島から島へ 1
二年前、クラベル帝国委任統治領、アーヌエヌエ王国女王ハシンタが
ハシンタの額の中心には、虹いろの角があった。透きとおった、鉱質の円錐形の角で、母系で受け継がれる王の形質である。彼女の先代は彼女の伯母だったが、死去のとき、伯母の額から角が落ちた。その翌日、ハシンタが目覚めると、自分の額から角が生えていたのだった。王国で最大のマナをさししめすのが、虹いろの角だった。
イネスはハシンタ女王落角の報を、普段通り王宮の尚書室に出勤して知った。
前日の夕方、執政殿から寝殿に向かう女王の影を、奴隷が踏んだ、という。常ならば、女王は日が落ちてからでなければ出歩かない。アリイにある者は、地面に落ちた影を通してマナが流れ出す。流れ出したマナは、マナを持たぬ者を殺す力がある。だから座す場所も寝起きする場所も高床でなければならず、寝殿と執政殿の移動も、未明と日没後に限られた。
ところが、数ヶ月患っていた女王の母親が、とうとう危ないという報を受け取って、女王は執政殿を出た。王宮のなかを行き交うひとびとは、女王を示すおおきな椰子葉の傘を見れば、距離を取って平伏する。その猶予を与えるために、女王の歩みはゆっくりとしている。ハシンタは焦りながら、からだに染み着いた歩き方を変えることもできず、玉砂利の道を歩く。日向側に先行する、椰子葉の日傘をさしかけた侍女も、彼女も、日陰側にいるひとりの奴隷を気にも止めない。
かれは王宮の下働きをする奴隷だったが、玉砂利を鳴らす物音に気づき、うつ伏せていた視線を上げた。鎌首をもたげた蛇が、女王に向かっている。
夕暮れどきで、影は長かった。奴隷は毒蛇を踏みつぶすためにとっさに影を踏み、毒蛇はかれを噛み、女王はマナを失った上、母親の死に立ち会えなかった。
寝殿で女王の母に付き添っていた、ハシンタの妹が、すぐさまアリイを継いだ。
王母の葬儀、新女王の即位礼のあいだ、ハシンタは抜け殻のようだった。額の中心はもはや虹いろではなく、黒い痣のようになっている。
女王の代替わりと王母死去の報を聞いたクラベル帝国皇帝サカリアスは、弔意と祝賀の書状を寄越し、そのなかで、ハシンタにクラベル帝都に来ることを命じた。
父として、そなたの行く末を案じている……――
白々しい文言を読み上げたのは、アーヌエヌエ総督府次官のノエである。クラベル帝国出先の植民地統治機関で長年勤め、見習いの少年のころからアーヌエヌエ王宮に出入りしていた青年は、皇帝の私的な文書を預かる身になっていた。黒髪に灰色の目。南洋の太陽に灼かれ、白い肌にそばかすが散っている。
イネスがクラベル語をアーヌエヌエ語に訳す。ハシンタはしかし、クラベル語を解する。王族はアーヌエヌエ語以外を聞き取り、話してはならないというのが、王宮の不文律だった。ことばはマナと関係があるという。
皇帝を父と思ったことはない。
ハシンタが籐の椅子からつよく言い放つ。伝統的な衣服ではなく、ホロクーと呼ばれる、前身頃が胸の上で切り替えられたゆったりとしたワンピース、しかし裸足である。豊かな巻き毛は下ろされ、肩を覆っている。そのあいだから、目ばかりが炯々と光っている。
しかしあなたは皇帝の血を引き、クラベル帝国の法では、皇女には皇帝の命令を遂行する義務がある。
ノエもまた、アーヌエヌエ語を解しながらもクラベル語で言った。
イネスが訳そうと口を開いたのを、ハシンタが止めた。
わたしにはもうマナがなく、この国では役立たず、いや、禁忌に触れた汚穢の女だ。帝都へ行ってもなんの駒にもならない。
アーヌエヌエ語。
しかし皇女であられる。王位にないのだから、降嫁するさきを見繕うことができます。
クラベル語。
は!
