ラーヴン ゴーム ビオニフテ──蜘蛛の島風声──

鹿紙 路

祝福された青い手

 夏の永い午後、夢みるように明るんだ屋上に椅子とテーブルを並べ、召使の女たちがかちゃかちゃとボビンを動かす。目にも留まらぬ速さで、極細の白い亜麻糸が織り上げられていく。

 それでね、アンナったらこう言うのよ……――

 やだ、明日にはあのひとすごく落ち込んでるわよ、どうするの。

 ニシン漁の季節には、編み針を三本腰に差して……

 やっぱり刺繍、それもスパンコール付きの。

 赤と青どっちがいいかな?

 ののさまがずっとおわすだろ、それに加えて腹が減ってくるし、ネズミは走り、パフィンは鳴く……

 てんでばらばらの話題を口々にのぼらせ、急にどっと笑い出すこともあれば、口笛や歌を合わせることもある。それでいて、手、両手、腕、指先は、目まぐるしく動き、無数のピンを刺したクッションの上に、たちまちボビンが行き交い、複雑なレースが織り上がっていく。

 梯子をのぼって屋上に顔を出したイネスは、そのさまを見て目を丸くした。手と口が完全に別の動きをしていて、それぞれが非常に複雑な紋様を織りなす。女たちはこちらに気づいていない。イネスは下を向き、階下からこちらを見上げるハシンタに人差し指を口に立てて合図した。ハシンタはほほえみ、イネスに上るよう手で伝える。イネスは屋上にそっと這い出し、大柄のハシンタの腕をつかんで彼女を助け上げた。石の床に座り、低い位置から女たちを眺める。夏のほんの一瞬吹くあたたかい風が、白んだ風景を撫で過ぎる。

 子どものころに戻ったようで、イネスの口元がゆるむ。大人たちの手仕事、途方もない手間と時間と労のかかる永い永い人生という手仕事を、彼女たちは笑いさざめきながら、驚異的な頭脳と手先で目まぐるしくこなしていく。その根気。ねばりづよさ。しなやかさ。それらに対する畏敬の思いが、あたたかい風のように胸を吹き抜ける。

 彼女たちの手は、みな青い。

 ラーヴン ゴーム ビオニフテ――「祝福された青い手」と呼ばれる、この島の民独特の手だ。生まれたときから、両手と腕の肌の一部に、青い紋様が入っているひとびと。その手は、島の固有種の羊の、首もとのもっともやわらかな毛を摘み取り、極細の毛糸を紡ぎ、棒針で緻密に編まれる、指輪に通るほどうすいショールをつくりだす。あるいは寒風に耐え、いのちを支える綱を舫い、漁網を引き上げ、たくさんのタラをもたらす。皮を剥ぎ、内臓を取り、干し並べて、塩樽に入れる。石を割り、垣に重ね、そのなかに羊の群れを追い込む。泥炭を掘り出し、家々の脇に積む。赤子の頬を撫で、老人の肩を支える。こまやかで強靱な青い手。

 ハシンタと目を見合わせる。彼女はのどやかな目をして、唇に笑みをのせ、青い手のひらめくのを見ている。かつて南洋で女王としてあまたの民をひれ伏させた女は、この島で、だれにも気にされず存在することを楽しんでいる。

 イネスは、女たちのおしゃべりから、わずかに距離を置いて座るひとりに目を引かれる。午後用のまっしろなキャップと、カフスとカラーには、彼女手製のレースがあしらわれている。ほっそりとした、中背の女だ。黒いお仕着せの長袖は、彼女が手を濡らさない部屋付の召使であることを示している。目を伏せ、口は動かさず、手がだれよりもはやくボビンを動かす。

 彼女の手元のレースは細かすぎて、この距離ではまったくほかと判別できないが、どことなく見覚えがある気がして、イネスはそっと近づいた。

 あら、イネスさま!

 めざといひとりに声をかけられ、そのまま周囲がふたりに気づく。慌てて立ち上がろうとする女たちに、

 そのままでいよ。

 ハシンタは鷹揚に言う。

 そなたたちの仕事を見に来たのだ。

 その騒ぎも、わずかに離れて座る彼女はまったく聞こえていないようで、目を上げず、手も止めない。

 イネスは彼女の手元をのぞき込む。

 ……婚礼のヴェールに似ている。

 そのつぶやきに、女たちが歓声を上げる。

 やっぱりおわかりになるのね! ロスウェンの仕事はすばらしいでしょう。わたしたちのなかで、いちばんレースが得意なの。

 ハシンタも近づく。

 わたしのためにヴェールを織ったのは、この者か。

 そうです。ロスウェン! ……ロスウェン!

 隣の女に肩を触れられ、黒い服の部屋付召使ははっと目を上げる。その青いひとみはまっすぐにイネスをとらえ、そのあとハシンタに向けられ、彼女は動揺してレース用のクッションを置き、ひざまずく。

 ご無礼を……!

 謝るな! わたしたちが勝手に来たのだ。

 ハシンタが笑って言う。

 イネスがロスウェンの肘を取り、助け起こす。ロスウェンはびくりと震え、イネスを食い入るように見つめて、やがて頬を真っ赤に染める。

 そなたがわたしの婚礼のヴェールを織ったのか?

