02.バイトと推し事②
アルバイト先は飲食店激戦区である千住の中でも、パスタとチーズの美味しい店として、グルメ系SNSや雑誌で頻繁に取り上げられるほどの店だ。イタリア料理とフランス料理の中でも庶民的でカジュアルな料理を提供する居酒屋で——ああ、いけない。ビストロと呼ばないと店長が怒るのを忘れていた。
店の開店時間は十七時。白い壁に暖色の照明があたって雰囲気のある佇まい。窓から暖かみのある明かりが漏れているものの、ドアの前には『close』の看板が下がっていた。左腕にはめたApple Watchは三十二分前。ギリギリだった。おれは乱れた呼吸を整えながら店舗裏にある従業員専用出入り口を目指そうとして、立ち止まる。
店先に、ひとりの熊のような大男が立っていたから。
黒いナイロン製のリュックを胸の前で抱え込み、キャップのツバを持った男が横に長いはめ殺しの窓から店の中を窺っている。ひょこひょこと上下に動く挙動不審な仕草に、おれは思わず声をかけた。
「店長、なにやってんですか」
「あっ……不律君。よかった、待ってたよ。僕ひとりじゃ怖くて怖くて」
「窓から店の中を覗いてる店長の方が、側から見て怖いですよ。もしかして中に誰かいるんですか?」
「そうなんだよ。仕込みが終わってちょっと外に出てたらさ、鍵が空いてて」
「鍵を閉め忘れたとかじゃなく?」
「閉めたよ、ばっちり。従業員用の扉のほうは、今もまだ閉まってる。でもお客さん用の扉のほうが……見てよ、ここ」
店長が指した鍵穴の下にある開閉マーカーは青色を示していた。つまり、鍵は空いているということ。目を凝らしてみると、硬い金属でつけたような細かい傷が鍵穴付近にいくつもついている。と、いうことはどういうことかというと。
「……鍵、空いてますね」
「空いてるんだよ。店の中に誰かいるんだよ……強盗かも」
「閉店後ならともかく、開店前のビストロになにがあるっていうんです」
「うーん……今日のスペシャルメニューのために取り寄せたA4黒毛和牛とか、生ハム原木とか? あ、今夜の賄いは奮発して黒毛和牛のステーキ丼だよ」
「なんですかそれ、めちゃくちゃ美味そうじゃないですか。……店長、入りましょう。おれ達の黒毛和牛を台無しにされたら困ります」
「不律君、思い切りがいいよね。だから君が来るまで待ってたんだ。……行こう」
と言う割に店長は、そのデカい図体を小さく丸めておれの背中に隠れるように扉から離れた。そうなると必然的に扉を開けるのはおれの役目になるわけで。だから深呼吸をひとつ。長く吐いて、短く吸う。音は鳴ってくれるなよ、と祈りながら息を止めて木製の扉をゆっくりと引き開けた。けれど、祈りは神様に聞き届けられなかった。
カランカラン。
扉の内側に取り付けられたドアベルが華やかな音色を奏でたから。来店を告げるはずのドアベルは、侵入者にとっての警報音と同じ役目を果たしたようだった。胸の内で上がる声なき悲鳴。動揺と失望で真っ白に塗りつぶされた頭。おれの背後に隠れていた店長が狼狽して扉にぶつかったらしい。カランカランカラン! 扉を開けたときよりも派手な音を立ててドアベルが鳴り響く。
「ちょっと店長、なにやってんですか」
ドアベルが鳴ったことで存在を知られてしまったのにもかかわらず、絞った声量で店長を責める。振り返ると、気が動転して今にも口から泡を吹き出しそうなほど店長の顔色は真っ白になっていた。
「ご、ごめん不律君……」
「えっ、フリツくん!?」
返ってきた声はふたつ。ガタガタと椅子から立ち上がる音がひとつ。店の奥のテーブル席に座っていたらしい女性の声は黄色く弾んでいた。その女性は嬉しそうに頬を緩ませて駆け寄ってきた——おれの方向へ。
咄嗟に身構えて片手で口元を覆う。露出する顔面面積を可能な限り抑えたかったから。それはここ八ヶ月で培った防衛本能であり、無意味な抵抗だった。そう、いくら必死で顔を隠したとしても無意味なんだ、と。もう何度も何度も思い知っているのに、馬鹿みたいに「そうじゃない可能性」を探してしまう。今だって、そう。
けれど現実は厳しいもので、ちっとも思い通りになんてなってくれない。おれに駆け寄り、その柔らかな腕を背中に回して抱きついてきた女性は、微かな希望を打ち砕く言葉を吐いた。
「久しぶり。いつもより二分十七秒遅いよ。寄り道でもした? ——
にこりと笑うその顔は見知らぬ顔だ。久しぶり、と囁く声は見知らぬ声だ。彼女はこのビストロの店員でもアルバイトでもない。ああ、またか。と、絶望が胸を支配する。おれの努力は報われないのか。と、失意の沼にどっぷり浸かる。
彼女が強硬手段をとったことで、おれのバイトは一ヶ月ももたないと証明されたも同然だから。歴代のバイトが最短三日、最長でも三週間しか継続できなかった理由。それこそが、彼女——いや、彼女のような存在なのだから。
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