04.文具店のガラスペン①
カンデラ堂の窓は木製の枠に切り取られた開放感ある大きなガラスの窓だった。陽が落ちているにもかかわらずカーテンをしていないのは、そこが民家ではなく文具店だからだろう。
窓から漏れる暖色の光に誘われてふらふらと門をくぐり、重厚な木製扉の前で立ち止まった。別に今、どうしても買わなければならない文房具はない。必要に迫られているわけじゃない。ないのだけれど、どうしてもその店が気になって仕方がなかった。だって、骨董文具だ。
入るべきか、帰るべきか。どうしようか、と好奇心と理性の狭間で迷っているうちに、おれの意識とは別のところで不思議な引力に引き寄せられるように右手が勝手に扉を押していた。好奇心が勝ったのだ。開けた扉にドアチャイムは取りつけられていなかった。古い木製の扉がきしんで開くと、中から漂ってくる束ねられた紙の香りと、かすかなインクの匂いがおれを包む。ここは確かに文具店だ。おれは客も店員も誰もいない静まりかえった店内にそっと足を踏み入れた。
店の棚に並ぶのは、天井から吊り下がるシャンデリアの眩い光を浴びて輝くガラスペン、色とりどりのインク瓶。それから、いくつもの上品なデザインのレターセットたちが整然と並べられている。なんて、綺麗で繊細なんだろう。つい数分前にバイトを辞めてきたせいで、ささくれ立っていた気持ちがじゅわりと浄化されてゆくかのよう。気づけばおれは、白いベルベット生地の上でペン先を上に向けて行儀良く並べられた美しいガラスペンに手を伸ばしていた。
「……はじめて実物見た。綺麗だな」
思わず呟いて、手に取ったペンの感触を確かめる。すっと伸びた軸の先についているペン先の形はひとつじゃない。まっすぐ伸びたストレート、玉ねぎのように膨らんだもの。溝の数もそれぞれ違う。八本、十本、十二本。溝の一部を捻ったものや、螺旋状に溝が入っているものもある。
ペン軸も同じ形のものはひとつとしてなかった。シンプルな直線、美しいグラデーション、滑らかに描く曲線と、遊び心豊かな飾りがついたもの。人間工学的な計算は、きっとされていないんだろう。そうであるにもかかわらず、どのペンも手にしっくりくるんじゃないか、と思わせるような魅力があった。
けれど、と思う。
「ガラスペンは
ガラスペンが流行りはじめたのは二〇二〇年頃だ。ちょうどコロナ禍の巣篭もり需要として趣味としてはじめるひとが多かったように思える。書店にも手頃な価格でペンとインクが買えるセットが積まれていたし、中にはコンプリート欲を刺激されるのか、カラーセラピー的な癒しの効果があったのか、インクに特化して収集するひともあらわれはじめた。と、YouTubeやInstagramでやっていた。
店内を一周し終わって、無人のカウンターの前でふと足を止めた。誰もいないんだろうか。と、不思議に思いながら、カウンターの隅に無造作に転がされていたペンに手を伸ばす。展示されているペンとは雰囲気が違う黒いペン軸のガラスペンだった。ここは筆記スペースかなにかだろうか。いくつかの紙の束が置かれている。誰かが試し書きをしたらしく、側には中途半端に蓋が閉まっているインク瓶と、「Voglio un impiegato」と走り書きされた試し書き用のライティングペーパーの束がひとつ。
そのガラスペンは飾られていたものとは違い、ペン先だけがガラス製でペン軸は別の素材で作られていた。先端がふっくら膨らんでペン尻に向かって細く伸びている。全体的に艶めく黒漆が塗られていて、虹色にきらめく螺鈿の蝶が二頭飛んでいた。
「……これ、すごいな」
滑らかな曲線を補強するような漆塗りの感触を楽しんでいると。次の瞬間、黒いペンが指先から滑り落ち、硬いカウンターにぶつかって跳ね、木製の床目掛けて落下してゆく。
「あっ……」
しまった、と思ったときには遅かった。カツン、と高質な音が静まりかえった店内に響く。ペン軸とペン先は泣き別れし、床に転がったペンの先端は、呆然と立ち尽くすおれの目から見ても明らかなほど欠けていた。声を張り上げて店員を呼ぶしかない、と口を開けるのと同時に、背後から近づいてくる足音がひとつ。
背中にじとりと汗を滲ませて振り向くと、そこにはまるで鏡の中に映る自分のような男が立っていた。
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