 ハシンタに訊かれ、

 ……はい。

 ロスウェンはうつむき、ぼそぼそと言う。

 ハシンタはロスウェンの両手を取る。

 とてもうつくしいヴェールだ。その贈り物を見て、わたしはこの国に来ることを決めた。このように、手仕事をたいせつにしている国であるなら、わたしは自由に息ができると思ったのだ。織ってくれてありがとう。

 ロスウェンはぽかんとハシンタを見つめ、

 そうですか……うれしいです……。

 頬の熱のなごりを持ったまま、はにかむ。

 ヴェールを織るのに、どれくらいの期間がかかったのだ?

 ……三ヶ月ほどです。ほかの仕事はみな、ほかの方に代わっていただいて。

 そんなに!

 ハシンタとイネスは驚いて顔を見合わせる。

 女たちは、

 わたしだったら一年はかかっているような仕事ですよ!

 王さまが、ロスウェンにおんみずから頼まれて、特急で仕上げたんです。

 分担して仕上げるやり方もあるんですけど、ロスウェンの仕事だけ浮いてしまうから、彼女ひとりに任されたんです。

 口々に言う。

 そうか……。

 ハシンタは、自分の握っているロスウェンの手を見る。手と腕には、精密な青い紋様が入っている。そのうちのいくつかは、ヴェールにもあしらわれた紋様だ。花や幾何学紋様のようなもの。

 ……フィウのものとはまったくちがう紋様だな。

 ええ、血筋によってちがうのです。

 王とその妃のちかしさを示すハシンタのことばに、女たちはきゃっきゃと笑った。ハシンタは自分の顎を撫でる。そこには、生まれつきではなく、自分の地位を示すための刺青が入っている。クラベル帝国の宮廷では、眉をひそめてささやかれたその習俗は、この島ではごく自然なものとして扱われている。手が青かろうが、顎が青墨いろに染められていようが、たいしたちがいではないのだ。ハシンタやイネスの肌が褐色で、この島の王城のひとびとの肌の多くが抜けるように白くても、女性であるハシンタが見上げるような長身でも、たいした問題ではない。

 ハシンタはロスウェンを誉め称え、邪魔をしたことを詫びた。作業を再開するように言い、女たちの手元を見て回る。イネスもそのあとに続いて、屋上を回る。水色の半袖の皿洗い女中もいれば、チーズやクリームをつくる者、洗濯女、掃除婦もいる。それぞれが着ている衣服で判別できる。イネスは城を支える女たちがこんなにさまざまな役割を持っていることに、改めて驚いた。それなのに、みなレースが織れる。その上、たくさん口が回る。ハシンタに自分の作業の説明をしている女も、手は休みなく動いている。彼女たちのレースは、島に来る商人に買われ、生計の足しになるが、城の仕事の上ではいまは休憩時間ということになっている。

 座っていられるし、おしゃべりもできるんだから、休憩時間でしょう。

 掃除婦はけらけらと笑った。

 しかし、この島の産するレースは、貴婦人の髪や衣服を飾り、応接間のテーブルに誇らしげに敷かれる、クラベル帝国一に名高いものだ。人口がすくなく、みな生業の片手間に織るので、大量にはつくれない。それがますます名声を高めた。

 ハシンタはイネスを屋上の隅に呼び、ささやいた。

 工房を開いて、得意な者を集めてレースを専業にさせればよいと思うのだが。

 でもいまはそうなっていないでしょう。めざとい商人ならそういう発想になるはずです。けれど、この島のひとびとはすくなく、口を養うには食料を確保しなければならない。輸入に頼るには、海路が危険すぎる。冬場は月単位で欠航になるし、礁と崖のせいで大型船が近づけない。穀物と羊で最低限の食料を確保するには、ひとりひとりがたくさんの種類の仕事をしなければならないのでしょう。王城の者たちも、毎日数時間港の仕事や畑の仕事をしてここに勤めに来ている。

 ……わたしのように、なんの役にも立たない女にはやっていけない島だな。

 なにをおっしゃいます。ひとの上に立つ人間はどこでも必要ですよ。それに、わたしのように、文字を読み書きすることしかできない人間のほうが、この島では役立たずでしょう。

 ハシンタは眉間に皺を寄せた。

 しかし、われわれの使命は、このくにに文書行政を広めることだ……。

 イネスは片眉を上げた。

 これだけ手と口で別々のことができる頭の良いひとたちがたくさんいるんですから、なんとかなりますよ。

 楽観的だな……。

 ハシンタは首をかしげながら、さっさと屋上から降りていく。イネスはもう一度屋上を振り返ると、ロスウェンが視界に入る。集中して手を動かしているはずの彼女の手は、止まっている。彼女と目が合う。ロスウェンはまた頬を赤くし、慌てて作業に戻る。



 ということがあってからしばらく経った晩、自分の部屋の扉を開けたイネスは、手燭を取り落としそうになった。

 正面の机の上に、レースの付襟が置かれている。馬蹄のように広げられていて、縁飾りの微細に咲きそろった花模様や、いま止まったばかりのような立体的な蝶のモチーフ、風にそよぐ葉のつらなり――すべて白い光沢のある麻糸で織られている。蝋燭を机に置き、その赤みがかった灯りに、レースを持ち上げて確かめる。かるく、はかない感触の襟。目を凝らしても、織り目が見えない。

 かちゃかちゃと、ボビンを動かす音が聞こえる気がする。ボビンを撫でるように動かす青い手。ほそくまっすぐな女の指。顔を上げて、まっすぐこちらを見つめる青いひとみ。

 自分のてのひらのへこみを、彼女の指さきが押しなぞったまぼろしの感覚に、イネスはからだがかっと熱くなった。

 まずいことになった。

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