03.バイトと推し事③
「違います。私、ストーカーじゃありません」
きょとんとした顔で首を横へ振る彼女は、その名前をユキコと言った。苗字は頑なに名乗らなかった。「圭祐くんが卒業したら結婚して同じ苗字になるのに、ここで言う必要ないでしょ?」という不気味な主張をして教えてくれなかったから。まったく意味がわからないし、そんな予定は微塵もないのに。
おれと店長はお化けか宇宙人でも相手をするように怯えながら、ユキコさんの気に障らないよう慎重に扉の近くの四人崖の席に誘導して話し合いを試みている。……のだけれど。
「ストーカーじゃないなら、なに」
「ふふっ、ぶっきらぼうな圭祐くんって新鮮。新規画ありがとうございます。どうしよう、動画撮ってもいい? 写真でもいいんだけれど。……だめ?」
ユキコさんはツケまつ毛とアイメイク、それからカラーコンタクトで盛りに盛った大きな目を興奮で潤ませて見つめてきた。僅かばかり小首をかしげる仕草は、可愛らしさを徹底的に研究されていた。嶋田あたりならコロッと簡単に承諾してしまうようなあざとさ。
けれど、おれは嶋田じゃない。上京したてのウブな学生でもない。何度も何度も痛い目にあった経験が囁く。冷めた目で見つめ返すような危険を決して冒してはいけない、と。だから、できる限り無表情に保って視線をそらす。そらした視界の隅に、フロアと厨房を仕切るカウンターの上に備え付けられたグラスホルダーが映った。ホルダーから吊り下がるワイングラスは整然と並んでいるのに、どうしてこのひとの発言は理路整然としていないのだろう。
「ねえ、撮ってもいい? いいの?」
「……ダメです。ダメに決まってるでしょう」
「どうして? 圭祐くんは私たちの生活を潤してくれる推しなのに」
ユキコさんの口から飛び出した「推し」という言葉に、無反応を貫いていたおれの肩が過剰反応してビクリと跳ねた。でた。推しだ。ユキコさんに限らず、どうして彼女たちは「推し」だと訴えれば、なんでも許されると思っているのか。
バイト先に押しかけ、同僚と少し話したくらいでヒステリックな悲鳴を上げ、大学やアパートまでついてくる。写真を勝手に撮られて無許可でSNSで共有される。推しであることを言い訳にして、ストーカー行為をエスカレートさせる。その中でも特にユキコさんは酷い。間接的にも直接的にも、おれに被害を与えてくるのは彼女だけ。もう、うんざりだ。
おれは奥歯をキツく噛み締めてユキコさんを鋭く睨みつけた。途端にユキコさんの頬が赤く染まり、とけたジェラートのように目尻が下がる。艶やかでふっくりとした唇が嬉しそうに弧を描く。その笑みが、どうしようもなく怖かった。
傍らで震え出すおれの様子に気づいてくれたのか。それまで口をつぐんでいた店長が、言葉を選ぶように喋りはじめた。
「うーん……話が全然通じないですね。僕の店に勝手に侵入しておきながら、あなたは不律君のストーカーじゃないって言うんですか」
「違います、誤解です。今日はいつも開店するまで外に行かない店長さんが珍しく外に出て行ったから、お店の中で待っていれば不律くんとふたりきりになれるかなって思って。ツーショット、どうしても撮りたくて」
「それをストーカーと言うのでは?」
深く深く吐いたため息と共に吐き出された店長の訴えは、ユキコさんの心には届かなかった。
「違います、私は推し活をしているだけです。不律くんは、わかってくれるよね?」
わかるわけがない。ユキコさんの言い分なんて、少しも理解できないし、共感だってできるわけがない。きっとユキコさんとおれとでは、使っている言語が違うんだろう。自分が話す言葉と非常によく似た発音だけれど、まるで意味が違うような。
そんな言語を話しているから、意味が通うことなどありはしない。説得は限りなく無意味に等しい。だからおれは、深呼吸をひとつした。深く深く息を吐き出して、長く長く息を吸う。その間、膝の上で握りしめていた拳はじとりと汗が滲んでいた。できれば自分から言いたくない。けれど、ひとのいい店長の口から言わせるのも申し訳なかった。営業前の鍵をかけた店舗の中まで侵入されたのだから。おれは意を決して乾いた口を無理やり開き、喉を震わせた。
「……すみません、店長。おれ、バイト辞めます」
「どうして不律くんが辞めちゃうの? ここ辞めたら、また会えなくなっちゃうのに!」
ユキコさんはどうしようもなく自己中心的なひとだった。
「あなたは少し黙っていてくれるかな。……不律君、君が悪いわけではないことは僕もわかってるよ。本当はずっと働いていてほしかったけど……君のバイト歴が両手に余るほどあったのは君が気まぐれだったんじゃなくて、こういう理由だったんだね」
おれが無言で頷くと、店長は悲痛な面持ちで「わかった。今日はもうこのまま帰って休んで。今月の残りの出勤は有給扱いにしておくから」と、おれの申し出を受けたのだった。
その後、店長がこっそり呼んでいた警察が来てユキコさんを連れていった。荷物をまとめたおれは北千住駅に向かって入り組んだ路地を失意のまま帰路につく。履歴書の職業欄に書くバイト歴がまたひとつ増えてしまったわけで。次のバイトは飲食店を避けるべきか、マスクとキャップの完全防備で挑む工場系が最適解なのか。どうしておればかりこうなるんだろう。と、うなだれながら歩いていたせいで、普段通らないような路地に入ってしまったことに気づかなかった。
十メートル、二十メートル。三、四、五十メートルと進んだところで、異様に古びた金属製の看板がふと目に入り、足が勝手に止まる。看板には店名らしき名前が小さな明朝体でほっそりと掘られているのが見えた。
〈骨董文具カンデラ堂〉
こんなところに文具店があっただろうか。鉄柵に囲まれた敷地の入り口には、石柱で造られた門がひとつ。その奥には木造と鉄骨で建てられた古びた洋館が、秋の夜の帳に包まれながら淡く橙色の明かりを灯して佇んでいた。
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