ハシンタは哄笑した。
わたしはもう三十二だぞ。それにクラベル人には受け入れがたいことに、すでに七回結婚している。
クラベル帝国の法では正式な結婚とは言えません。御子もおられない。
わたしがアリイに在ったからだ。結婚も、子がないことも、この国では正式に認められていた。そなたは何年この国にいても、われわれを侮辱することをやめないな。
ノエは灰色のひややかな目で見返した。
サカリアスさまの御前でも同じことをおっしゃいますか。
無論言わぬ。喉元に刺突剣を突きつけられていれば。あの男と血のつながりがあるというのはそういうことだ。母上も――……ああ、母上……――
ハシンタは唇を震わせ、はらはらと涙をこぼした。イネスは彼女のもとにひざまずき、彼女の手に触れる。
ハシンタの母は、後半生、皇帝に肌を許したことを責められ続けた。王族にありながら、軽々しく植民地総督であった皇子を誘惑し、娘を――息子ではなく――儲けたことを。そのときサカリアスは十八歳の末息子に過ぎず、列強にとっては大した資源もない、王制が整っていて御しにくいアーヌエヌエに左遷されたに過ぎなかったとしても。アーヌエヌエの婚姻制度は、クラベル人にとっては理解しがたいほどゆるやかで、少女であった彼女にとって、その恋は乾季の朝靄のようにはかなく、すぐに上塗りされるものに過ぎなかったとしても。
アリイを予期し、女王となるべく育てられたハシンタは、鏡に映る自分の顔を憎んだ。侵略者のおもざしがある。母は自分の顔を見て、悲しげな目をする。臣下も総督府も、クラベル帝国がアーヌエヌエ王国に残した烙印として、ハシンタの顔を見る。すすんでからだに刺青を入れ、成人したアーヌエヌエの女として生きても、通った鼻筋やうすい色合いの肌をむしり取りたい欲求に駆られた。ハシンタの顔立ち、体型、髪を誉め、求愛してきた男たちを、彼女は侮蔑した。
次期女王としての勉学に取り組む際、三つ年下の補佐として付けられたのがコホラーのイネスだ。コホラーとは群島域を拠点に活動する商人の集団で、クレオールと呼ばれる混合語を話す。特定の民族集団を基盤にするのではなく、海域と商人としての慣習で自らを定義する。列強の血、商人の血、奴隷の血が身の裡で脈打ち、機知と狡知、果断と紐帯を美徳とする。アーヌエヌエとは定期的に貢納と饗応で結ばれている。その貢物のひとつとして
十九歳のとき、父帝ははハシンタに帝都遊学を命じた。イネスは喜んでそれについていき、驚く周囲に構わず、帝都の大学にも通った。
イネスは縮れた黒髪と褐色の肌を持ち、アーモンド形の目に、はっきりとした鼻筋、きりりとした唇をしていた。ひとめでたくさんの種類の血を引いているとわかる。眼鏡をかけ、テーラードドレスを着て、あらゆる言語の書物を読み、帝国の文官をうならせる文章で公文書を発給した。それはハシンタにとって救いだった。彼女はアーヌエヌエにとっての外国人なので、ハシンタのマナにも頓着せず、気安く彼女に触れ、彼女を支えた。
遊学は伯母の死により、五年で終わった。そこからの十年足らずが、ハシンタの治世だった。帝国の砂糖プランテーション化にあらがい、侵略者に持ち込まれた伝染病で次々に民を失い、帝国本土からの移民をなすすべなく受け入れ――しかしことばは守り抜いた。
女王は王位にあるあいだ、妊娠することはない。それは虹いろの角の力であるらしく、歴代の女王すべてがそうで、しかし結婚をしてはならないわけではない。そのときどきの恋と利害で、ハシンタは七回夫を持った。母のように子を持つことはないと安堵しながら。
王母は亡くなり、彼女の声は永遠に喪われた。
ハシンタはアーヌエヌエで持っていたもののほとんどを喪い、イネスだけを伴って、帝都に向かった。
父帝との氷のような対面を終え、ハシンタはかれからたくさんのものを奪い取った。
持参金。彼女の人格や体型を尊重したドレスを仕立てられるお針子。東洋のうっとりするような絹やモスリン、絨毯。たくさんの書物。紙とインク。
