし――寧生ねおさん」

 中待合で待っていると、診察室の中から名前を呼ばれた。頭に薄型のヘッドライトのようなものを、口にはマスクをつけた若い女性の先生と目が合った。

 マスク越しのくぐもった声に、ネオは聞き覚えがあった。

「……はじめまして。さて、鼻づまりが長く続いてる、と」

 ちょっと鼻と喉を見せてね、と先生はネオに言う。近くに控えていた年配の看護師が「頭を後ろの椅子の頭にくっつけて」と言った。

 ネオは目を閉じた。平たくて棒によって舌を軽く押さえられ、喉の奥を覗き込まれ、鼻の穴に器具を突っ込まれて霧状の液体が吹き付けられた。

「なるほどね」

 その言い方をネオはこの寒さが訪れる少し前までに、何度も耳にしたというのに、懐かしさで薬臭い液体の張り付いた鼻の奥がツンと痛んだ。

「いきなり寒くなって、喉や鼻がやられやすい時期だからね。なるべく冷やさないように気をつけて。あとは部屋の湿度を上げ——」

 先生が手元のパソコンの画面から顔をこちらに向けた時、すみません! と先生の背後に若い看護師が現れて手招きをした。ネオの脇にいた看護師が「先生、少し抜けます」といって小走りに診察室の奥に向かい、そのまま姿を消した。

 部屋の中にはふたりだけになった。

「——加湿器とかで湿度を保つようにしてね。……注意点はそんな感じ。何か質問はありますか?」

 ネオはありません、と言おうとして、ためらって、いちど唾を飲み込んで、それからひとつ質問を口にした。

「『もしも、俺がレトロの役に立てたのなら、俺はとても嬉しい』って、英語でどう言えばいいか分かりますか」

 あの時最後にレトロに伝えた言葉を、ネオは今も胸の内の隅に抱えていた。

 先生は黒縁メガネの下に手をやって、目頭を押さえてほんの少し俯きながら苦笑した。きれいなピンク色をしたマスクの口元がわずかに動く。ネオの頭の中で、イフ、という音が先んじて響く。

 診察室から離れたどこか別の場所で、トゥルルルル、と電話の音が鳴った。


〈了〉

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