かわりに、皇帝は嫁ぎ先にノエを同伴させること、帝国の統治が行き渡るよう協力することを提示した。
血のつながったふたりの政治家の会談の結果、ハシンタは宮廷晩餐会でお披露目されることになった。立ち襟が花弁のように広がる、金糸とアップリケでレースフラワーを立体的に全面に刺繍した、黒のヴェルヴェットのイブニングコートで馬車から現れ、ホールのひとびとの目を釘付けにする。巻き毛は高く結われ、真珠と金のちいさな花々の髪飾りをあちこちに留めている。
腰簑で来ると思っていたのだろうな。
ハシンタは深い紅に塗った唇でうすく笑った。イネスはそのやや後ろを、型の古い地味な出で立ちで付き従った。クロークで廃女王は女官にコートを脱がされ、白金のサテンのドレスが現れる。深い襟刳りにちいさな袖。褐色のつややかな肌、背や腕に刺青の入ったからだをおおきく露出し、真珠母のように輝く生地は、からだの線に自然に沿っている。最新流行の、ローウェストの切り替え、直線的なスカートのラインと、複雑な襞をつくる裾周りのシフォン。豊かに張り出す胸と腰まわりの下には、真珠と金のビーズで、したたり落ちる無数の雫形の刺繍が施されている。その陰影が、彼女の輝きと悲しみの深さをかたどる。イネスから皇女のティアラを受け取り、無造作に自分で頭に載せる。
久しぶりだな、ハシンタ。ずいぶん
応接室でまっさきに声をかけたのは皇帝の長男であるウリセスである。分厚い胸板の漆黒の軍服に、たくさんの勲章が輝く。燃えるように赤い髪に金の瞳、陸軍大将であり、赤熊のように毛むくじゃらでがっしりしている。優美に身をかがめ、ハシンタの手を取って口づけする。
おまえが縮んだのではないか。
帝国の行事はすべて男女一対が構成単位で、独身者も適切な一時的パートナーがあてがわれる。この取り合わせには、当然、主催者である皇帝のあからさまな意図が示されている。
異母姉であるライオンに対し赤熊は苦笑いした。
ほかの男では釣り合わないんだ、我慢しろ。
長い遠洋航海に耐えるため、アーヌエヌエ人は大柄で大食だった。ハシンタも例外ではない。それでも即位前帝国にいたころは、環境が合わなかったこともあり、彼女はほっそりとしてはかなげだった。帝国の美女の条件のうち、背の高さと弱々しさを外見だけは満たしていたので、植民地の次期女王というカードとそれらにつられて彼女によってきた男たちを、彼女はえり好みした。
遊学に来ていたころはよく虫を引きつけていたのに……。
ウリセスはささやいた。ハシンタは片眉を上げ、
そういう虫は適当に食い散らかした。
しれっとささやき返した。
ほんとうに結婚が必要なときになったらだいぶおおきくなってしまったな。
うるさい。必要なのはわたしではない。
ウリセスは肩をすくめた。
そうだな、父上だな、必要なのは。
ふたりは腕を組み、シャンデリアの下がる大階段から大広間へ入っていく。正面奥に皇帝の席がある。白いクロスの掛けられた巨大な長方形のテーブルが、あたかも大平原のように広く空間を占めている。その真ん中には、煌々と燃える燭台に銀器や陶磁器、花や果物が飾り付けられている。ここに、行儀よく帝国の貴顕が並んで食事を摂る。
若い女でないことは幸いなことだ。
ハシンタは食前酒のブランデーをがぶがぶ飲み、スープを二種類おかわりし、鱒のパテもカツレツもマトンの煮込みも雉肉も食べ、リンゴのパイもプディングもチョコレートムースもワインのシャーベットもブドウも梨もナッツも食べ、赤ワインとシェリーの杯を重ねた。ウリセスと陸軍の兵站と携行食について論を戦わせ、隣の海軍大臣とは航海術について、星について、南洋の潮流について話し合い、向かいの植物画家でもある公爵老嬢にはアーヌエヌエの羊歯植物について、虹がよくかかる深い森について話した。
ラーヴン ゴーム ビオニフテ──蜘蛛の島風声── 鹿紙 路 @michishikagami
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